【感想・ネタバレ】訂正可能性の哲学のレビュー

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Posted by ブクログ

『訂正可能性の哲学』を読んでいるあいだずっと感じてたのは「とてもエヴァっぽい」ということだった。「AI民主主義」に対する否は、要するに「人類補完計画」を拒否するということにあたる。LCLの海に溶けてATフィールドを失うということは、つまりは固有名を失うことだ。だからこそ『Q』においてシンジがシンジとして救出されることが必要だったんだといまわかった…。要するに、訂正可能である固有名としての「人間」にしか、世界を訂正することもまたできない、ってことなんだろう。

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2023年09月07日

Posted by ブクログ

訂正する力に挫折していたところ、友人から勧められて読みました。

まだ、一通り目を通しただけですが、訂正する力に比べるとはるかに読みやすい。

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2024年05月23日

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私はSNSはやらないが、SNSには、白黒ハッキリさせるような論議を生む機能が内蔵されており、その意見の差が大きい程、人は反論の熱意が高まるようだ。それは宗教論争のように相手を屈服させ、自らの正義を知らしめようとする。その根底には論に仮託した承認欲求の維持、自意識を失いたくないという気概すら見える。

その状態はヤバい。社会は、訂正し、実態にアジャストする機能を有していたはずではないか。また、完全な根拠で立論して最適解を弾く「人工知能民主主義」にはリアリティが無いが、実現するとしても、その無謬性ゆえに「訂正可能性」を欠くならば、あってはならない。こと哲学においても、過去の論考を引きながら訂正するのは、人文学における当然の作法である。あるべき筈の「訂正可能性」を訂正強度のミスリードにより敵味方に分断したり、片方の論説を過敏に扱い過ぎる、または自論を完璧に信仰し過ぎるのはいかがなものか。本著の論旨は、そうしたあるべき「訂正機能」を消失しないようにというメッセージを含むものだと読解した(あくまで個人の意見であり、書評)。

観光客とは、友にも、敵にも分類できない第三の存在。家族とは、自ら選択して集められた集団ではなく、いつの間にかそこにあるもの。こうした二つのカテゴリーを駆使して、確定した立場や意見の危うさを看破する。そして、クリプキのクワス算を象徴的に援用する。

ー 僕たちは、すべての問題に中途半端にしか関わることができない。これは決して冷笑主義の表明ではない。それはすべてのコミニケーションの条件。足し算の規則すら完璧に提示できず、ソクラテスの名前すら完璧に定義できない。そのような単純なことに対しても、原理的に他者からの訂正可能性にさらされている。

人文学者、いや社会学でも私は疑問に感じるのだが、誰それがこう言ったという言辞を弄して、それは実験データでも無いのに、なぜ得意気に論説を複雑化してしまうのか。彼らは皆、自信がない。あるいは教養=記憶力が売りのナルシストなのかと。東浩紀は、訂正可能性をモチーフに、その答えを本著で与えてくれた。

ー 人文学は過去のアイディアの組み合わせで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこういった、ヘーゲルはこういった、ハイデガーはこういったといった蓄積を活用し過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。ヴィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正するといった訂正の連鎖の実践である。この訂正こそが、人文学の持続性を保証する。

ー 成田氏による無意識民主主義、人工知能民主主義については、実現不可能だと考える。例えば戦争のように情動が沸騰する事態に対応できない。無意識が常に公共の利益を指し示すわけでもない。訂正可能性の概念を導きの糸としているのは、一般意思とその暴走を抑制するものの、拮抗関係についてより明確に説明できると考えたからである。アルゴリズムの構築そのものも疑わしい。人工知能民主主義は、訂正可能性を消去するから問題なのだ。

改善ではなく訂正。いや訂正にも「正しさ」を語感に含むので、少し齟齬があるようには思うが、社会構造上、当たり前にあったもの。必ずしも良い変化とは限らぬが、あるべきもの。それがインターネットやAIにより、消去されぬように。私はそういう読み方をしたのだ。後は訂正していけば良いではないか。

