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社会的弱者は言葉を否定され続け、言葉を語ることを諦めてしまう。日本の和の精神が言葉の足かせになっている。日本はルール違反に対しても寛大だが、他人の苦境も見て見ぬふりをする。要するに個人と個人のコミュニケーションをほぼゼロに留めておく国だ。日本人は客観的な立場から論理を使って語るのはそれほど苦手ではない、しかし、主観的に語る対話、(ここで言う「対話」とは各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観に基づいて何事かを語ること)はにがてである。日本人は(一般的に)言葉を額面通りに受け取る関係よりも、発話者の意図と言葉の字面が微妙にずれることを了承するのに独特の美学をもっている。しかし、その美学にかまけて言葉や態度を軽視してはならない。対話を遂行するものは、「客観的態度」「主観的態度」の間を行く。自分の固有の状況・体験・感受性をまるごと引きずりながら、しかも客観的心理を求めて語りだすのだ。限りないわからないわかったりの揺れがあり、果てしない「ここまではわかった、だが、ここからはわからない」という限定が続く。この営みこそ対話である。生み出された対立をどう統合するのかというヨーロッパ的思考に対して、そもそも対立を避けようという日本的考え。それを認知しない考え。それを殺す考え。
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オランダに行って、オランダに関する本を色々読んで、
どうしてこの国の人達は、反対派の人達と協働で何か事を起こしたり出来るのだろう?
対話をすれば良いと言っているが、対話ってそんな効果があるのだろうか。
と思っていましたが、
この本を読んで自覚した。自分を含め日本には普段は「対話」がない。
対話がなかったから、オランダで起こっている事柄が腑に落ちきれていなかったのだ。
この本は20年前に書かれているが、今は少しずつ変わってきているかも。
日本では「対話」をするためには、それが出来る場を敢えて設定してあげることが必要で、
カフェ型トークなど「対話」を生ませる様々な試みが開発、実践されつつあるのかな。
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対話を会話と勘違いすることなかれ。
「思いやり」や「優しさ」といういい言葉の裏側には対立を避ける自己利益の追求があった。本来的にそれらは他者へ純粋に向いているべきであるのに。対話はそのような感情に縛られず、先入観を除外して論理的に取り組むべきもの。自己責任なのだ。
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地位や年齢や知識を脱ぎ捨て、自分固有の実感に基づいて言葉を発すること。これが就職した会社でいかに排除されているかを、今一度かみ締めた。<対話>から目を背けて人並みの生活を手に入れたとしても、そこで「生きる実感」は薄いという確信がある。自分は「純粋に」どう感じるのかを、生涯大切に自覚し、機会を作って発信していきたい。
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「空気」に従わないこと、自己主張をするということの大切さです。
私語が続くと、教室を出ていく中島先生。
しゃべらない学生に対して「いいかげん黙るのはやめなさい!」という中島先生。
カンニングをした学生と徹底的に対話をした話にはうるりときた。
意味のないきれい事の標語に対して怒りを覚え、
放置自転車に神経質なまでにキレて警官とまでやりあう中島先生
という、前半の話は笑いが止まらなかったが、
「思いやりの暴力」や「空気」に逆らうこと、そして対話とはどういうことかを叩きつけられたような気分である。
ディスカッションや討論とは違い、自分を背負って真理に開かれることが「対話」とも言える。そして、空気を壊すことで、傷つくことも一身に引き受ける決断。
弱者の声を押しつぶすことなく、耳をすまして忍耐強くその声を聞く社会。空気に流されて責任を回避するのではなく、あくまでも自己決定し、自己責任をとる社会。
対立を大切にしながら、そこから新しい発展を求めていく社会。
ひねくれものの義道先生にしては、本当にスッキリした読後感でした。
