【感想・ネタバレ】歎異抄のレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

今週おすすめする一冊は、親鸞の教えを弟子の唯円が書き綴った書
『歎異抄』の現代語訳版です。現代語訳と言っても、本書は大胆に
も、思いっきりくだけた関西弁になっています。「金剛」を「ダイ
ヤモンド」と訳すなど、ちょっとそれはどうなの?と思うような部
分もありますが、画期的に読みやすいことは確か。日本史の教科書
の中でしか知らなかった『歎異抄』をあっという間に読めてしまう
手軽さは、やはり新訳ならではでしょう。

『歎異抄』というと、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人を
や」というフレーズが有名ですね。「善人が浄土へ行けるなら、悪
人だって行けるのは当然だ」という意味で、このような考え方を
「悪人正機説」というのだと、高校の授業では教えられたよぅに記
憶しています。それが親鸞の言葉だということも。

親鸞は、法然の弟子です。法然は、南無阿弥陀仏の念仏すら唱えて
いればいいという浄土宗を興しますが、その一門は、時の後鳥羽天
皇に弾圧され、僧籍を剥奪された上で、越後(新潟)に流されます。
親鸞、時に34歳。

しかし、流浪の民として、越後に行ってからが親鸞の本領発揮です。
親鸞は、出家した僧ではなく、一人の人間として、自ら土を耕し、
農民たちと語らいながら、念仏の教えを広めていきました。越後の
次は常陸(茨城)に移り、63歳で京都に帰るまでの期間をそうやっ
て庶民の間で暮しながら、信仰に生きました。

京都生まれの親鸞が、庶民に教えを伝える時の口調というのは、確
かに本書のようなものだったのかもしれません。そういう意味では、
本書の翻訳もあながち行き過ぎではないと言えるでしょう。

平易な言葉で説かれる親鸞の思想は、しかし、決して易しいもので
はありません。「自力」ではなく、「他力本願」で生きるというの
は、頭ではわかっても実践はなかなかに難しい。親鸞は、人間の善
悪の判断など、阿弥陀様という絶対の存在の前では無に等しいと言
います。人間が自力で解脱しようとするのは、賢しら(さかしら)
で浅ましい、「自分たのみ」ではなく、ただひたすら阿弥陀様のこ
とを信じ、自分の力ではどうにもならないと念仏を唱える「人まか
せ」の姿勢で生きる。それが幸福の条件なのだと言うのです。

中途半端に自力を突き詰めていくと、他人の存在は不要になります。
「自己責任」を言い続ければ、人と生きることの意味が自明でなく
なるのは、いわば当然の帰結なのです。他人の存在が希薄になり、
「自分」が肥大化した現代だからこそ、他力にすがる親鸞の言葉に
もう一度耳を傾けてみるべきではないかと思うのです。

自らの小賢しさに気づかせてくれる一冊です。是非、読んでみてく
ださい。

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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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善え奴が往生するんやさかい、ましてや悪い奴がそうならんはずが
ない。世間のしょうむない奴らは、悪い奴が往生するんなら、なん
で善え奴がそないならんことあるかいなというとるけど、なんや理
屈に合うとるようやけど、それは「ひとまかせ(=他力本願)とい
うモットーにはずれとるんや。
つまり、何でも自分の力でやろうと思うとる奴は、「お願いします」
ちゅう気持ちの欠けている分だけ、アミダはんのいわはる誓いと違
うとる。けども「自分たのみ(=自力本願)」という心を入れ替え
て、まあ「あんじょう頼みます」と願うとれば、ホンマもんの極楽
行きも間違いなしやで。

親鸞は、弟子は一人ももってはおらへん。なぜかちゅうと、自分の
意志やはからいでひとに念仏させたんなら、ワテの弟子やいうこと
にもなろうが、ひとえにアミダはんのおぼしめしで念仏するように
なったんやから、ワテの弟子やいうのんは、まったくもってオコガ
マシイこっちゃ。

念仏ちゅうもんは「(何かを)やろう」という作為性(=義)なし
に「やる」ということなんや。

「ナンマンダブ」と申すのも、アミダ如来はんのおはからいと思う
て、ちっとも自分の力なんか混じらんからこそ、アミダはんの本願
に応じて、ほんまもんの浄土に往生することができるんや。