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2024年05月04日

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事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あるなと思うところもあるが、合意できる内容。議論する、難癖つける、相手を思いやる、そういう社会性で人の幸福は成り立ってる。何かに意味を見出すのはこれからも人がやりたいことなはず。

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2024年03月27日

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著者がおわりで述べている哲学とは、過去の哲学に対する再解釈であるという姿勢が体現された著作だったなと。 過去の文献の丁寧な読み込みと再定義から発する「訂正可能性」の意義。人間に対する親しみを込めた諦観が、著者の人間愛を醸し出す。

ところで過去の作品から文体が変わったとのこと。ぜひ、『一般意志2.0』あたりから振り返りたいなと。もちろん今後の創作活動にも期待しておりますです。

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2024年03月24日

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クリプキのある種詭弁ともいえるような議論から「家族とは訂正可能性の共同体だ」(p88)と驚くべき議論が展開されていく。そして、AI・ビッグデータのような技術で人間社会のリセット(いってみれば完全最適化)はできないと説き、「私」という固有性の感覚に直面しない思想は「欠陥」(p258)と切り捨てる。
00%の民意や100%の正義、100%のテクノロジーはありえない。
『ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ』(p343)
アメリカ大統領選でトランプ氏の再選が現実味を帯びるなかで、そして日本でも、議論なき一方通行の政治・文化が展開されるなかで、ごく当たり前の、そして大変まっとうな主張だといえる。訂正することを認める。変わることに開かれる。そこからしか、我々は前に進めない。

ちなみに、訂正する「家族」として、日本の天皇制をイメージしてみた。あたらずとも遠からずではなかろうか。つまり「男性」一辺倒じゃなくてもいいだろう、と著者の議論を使えばそういう結論が導かれる。訂正していいだろう、と。日本の少しでもまともなエリート、言論人ならば、本書を手引としてもらいたいものだ。

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2024年03月18日

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「動ポ」の頃の東さんのような文体と、まるで大学で講義を受けているかのような懇切丁寧な脚注。
文系軽視の日本社会を「人文学への信頼の失墜」と自己批判しつつ、著作によって回復させようとする試み。
当時は近しい考えを述べていた、と吐露しつつ徹底されている落合・成田(というか、人工知能民主主義への)批判。
ルソー人物伝から繰り出される社会契約論の再解釈。
常に誤り、訂正するのが民主主義であり、ひいては生きていくということであり、理解するのではなく変化させていくのが哲学の役割という明瞭な論旨。

なんの事前情報もなく、ふと東さんの最近の仕事を一気に読みたいと思って手に取ったのですが、コロナ禍以降の取り組みの集大成で、大変労作でした。

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2024年03月13日

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久々ずしんと来た一冊。

ヴィットゲインシュタインの言語ゲーム、ハンナアーレントの公共の議論、ルソーの一般意志と『新エロイーズ』などなど、読み応え盛りだくさん。


「家族」って一言で言っても全然違うんちゃうか。
「公共」って何。
「民主主義」(人工知能民主主義)ってほんまに大事なとこどこなん。
の辺のすごく現代時に取ってこそばゆいところに上手く手を伸ばして深く掘り下げてくれる本。


笑いを取って笑顔にするには自虐ネタだけ繰り返したりツッコミだけでは限界があるから、やっぱりテンポとボケと間があってしゃべくりが続いていくことこそ醍醐味やなと、ごちゃごちゃした街中の中で育った(今も難波以南はごちゃごちゃしてるけど)大阪人の感覚に置き換えて最後の方は読んでた。

同時に読み進めていた土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』も、まさに「訂正」の実践そのもの。

「訂正可能性」の考え方は、子供がごっこ遊びをどんどん変更させてルールをどんどん変更していく過程から料理から政治から全てに通じてるので、すごくしっくり来る。読んでいる読者自身にも共通して持ってる感覚ではないか。