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もはや常識となった「空気を読む」という行為を始め、人間関係や社会現象などを「対話(対立)」という視点から見て書かれた本。
本書を通して、「もっと対話をすべきだ」と言われているように感じた。
「対話」の定義を、「自分の意見を主張することで人と対立した場合に会話によってお互いの意見を理解しようとする行為」としたとき、文面だと穏やかに見えるけれど、実際に遭遇すると口角泡を飛ばすイメージになってしまう。
異なる意見の人に自分の意見を分かってもらおうとして、でもわかってもらえないと感情的になることが予想される。対話の相手が、もう何をやっても壊れない関係ならそんな対話もできると思うが、そうでない間柄の人同士だと、その対話によって関係が悪化することが考えられる。
和を重んじる日本人だからこそ、そうなる前に妥協し、対立を避けるのかもしれない。
または、そうまでして理解してほしい強い意見をもっていないだけだろうか。
興味のあるテーマだったので全体を通してサクサク読めた。
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同調圧力が日本人から言葉を発する機会を奪っている。これはいわゆる「空気読めない」問題にも繋がっている。学者先生の著は往々にして読み難かったりするのだが、この本はユニークで大変読みやすかった。
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コミュニケーションの典型かつ第一歩は対話である。
しかし日本は、公の場で特定個人を評価あるいは非難することがはばかられる(優しい構造=和の精神)社会であるので対話が成り立ちにくい社会である。一人一人の間の格差が大きければ大きいほど対話によるコミュニケーションは成立しにくくなる。だが、そんな今こそ対話の難しさを再認識するとともに、それにとらわれずに対話を行っていくことが大切である。
なぜなら、対話をすることが、即、「よく生きる」ことにつながるからである。
思えば、プラトンの書いた著作集は全て対話から成り立っていた。
(以下略、中村雄治郎『問題群』に譲る)
【標語と言霊思想】
古来より日本の文化を根底から形成する重要な概念、それは井沢元彦氏らがその著書で論を展開する「言霊」思想である。
昔、アニミズム信仰の時代には、万物に意思があり、そのひとつひとつが力を持つと信じられていた。それは、石、木など、自然界のものから言葉といった人間が作り出したものにまで及ぶ。このうち、物活的な部分は時代情勢や発達した科学の流入によりほぼ捨て去られたが、言葉に力が宿るという言霊思想だけはなぜか今なお根強く残っており、日本文化の大半を形成している。
古い時代、天皇などの社会的強者はこの言霊を使って政治等を行い、それが名残として現代、標語・放送という形であらわれたのである。このような標語を掲げていれば大丈夫というあさましく、単純な言霊的目論みが~無意識的にしても~あるのは間違いないのではないか。
一方、社会的弱者、例えば庶民であるとか、強者に比べると立場が弱い存在はどうかというと、昔も今も変わらず強者の決定にただ従うだけであった。これは、日本における「和の精神」が端的に表れたものである。「和」を保つためには、強者に対して批判は許されない。したがって、多少の不満があっても弱者はただ沈黙するのみ、聞き流すのみなのだ。これゆえ、庶民な日本人はそれが知らず知らず身に付き(遺伝かな??)、「言葉を大切にせず、言葉を「聞き流す」態度を産出している(P72)」のだ。
よって、街頭の標語を見てもただ何も感ぜず、通り過ぎる。あまつさえ、たまにスプレーで落書きしていく。あるいは蹴り倒してストレスを発散する。そのくらいの反応しか我々日本人はしない。「流す」だけで、いちいち標語から何かを得るようなこと、標語に感動することなんて全くないのである。
我々日本人が「言葉を大切にせず、言葉を『聞き流す』態度を持っている」との指摘は決して外れてはおらず、むしろそのことが日本的な形式主義をつくるのに大きく役立っている。標語はその極端に外面を重んじる姿勢が生んだとも言える。
標語は「みんな」に向けられており、「特定個人」に向けられているものではない。したがってそれは形骸化しており、社会的強者による一方的な「暴力※」でもある。