目に一丁字もない無学なもんで、お経のことも学問の筋道ちゅうも
んも知らんものが、となえやすかろうと思うて、「ナンマンダブ」
ちゅう名号がおわしますんやさかい、これを「易行」、アンキで簡
単なやり方というんや。学問で何とかしたるちゅうのは、聖道門い
うて、これは難行、ごっつう難しいやり方というんや。「間違うて
学問して、名誉やの利欲なんぞにしがみついとるひとは、今度生ま
れ変わったつぢの世での往生はどないなるかわらかへん」という証
文(=証拠の経文)さえあるちゅうことや。

こないなアミダはんの悲願があるからこそ、こんなあさましい罪人
がどないしたら生死の苦しみから脱け出すこと(=解脱)ができる
んやろと思うて、一生の間「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と申す
念仏は、ぜえんぶ如来はんの大悲への恩返しやで、その徳を有り難
い、有り難いと感謝することや。

すべてのいろんなことにつけても、往生には賢しらな考えなど持た
ずに、ただほれぼれと、アミダはんのご恩がますます深いことをつ
ねに思い出してみるべきや。そうすれば、自然と念仏も口から出て
くるのと違いまっか。これが自然(じねん)の道理や。
自分であれこれ考えないことを、自然ちゅうのや。これがすなわち
「ひとまかせ(=他力本願)」ということや。それなのに、自然ち
ゅうことが別にあるように、知ったかぶりをしてものをいう人がお
られると聞いとりますが、ほんまにあさましいことやで。

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●[2]編集後記

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この一週間は、靴に悩まされた一週間でした。

先週の終末、久しぶりに靴を買ったのですが、それがどうしても足
に合わない。買う時に、ちょっと幅がせまい気がしたのですが、必
要性に迫られていたし、あれこれ選んでいる時間もないので、機能
性と値段を優先して、その靴を買うことにしたのです。

「これだ!」とピンときて買ったものではないですから、買った後
も本当にこれで良かったのかと心にひっかかります。で、履き心地
を試してみようと思って履いてみたら、やっぱり幅が狭いのです。
紐をゆるめにすれば何とかなるかなと思っていたのですが、半日も
履いているとどうしようもなく締め付けられ、足が痛くなってくる。

合わない靴というのは、もうどうしようもないのですね。たいてい
のことは調整すれば何とかなるし、時間が解決してくれもしますが、
靴だけはどうにもなりません。それが悔しくて悔しくて。

どうしても必要だったので、今週末、改めて買いにいったのですが、
やっぱり「これ!」と思えるものがないのです。こんなにモノが溢
れているのに、自分の今の必要を満たす一足に出会えないというの
は一体どういうことなのかと頭を抱えるやら、腹が立つやら。

今回は必要に迫られて買ってしまいましたが、やっぱり「これ!」
と思えないままに買うのはいけませんね。喜びがないし、本当に正
しい判断だったのかといつまでも尾をひきます。ピンと来るものに
出会えなかったら、どんなに必要に迫られていようが、買ってはい
けないのです。逆に、「これ!」と思えるものに出会えたら、金に
糸目をつけずに買ってしまう。結局、ピンとくるかどうかが重要で、
それ以外の情報や状況に惑わされてはいけないのでしょう。

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2012年01月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 親鸞の弟子・唯円が記した親鸞の言行録。なのでプラトンにとっての『対話篇』、孔子にとっての『論語』にあたる。この本はもともと口語体で書かれたものなので、関西弁での現代口語訳になっている。

 この本の最大のポイントは「他力本願」。今でこそ他力本願というと、「最初から他人をあてにする」という否定的な言葉として使われるが、これは原義と異なる。

 実際の「他力本願」は一切の衆生を救う阿弥陀仏に「お任せ」、「お願い」すること。衆生というのは皆あらゆる煩悩具足に囚われた凡夫=悪人なのであり、それを自覚した悪人が救いの対象になる(悪人正機説)。

 この有名な説は、誰かを頼む拠り所のない悪人「南無阿弥陀仏」と唱えることで、阿弥陀仏に「お願い」できるのに対し、自力作善(自分の力で何でもできる)の人は自分を頼み、阿弥陀仏に「お願い」する心が欠けているという理屈によるもの。

 私はこの本を通して、阿弥陀仏は自分が煩悩まみれの救われない人間であるであることを救うということ、「俺が俺が」という我執に囚われて独善的になってはいけないということを学んだ。実際、この本で仏教の宗派同士で「お前らは劣っている」と言い合って法敵を作っている状態があることにも触れられている。

 浄土真宗はわかりやすく、誰にでも実践できたから多くの信者を獲得できたのだということも改めて認識した。

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2011年06月19日

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