「誤配」のその先へ、僕たちが生きていく荒野に不可欠な戦略のように思う。

一読する絶対に価値あり。
大学生ぐらいの本を読めるようになる時期に出会ってたら、人生変わるぐらいになるのでは。
それぐらい名著。

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2024年02月18日

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浅田彰が『構造と力』が「完全に過去のものとなった」と、お世辞とも本音ともつかないコメントを寄せた処女作『存在論的、郵便的』から25年、スタイルや力点は随分変化したかに見えるが、東哲学の集大成とされる本書は処女作で既に予告されていたようにも思う。「脱構築」から「訂正可能性」への進化は何を意味するだろうか。

人と人とのコミュニケーション、あるいはその前提となる共通理解はいかにして可能か。それは「誤配」であり、分かり合えるのは偶然に過ぎず、確実な根拠などないとデリダは言う。しかしともかく手紙は配達され、開封され、そして読まれる。「誤配」と判明しない限りコミュニケーションは何の問題もなく継続される。不思議と言えば不思議だが、まずはその事実を受入れるところから始めよう。こうした構えは郵便本に既に潜在していた。

ウィトゲンシュタイン的に言えば、言語ゲームのルールは記述され得ないが、事実としてゲームは遂行される。「家族」という概念も同じで、根拠はよくわからないがともかく人々に受け入れられるある種の関係性のメタファーだ。底の抜けた関係性であったとしても、そこからしかコミュニケーションも社会も始まらない。関係の自明性は常に不確実性にさらされる。でもだからこそ「訂正可能」であり、それを許容する開かれた態度が必要になる。これは未来の予定調和を暗に想定するポパーの「反証可能性」とは似て非なるものだ。「熟議」ではなく「喧噪」に民主主義の可能性を探るのも、冷たい合理性より素朴な実感の方がはるかに頼りになる、それが東が自らの社会実践から得た確信であるからだろう。

「脱構築」と言いながら、デリダがそうであったように浅田はあくまで「脱」に加担する。「逃走せよ!」と煽りつつ何処へ逃げるかを示さない。逃げる場所があると脳天気に信じる古典的左翼よりはましだが、浅田の意図がどうあれ、結局は負けを前提とした悪あがきのポーズを演じたに過ぎず、そういうものとしてニューアカデミズムは消費された。それに比べて「訂正可能性」は実に平凡ではあるが、はるかに大人の哲学だ。「脱」を許容しつつも、遡行的に見出された「構築」を謙虚に受け止め、熱くそしてまたユルく社会にコミットする。それはネット社会がもたらす分断とデジタル民主主義のシニシズムに抗する東浩紀の取り合えずの到達点だ。

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2024年01月07日

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素晴らしかった。第一部はリベラルなソーシャルセクター界隈で「家族」を語ることの難しさがどこにあるのか、それをどう乗り越える対話を考えていけば良いのかヒントを得たし、第二部では多面的で一貫性のない私たちという前提を受け止めた上で民主主義というものをどのように考えうるかルソーの「一般意志」の新解釈を語る構成と筆致が見事。分断的でポピュリズム的な政治や見てるだけで傷つき疲れるネットにもう一度向き合う気持ちも湧いてくるし、仕事や活動として触れている各地の自治につながると信じる実践に活かしたい学びも多かった。続けて『訂正する力』も読みたい。

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2023年12月10日

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東浩紀による観光の哲学のその後の哲学。訂正可能性の哲学とは乱暴に要約すればかのようにの哲学であり、動詞的に考える哲学でもあり、フランス現代思想の系譜にあるように思えるのだけれど、民間にいることもあり、アカデミズムな文脈では評価されていないという。ご本人はそんな評価は望んでいないのだろうけれど。一般意思とは事後的に振り返った時に成立しているという考え方はまさにヘーゲルの哲学に該当していて、あたかも意思があるかのように歴史が発展してきているけれど、それは事後的に意味を確定させたときにのみ成立する考え方でもある。

