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Posted by ブクログ
著者はいわば「死別の作法」というべきことごと(看病の仕方、告知の仕方、臨終のまさにそのときの迎え方、葬送の仕方など)が宗教的なものにせよ非宗教的なものにせよ常に型にはめられたものへと回帰していってしまうことを執拗に指摘しています。これは「自由」に関するナイーブな態度と言えるでしょう。
死別に関することに限らず、ひとの行う差異化とは完全新規で独特のやり方を発明することではなく、所与のあるカテゴリと別のあるカテゴリとを対照させることで行われるものではないでしょうか。その差異化の過程で所与のカテゴリが解体されて複数に分けられたり、統合されたり、忘れ去られたりする。あるいは誤差が生じてふいに新たなカテゴリが創始される──話はそれますが、統廃合と誤差、その結果生まれるものを独自性・創造性の発露として評価するよう要求して、個人や個人の制作物に至上の価値を与えようとする運動が芸術ということになるのではないでしょうか──したがって真の問題というのはある選択が「自由」か否かということではなく、その選択がどのような条件のもとで行われるかということでしょう。あるひとがある作法を選ぶ。別のあるひとは別のある作法を選ぶ。その選択のちがいや、選択の機会のちがいが何に由来するかを論じることでしょう。「自由」そのものをうんぬんするのは政治的ないし法律的な議論です。「ひとが何を以て自由とするか」ということこそ社会学的な議論でしょう。
自分自身の体験として親との死別の経過を思い起こすときその選択肢の問題はまだ十分に客観化されていないようです。もしもあのときああしていたら・・・しかしああする以外にどうしたらよかったろうか・・・という思考はまだその選択の由来を云々するステップには進んでいません。