感情タグBEST3
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『写生文的認識と恋愛』は漱石が直面した矛盾について、その矛盾に漱石がどう対処したのかを論じたもの。
『存在論的、広告的』は結果的にこれ以上ない『存在論的、郵便的』解説の役割を果たしている。
巻末の解説で、宇野さんも指摘していたように、デビュー当初のこの頃から最近連載が終了した『一般意志2.0』まで、東さんは同じテーマをひたすら追究していることが伺える。
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『存在論的、郵便的』と表裏をなす表題作「郵便的不安たち」他、文学・サブカルチャー・エッセイ等を収録した一冊。
『郵便的不安たち』『郵便的不安たち#』『郵便的不安たちβ』とある中でどれを読めばよいのかよくわからなかったが、解説によると『郵便的不安たち』(単行本)≒『郵便的不安たち#』(文庫化)→『郵便的不安たちβ』(再文庫化、加除あり――「思想・文学」系を目次から削除し、文化/時事批評の「存在論的、広告的」追加?)と言った流れの様子。いずれにしても文庫化はありがたい。単行本の『存在論的、郵便的』をうっかり足に落として結構痛い思いをしたり、そうでなくても移動時間に読もうと本を入れたとたんに鞄が重くなったりして随分時間がかかったからだ。
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日本のポストモダニズム潮流を分析してるのだが、そのときにアカデミズム=権力への意志の不在が前提された上で分析が進められている点が気になる。そのアカデミズムの不在が、どういう効果を生んでいるかってことも分析されないとポストモダニズムとかポストモダンのほんとの重要性ってわからないと思う。
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p22 しかし上述した九○年代の状況は、いまや批評の言語がその特権的役割を担っていないし、またそれを期待されてもいないことを意味している。というのも、メッセージ的強度とメディア的戦略の分割とは、見方を変えれば、アカデミックな批評には思考(メッセージの強度)はあるが日本語(流通可能性)がなく、逆にジャーナリスティックな批評には日本語はあるが思考がないという、思考と日本語の分割にほかならないからである。
思考のための新しい文体が必要とされるだろう。思考の強度と流通可能性をともに備え、「情報」の横溢のなかを意味を失わずに漂うことのできる日本語(…)。
ポストモダン再考
美学的に70年代のハイブリッド化さらた消費社会(が生み出す芸術様式)を肯定するジェンクス。
思想的に60年代のラディカリズム(68年の哲学)を継承するリオタール。
無理のある二重性を担わされてきた。
日本においてポストモダニズムについて考えるとは、また、八○年代のナルシシズムについて考えることである。
郵便的不安たち
デリダの哲学にはキーワードがない。ある特定のキーワードで世界を切るということがもはやできない。
デリダは「転移」を操作する精神分析的な人。相手によって使う言葉を変え、けれど会話が終わってみると相手が使っていた言葉の意味そのものが変わってしまっている。言葉の転移化。
郵便的超越論性。「偉大な哲学者というのは、いつもちょっと大きな郵便局だ」デリダ
象徴界という後ろ盾がない象徴の力、社会(政治と文学)という後ろ盾がない新しい言葉の力。
批判とはものごとの前提を明らかにすること。
(…)上客が逃げ、あとはペンペン草も生えなくなる。そういうプロセスが反復しています。賞味期限が一年もない。内輪の盛り上がりが示す他者への視線の鈍感ぶりが上質な人々を退けるプロセスは、思想の領域でも起こっています。(宮台)
(『存在論的、郵便的』について)浅田彰に頭がいいと思われる、そのためだけに一冊の本を書いてしまった。そのバカバカしさに呆れ果てます。
『ソルジェニーツィン試論ー確率の手触り』
固有名、確率、必然性、奇跡。
根源的な問いと、非根源的な問いの区別が存在しない。「なぜ」という問いの禁止。空しい問いか、運命の甘受か。個人的に嘘に参加しない道徳性。手段と結果の連関が断たれたとき、あえて「理由」を見出す試み。ユークリッド的世界(政治的言説)と、非ユークリッド的世界(宗教的言説)。必然的に思える堕落を逃れる「奇跡」。
手段と結果の連関が断たれた確率的悲劇的状況下で「因果関係の必然性」への根源的懐疑を抱いたときにどう振る舞えるか。空しく「なぜ」と問うのでなく、運命を甘受するのでもなく、堕落しない生き方。そのような「奇跡」はなぜ可能なのか。
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ひとは、わかってることしか分からないのかも。知ってること、体験したことに言葉が当てはめられたときに、説論ていうのはカチッとくるものなのかなー。整理されて視界が開ける。確かな快感。それだ、と膝を打つような。あるいは、そういう見方、つなげ方があったか!とか。いずれ、身のうちに既にあるものを見て読んでるー。
わからないものも沢山読んで、宿題として転がしておくと、十年後とかにカチッときたりする。けど、これは自分がわかる、が後から追いついただけのことだしなん。
というようなことを延々と考えさせられました。半分くらい、"先生ここわかりません"。批評になると、批評の対象作品まず深読みしとかんと無理やしとかもあるます。
パラフレーズや喩えの妙で救われるのも、知ってることに引き寄せて分かるから、なんて当たり前なのかもしれませんが。氏の言葉が好きなのは多分にその辺りの巧さ、そいと横断の多さなんじゃないかと。
わかるとこだけカチッときて悦んで、でいいよとどこかでおっしゃってたのに甘えつつ、たぶんきっと己がよかように"わかって"います。
そういう意味では、小説や映画や漫画アニメなどの表現、媒体になると、既にあることの説明だけでなく、無いものを有るにできるから、、、とか、いやほいでもそれは仮定と比喩という技巧と同じなのかな、とか、もこもこ脱線した。のも、横断する氏の在り方ありてかも。
いつも何周もするのも、追いつくまでいっぱい経験や思索を自分なりに積み重ねないとだからなんだなー、と思いました。分かった!て"コミュニケーション成立"増えたらいいなん。分かったしたらそっからまたこんな風に投函できるし、嬉しいです。
皆が皆、孤島に円満に生きて、ほんとに幸せかな?幸せなの?毒吐いて鬱になって幸せそうに見えないんだー。という相変わらずの宿題だけが残りました。
ぐだぐだ考えて、結局、明日から生き方が変わるかと言われたらそういや変わらないなーとも思ったです。