(※大衆に訴えかけることで美を目指すものが、かえって美観を損ねるというパラドックスに陥るような汚い看板や垂れ幕、放送などもある。これが結果として暴力と言われることなのである。)
中島氏はこのような管理標語や管理放送抜きに生きられない社会(=対話のない社会)は恐ろしいと主張する。
ここで中島氏は〈対話〉(※狭義の哲学的対話)のある社会を提唱。
〈対話〉は「各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値観にもとづいて何事かを語ること(P102)」であるので、すなわち、各自固有のスタンスで語り合うことであるので「異質な諸個人が異質性を保持しながら結合する(P103文は井上達夫『共生の作法』創文社のもの)」こともあり得る。その結合の過程は真理探究の過程であり、したがって〈対話〉には真理への意思が必然的に伴う。
その〈対話〉が日本に存在しないのは思いやりと優しさという二つの暴力的美学が大きく影響しているからである。思いやりや優しさは、他者との摩擦や対立を徹底的に避けるという本質によって我々に真実を語れないようにしてしまう。また、根底的な日本文化、その中でもかたや和の精神などと呼ばれたりする状況功利主義によっても〈対話〉は圧殺されてしまっているのだ。状況功利主義による支配、それは一見「得」に見えるが、実際、大きな「損」なのである。
本当に「得」をするためには、個人個人が対話を行えるよう主義を持って、〈対話〉のある社会をつくらねばならない。
〈対話〉をいくら増やしたところで、日本は欧米のような訴訟社会になりはせず、もう少しはいい社会ができる。〈対話〉のある社会とは、弱者の声を聞く社会であり、空気に支配されない自律を各個人が持った社会である。
すごく面白い日本論、日本人論だった。
※標語は中国にもあるらしい。ただ、内容はやはり中国らしくって、「祖国を愛せ」だとか。全体主義引きずってますな~。
***
上は10年以上前に書いた文章なので、いま読み返すと論理が粗く稚拙で恥ずかしい。
でも当時のまま載せます。
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一連の不明高齢者問題を目にして、再度読み直したい著作。
<対話>と聞いて「お隣さんどうし声を掛け合う」などということを想像してはいけません。個人主義とは何か、他者理解とはどういうことか、哲学的に深い話です。
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☆私語が蔓延する
授業中の私語は「教師に失礼だから」いけないのではない。
それを見逃す教師は、ほかの生徒の聞く権利を奪っているし、自分のことばに誇りをもっていないからだ。
「やさしさ」とは違うよね。うん。
私語厳禁の先生の授業ってたいてい面白いもん。
☆「会話」と「対話」の違い。
前者は「雰囲気」や「相手の気持ち」を重視するもの。
オブラードにくるんだもの。
後者は言葉を使ってありのままの自分をさらけ出すこと。
世渡りに必要なのは会話力。
親密な人間関係で必要なものこそ、対話力。
たいせつな人にこそ自分を知ってほしいし、考えを伝えたい。
会話ができる人はいても、わたしを含め対話をできる人というのは本当に少ないんだろうな。
変な話、「会話」ができれば友達にはなれるけれど、どんなに仲良くても「対話」ができる人でないと恋人or配偶者にはなれないだろうなー。
一般論ではなくこの面倒くさいわたしの場合はね(笑
また対話は「ディベート」とも違う、つまり自分の立場から離れたことを論じたり、相手を打ち負かすものでもないということ。
そう、対話は否定するのではなく真理の追及だよねw
よくいわれる「やさしさ」とは人を傷つけてはならないと思われることがある。
そして人を傷つけないために本音を言わず、ありきたりの言葉になってしまう。
でもそのことばって人を傷つけないけれど、人に届くこともないんだろうな。
人を傷つける可能性があるとしても真実を伝え、責任を負うという生き方がとてもかっこいい。
この人は自分の言葉に誇りをもっているし、他人に対しても自分にたいしてもとても正直なように思う。
たしかに言葉は弱いし、つらい目にあったときに一瞬にしてそれを打ち消すような言葉はない。
それでも言葉を使い続けたい。
この人の授業に潜りたい!
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対話とは何か?