それにしても高度な哲学的議論をここまで平易に語ることのできる著者の才能には改めて感服。

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2023年11月21日

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これは時宜に適った哲学書だ。

民主主義の行き過ぎ、純粋性を時間的継続性の枠組みからガッチリ捉え、訂正可能性を実装させる取り組みだ。

個人的にはローティの思想が広く取り上げられていることに深い印象を持った。

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2023年11月05日

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ネタバレ

正しさとは正しさを求め、訂正し続ける姿勢にしかあり得ない。結論にはとても勇気づけられた。政治に限らず、生き方や行動のあり方として、非常に納得のいく考えだった。
アカデミックなところもなくはないが、哲学書としては非常に読みやすく、かつ内容が充実していて読み応えがあった。

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2023年11月03日

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人間への諦念を前提とした内容ながらも、これをポジティブ、いやニュートラルに捉えられる読後感だった。人間とは、決して合理的で強い存在ではなく、情念に振り回され他者を傷つける弱い存在である。これを、だからといって単純に人間を排除する思想に走るのではなく、それでも過ちを訂正し続けていくからこそ持続可能であると結論付けている。それは、悲観主義ではなく、かといって理想主義でもない、とてもプラグマティックな考え方に思えた。
カール・ポパーが提唱したように、一見すると絶対的だと思われる科学でさえも、その正しさは常に暫定的なものでしかなく、それは反証可能性に開かれている。同様に、正しさの基準も時代や文化によって驚くほど変わる。発話は他者によって誤読され、訂正され、再解釈されていく。人間のコミュニケーションとは、所詮そのようなものでしかない。このような前提に立てば、データや AI に意思決定を委ねる「人工知能民主主義」も、科学やテクノロジーという一側面に依存しているに過ぎない。そのような似非的な「一般意志」には、統計学的な代表性しか現れず、固有名や個々の意志は排斥されてしまう。そこには主体性は宿らず、人間性の退化を招くことになってしまう。人間は不完全な存在であり、不完全にしか物事に関わることはできないが、だからこそ、常に過ちを発見し、正していく「訂正可能性」を持つことができる。そして、不完全な存在だからこそ、正しさを探求し続ける自由が保証される。本書を読んで、プラグマティズムへの関心がより強まった。

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2023年10月02日

Posted by ブクログ

観光客の哲学の続編として、同書で序説に留まっていた家族の哲学を、ヴィトケンシュタインとクリプキを参照した言語ゲームをもとに訂正可能性の哲学として発展させ回収している。

後半はシンギュラリティ肯定論への反証論理の提出という形で、上記の訂正可能性の概念を活用しながら、著者の過去の著書たる一般意志2.0をアップデートする内容で、これからのあるべき民主主義についての示唆を提示して結論とする流れになっている。

様々な思想家の論理構造(あるいは再解釈された論理構造)の間の鏡像性を手がかりに議論を発展させる批評的理論構築が、丁寧な整理のもとで示される。当たり前だが、完全に固有の新しい民主主義のあり方が結論として提示されるわけではないし、結論だけ取れば「〜ではない」といった、受容されている世界の見方の否定にすぎないか、あるいは個別に見れば自ずと明らかな示唆(リバタリアニズムの肯定的受容や取組の持続可能性の重視、正しさを訴求的に訂正する態度といったもの)といえる。本書の意義はそれを読者に腹落ちさせる著者の論旨の組み立て方であると感じられ、その狙いは特筆すべき水準で達成されている。

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2023年09月18日

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観光客と家族との繋がりがいまいちよく分からない。観光客の章がない方がスッキリ読める
なぜ観光客という概念を強引に入れているのだろう?そこにこそ著書のこだわりがあるのではと思います。

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2023年09月13日

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この本は、これからも何度も読み返すことになる。考え続けることの意味を、こんなにも優しく分かりやすく語りかけるような本を書いてくれたことに感謝する。人間とは、迷って間違ってどうしようもなく、だからこそ愛おしいんだ。
それから、理系の夫と文系の私で、「自然」という言葉の定義が違うのだろうな、という事に気が付かされた。違うところから出発して、議論を深められたらよい。

