【感想・ネタバレ】生と権力の哲学のレビュー

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Posted by ブクログ

権力と主体をめぐって、フーコー、ドゥルーズ、ネグリ、アガンベンとその思考をたどっていく。問題設定が切実に感じられたために、記述の抽象性にもかかわらず、ぐいぐいと読み込むことができた。社会的存在としての私をどういう戦略で生きていくか、幾度も考えさせられた。

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2016年04月16日

Posted by ブクログ

後期フーコーの生権力論の核心をこれほど明快に浮かび上がらせた論考は初めてである。ドゥルーズの生の形而上学にもとづく管理社会論との対質も興味深く、アガンベンの剥き出しの生や証言をめぐる議論や、ネグリの帝国論も示唆的である。むろん、生権力に対する抵抗の可能性を中心に、今一歩踏み込んだ議論を望む向きもあろうが、入門書としての議論の深さは充分すぎるほどである。

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2011年01月15日

Posted by ブクログ

フーコーは「正義」に依拠する思考を徹底的に拒絶する。そうした「革命」の夢想が、実は管理=コントロール型権力が発揮される、もっとも格好の実例ですらあることを、理論的にも歴史的にも確認しようとする。フーコーの<生権力>論の一つの核は、排除されたもののルサンチマンに支えられた転覆の思考が、実際には権力の補完物や相補物でしかありえないという、この時代の政治的主張の困難さをどこまでも問いつめていくことになる。p32

正しい社会をつくるために、誰もが監視の一機構になり、誰もが権力の一翼を担い、誰もが誰かくぉ売り飛ばす。p106

生命と衝動によって見いだされる性という領域こそが、権力の攻略点であり、倫理や政治の焦点になることを、フーコーは示している。0111

「抵抗」とは「人間」によって行われるものではない。「人間」の視線に依拠した何かを述べたとしても、それは「人間」であることを支える<生権力>に絡めとられるだけである。そうではなく、われわれ自らが「人間」の「外」の「力」である可能性を秘めていることを、徹底的に見いださなければならない。端的に「人間」の「外」にあるものが「生命」である。それはわれわれにとって異様な面持ちにおいて現れるかもしれない。そこでは、物質としての生命そのものが、「人間」という枠組みの「外」で、多型的な可能性を生みだすのである。情報と生命のテクノロジーは、われわれにとって、こうした「生命」の力をとりだす契機でありうる。生権力的なものに「抵抗」することとは、こうした、「非=人間」としての自己を見いだすことにおいて、積極的に描かれるべきではないのか。p157

「法」とは、通常では「適法」か「違法」かの判断を与えるものである。だがそれは、あくまでも「法」の「内部」における議論にすぎない。あるいは「法」が成立した「内部」で描かれる「主権」に通用する議論にすぎない。そうした事態が覆されるのは、「法」が想定しない「例外」や、「法」そのものの「外」についての判断を下さなければならないときである。「法」はつねに、そうした「法」の「外」に触れている(単純にいえば、「法」は革命によって組み替えられうる)。p184

アガンベンは、「法」の「外部」を、たんなる「否定性」として放置するのではない。そこには生命という内実を見いだしながら、「法」を思考しなおそうとするのである。生とはまさに「例外状態」を引き起こすものである。「剥き出しの生」は「法」の「外部」でありながら、「法」に絶対的に現前してしまう。p189

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2009年10月04日

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