そのことについて、真摯に力強く書かれている。
たとえどんなことであれ、相手との対話を求める姿勢は強い。
目をそらしてはいけない。
「ここまではわかる」「ここからがわからない」
そのあゆみよりは尊い。
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中島義道の著作は、シニカルな文章が多々あるが、述べていることには納得のいくことが多い。
多くの著作に目を通したが、特にこの『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』は、
まさに必読の一冊。
いかに自分が、対話が壊されているがゆえに苦しんでいるのか分かる一冊。
ぜひ読んでほしい一冊だ。
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最近、学校教育の現場で
しばしば求められる「対話」。
けれどもこの書では、
今なお学校現場で求められている
「思いやり」「優しさ」が
実は「対話」の芽を摘むんでいる、という
ある意味トンデモナイ主張がなされている。
けれども、順を追って読んでいくと、
身近にある様々な出来事が細かく描写されており、
このトンデモナイ主張が
見事に現実味を帯びていることが分かる。
彼の望む社会は「対話」のある社会、
つまりは「思いやり」「優しさ」の比重を落とし
互いに日常で本音を言い合える社会である。
ある意味“欧米化”した社会でもあるが、
西洋を100%よしとしているわけではないので注意。
ともかく芽から鱗の著書である。
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大勢に語りかけても意味がない。名指しで注意すべき。
私語をするのは言語道断。みんなに人の話を聞く権利がある。
聞くふりをすることだけ上手くなることは無意味。抗議すること、聞きたくないと主張すること、自分の言葉に責任を持つことが大切。
「わからない」と発言することを我慢してしまう。など理由を伝えるのは大切。
彼らは自分の言葉を信じていない。
自分の言葉に威力があるなんて思っていない。
いつも和の精神を重んじられている。
だから黙っているし、それが当たり前。
規則さえ守っていれば安全が保障されている。
自分から働きかけることを忘れている。
定型の意味のない言葉が溢れすぎていて、聞き流すことに慣れている。
お上からの標語やスローガンがなければ行動できない人間は自分で考えて生きていけない。
わかった気になり、単純な質問をしないことで対話が終わってしまう。
弓道の無心、無心になれと言われて納得するのが日本人。
独白の集合ではなく、固有の体験を引きずりながら地道な手探りによって真理を目指す。
対話の敵は思いやり、配慮、優しさ、察する文化。
真実より思いやりを優先することで弱者の声が押しつぶされ続ける。例、人をかばって罪をかぶる。
傷つけ合わないことが大切にされ、利己的な優しさだけが蔓延る。
注意した人は真実が何にせよ、傷つけたことが責められる。
なりゆきに任せておけば責任を持たなくて良いと思っている。
思いやりとは弱くて卑怯で自分は加害者ではないと信じる暴力である。
ホットでなくウォームなやさしさが最新。
人を傷つける可能性のある言葉を使わず、距離を保ち、あたたかさで包む。
不平不満を出させないのが最良とされている。
様子を見ることでずるく善良で居続ける。
自分の信念を貫くと損をする。
我慢を誉める。自尊心の軽視。
誰も傷つけない言葉で語ることは、何も語らないのと同じ。
対話は他者との対立を大切にすること。
他者とはもっと重いもの。
澱んだ優しさの空気に馴染んで、それがなければ不快になってしまう。個人主義の排除。
論理を振りかざして対話を根絶やしにする。
Posted by ブクログ
日本的スピーチの怒りに関して書かれている頁は痛快だった。私は結婚式とかでよく聞く「諸先輩方を差し置いて誠に僭越ながら・・・」みたいなのが大嫌いなので、読んでて爆笑だった。
ルール違反者を徹底的に追跡するドイツ人の話、中島先生が違法自転車をぶっ倒して歩く話などは本当におもしろい。
しかし、子供に対するプールサイドを走るなとかの日本の注意喚起に関しては、事故が起こってからじゃ遅いのでそれはうるさくてもいいんじゃないかな?と思った。欧米(米はわからないが)ではそこも自己責任になるのかもだけど。特にプールの場合、中には泳げない子供だっているわけだし、万が一ぶつかって落ちて溺れたなんてことがあれば大変だもんなぁ。
Posted by ブクログ
賛否分かれるかもしれませんね。
うちは賛成です。
悪いことを悪いといけないのは
おかしいことだと思うんですよね。
他人をしかられることを嫌と思っているのは
はっきりいって自己保身なんですよね。
しかられなければ何がいけないことも
わからない。
だから本当にしかってくれる人
目を向ける「おせっかい」って大事だと思いますよ。
うちはそういうのがあったから
見た目はかなりあれだけれども
しょうもないことはやらかさないですし。
この本が賛成の理由は
CMや注意書きの項目。
こんなん言われなくてもわかるでしょ?