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2023年09月08日

Posted by ブクログ

- 民主主義の本質=訂正し続けるということ
- クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で出したクワス算の例
- 人間の作り出した定義は曖昧で、絶対的に正しいとは言えない
- 成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はない(人工知能民主主義
- ルソーの一般意志=絶対的に正しいもの、自然にも重ねられる
- 全体意思(個人の意思の集合)とは違うもの
- 一般意志の「訂正」は不可能に思われる
- ルソーの小説『新エロイーズ』を読み解き、「訂正可能性」を探る
- サン=プルーとジュリの間の愛は自然
- ヴォルマールはそれを人為的に上書きしてジュリとの「自然」な愛をつくりあげようする
- 観光客的存在アイデンティティがはっきりしない存在が訂正可能性を生む
- 家族も本質的には訂正可能性を内にはらんでいる

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2024年05月02日

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『観光客の哲学』の続編である本書は前書の主張を引き継ぎつつ新たに”訂正可能性”という概念にポジティブな可能性、それは究極のところ、民主主義社会における新たな可能性を見出す。

本書の主張は、末尾に収められた以下のようなテクストで要約される。

”だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない”(本書p326より引用)

”ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ”(本書p343より引用)

前著の『観光客の哲学』では「敵か味方か」という二元論を超える存在として”観光”という行為にスポットライトがあたっていたが、その二元論には「◯◯は正しい」という価値判断があり、その価値判断に合致したものが味方とみなされる。昨今の社会分断を見れば明らかなように、現代社会はこの”正しさ”をひたすらに追求してきているように思う。

しかしながら、我々は常に正しい判断を下せるわけではない。むしろ自らの”誤り”に気づき、その意見を変えていくことこそが重要であり、”誤り”、ひいては”訂正可能性”をポジティブなものとして受け入れるべき、という著者の主張は、極めてアクチュアルな意見提起であると私は強く感じた。

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2024年01月14日

Posted by ブクログ

訂正可能性自体は可謬主義的なこととの違いがはっきりとは理解できなかった。

ヴィトケンシュタインの言語ゲームやクリプキの議論から原理的な訂正不可避性については新鮮さを感じたが、そこから導かれることは、可謬主義や批判的思考の重要性、脱構築の正義など既存の思想との違いがよくわからなかった。

一般意思が独裁などにつながる危険性も他書でも見られる主張に思った。人工知能民主主義とう概念は私は意識していなかったので、ルソーの思想とのつながりもふくめ、その発想や概念はなるほどとおもった。

私自身も、人工知能民主主義については、人間の理性の限界は、ほぼ原理(HW限界)におもうので、人間による政治では「加速主義的な技術のブレークスルーが起こるという希望を除けば」いきづまっていると思うので、非常に納得感がある。

ただ、むしろ、いまのように社会や政治が危うく混沌としたままのほうが、結果としてイノベーションが起こりやすく、加速主義的な希望を信じる意味では可能性があるのかもしらないとも思う。

また、結局著者も、人工知能民主主義自体は肯定しつつ、そこにあらがう人間の活動や感情を取り込むモデル(2院制みたいなものか?)が必要という主張なのかなと理解。それ自体も、人間のHW限界を踏まえると、非常にその通りだと思う(少なくとも、未来100年ぐらいのスパンで)。

また、筆者からは草の根の結社みたいなものが多く活動し、意見?なりを戦わせるような希望を読み取ったが、それ自体が、民主主義の比較的古い理想で、現代を見るに困難に感じた。

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2024年02月17日

Posted by ブクログ

1055. 2023.09.10
・前半は家族論、後半は民主主義論。
・前半は遠回りな議論で「家族」概念は必ずしも閉じているとは言えないという程度の話。後半は「データ民主主義」を不十分で危険なものとして批判するが、藁人形論法に陥っている。

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2023年10月19日

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