どれだけ考える力ないのと
同じ人間としてあきれてしまいました。
Posted by ブクログ
どうして日本でのコミュニケーション・日常生活が何となく窮屈なのか。上辺だけのとりとめもない会話ばかりで、つながりも持ちづらいのか。そうした疑問に対して向き合う視点を与えてくれ、内容もかなり痛快。
Posted by ブクログ
『対話』とは言語を用いた、発展する相互理解である。
1.自身の体験談で対話のなさを嘆く
2.会話と対話の違い、日本と欧米の相互理解の過程の違いを示す
3.対話の意義
この三部構成からなる。
最初はがんばっている教授の憤りを荒々しくぶつけているだけで抵抗感を感じるが、読み進めて行くと主張の妥当性、重要性や危機感などが感じられる。おそらく麻痺した日本人に対して、軽くでなく、ガツンと言わないと伝わらないんだという著者なりの考えなのだろう。
優しさや思いやりの使い方、認識が甘いと横暴な一面があるなど、納得できる。責任を負うのを避け、摩擦を嫌い、言葉を失いつつある日本人。昔いた近所の怖いおばさんやおじさんがいなくなったのも、対話することを避けるようになったことによる弊害か。
今までここまで深くは考えてなかったので☆4つ!あえて突っ込むなら、最初は体験談を交えて自論を展開してたのに途中で文献、それも少し前の歴史的文献を持ち出したところが少し読んでる流れをせき止められた感じがした。
Posted by ブクログ
興味深い本だった。
自分の言葉を語ること。相手と真剣にバトルこと。自分の言葉や言動に責任を持つこと。
なんだか細野先生を見ているみたいだった。
・彼らは言葉を信じていない。自分の語ることが周りの人たちに尊重されてこなかったから。
・「暴力的に無意味な」言葉、はやめよう。
・「対話」とは自分固有の体験や価値観にもとづいて何事かを語ること。
・プラトンがソクラテスに「きみは自分が裸にならないで、服を着て感染しているのはズルイ。」
・ソクラテスの弟子たちは、数時間後に死にゆく師を眼の前にして、次々に「先生、まだその証明では納得いきません。先生の魂は消滅してしまうかもしれません!」
・対話の基本原理。「相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
・「なぜ?」という疑問や「そうではない」という反論がふっとでてくる社会。
Posted by ブクログ
古本屋で100円で投げ売りされていたので衝動買い。「頭がおかしい人ランキング」を作ったとしたら、自分の中ではトップに躍り出るであろう、「おかしい」哲学者・中島義道の本。
もはや題名を見ただけで何が書かれているのかの大枠が読めてしまうのがおもしろい。実際に予想どおり―厳密には予想をある部分では上回っていたのだが―ながらも、声を上げて笑ってしまうところもあるくらいおもしろい文章だった。とくに、駐輪禁止ゾーンに止めてある自転車をめぐる、酔っぱらったときのやりとりでは爆笑してしまった。
単純におもしろいと思う部分と同時に、自分の感覚と非常に一致しているのがツボに入った。普段自分が周りの人間にバンバン言っていることがそのまま書かれているという既視感を感じるのだ。実際に中島のいうような〈対話〉が本当に行われにくいことが身をもって実感させられると同時に、もっと〈対話〉をしろよ、という怒りもわいてくる。そんな自分は中島と同じくらい周りに煙たがられているんだろうなと感じるのと同時に、やはりこの態度は必要だと自己肯定させられる。そして、自身のことに関する内省に誘われる。また、中島の言っていることは至極まっとう―まっとうすぎて困るくらいだろう―なのだが、それが好き勝手適当に述べられている反面、背後にはしっかり勉強してやがる、という中島の「卑怯さ」も見逃せない!
中島義道の態度には好感と同時に嫌悪感も湧き上がってくるのがたまらない―同族嫌悪? これだから中島義道の本を読むのは止められない。
Posted by ブクログ
[ 内容 ]
「何か質問は?」―教師が語りかけても沈黙を続ける学生たち。
街中に溢れる「アアしましょう、コウしてはいけません」という放送・看板etc.
なぜ、この国の人々は、個人同士が正面から向き合う「対話」を避けるのか?
そしてかくも無意味で暴力的な言葉の氾濫に耐えているのか?
著者は、日本的思いやり・優しさこそが、「対話」を妨げていると指摘。
誰からも言葉を奪うことのない、風通しよい社会の実現を願って、現代日本の精神風土の「根」に迫った一冊である。
[ 目次 ]
第1章 沈黙する学生の群れ
第2章 アアセヨ・コウセヨという言葉の氾濫
第3章 「対話」とは何か
第4章 「対話」の敵―優しさ・思いやり
第5章 「対話」を圧殺する風土
第6章 「対話」のある社会
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
Posted by ブクログ
最初、大学教授の愚痴が書かれているのか?などど思って読んでしまったが、現代社会の「対話」の無さを心から嘆き、うやむやにせず、自己責任においてきちんと発言している中島さんの勇気には敬服した。
大学教授は、(勝手な思い込みだけど)事なかれ主義の人が多いのではないかと思っていたが、ここまで真摯に自分の仕事に取り組み熱心に行動している人はなかなかいないのではないだろうか!
Posted by ブクログ
巷でコミュニケーションとか
コミュニケーション力が大事とか言うけど、
なんかその言葉嫌いでした。
とっても違和感持っていた自分にとっての謎解き本。
この著者はあくまで<対話>のみをコミュニケーションとして
認めるというものだったけど、とっても勉強になった。
「真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、
対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと、
これこそ<対話>なのだ」
中島さんの本を読むのは2冊目だけど、
ここでも中島ワールド炸裂で、ほんと痛快です。
ある意味とてもグローバルに生きた方だし、
学術的にも権威のある方だし、(たぶん)
生き様がとても素敵で尊敬する。
いろんな角度から楽しめる本。
Posted by ブクログ
偏差値の低い人たちは、反論することができない。無言になってしまうというのがショックだった。話せばわかるという以前の問題があることに全く気付いていなかった。その他、日本の空気や会議のあり方に、言葉という観点で切り込んで分析している。なかなか読み応えのある、興味深い本だった。
Posted by ブクログ
学力が低くなるほど言葉への信頼を失っている。学歴差別を口にしてはいけない。(今は逆差別が起こっている気もするが)--勉強ができるが故に肩身がせまい思いをしなければならない、排除されぬよう気をつけなければならない低レベル環境。
大学教師は学生から言葉を奪っている。
ルール違反者に対して寛大で温情的な我が国民は他人の苦境を見て見ぬふりをする国民でもあり、個人と個人のコミュニケーションをほぼゼロに留めておく国民でもある。
日本人がルール違反するのはみんながそうしている時。ルールは個人が決めるでなく、集団的にひとりでに決まっていく。個人はよいルールをみずからの決断で選べない。
性急な近代化、無批判な近代化。「支え合い」さえも上から言われたからしなきゃいけないものでしかない。嘘くさいスローガンがあらゆることを聞き流しあらゆることに眼を向けず判断をしないかげろう人間を作る。
日本人は目的が定まった議論に関しては苦手じゃないが目的に関する議論が苦手。対話は会話ではない。「言わなくてもわかる」が通用しない、空気を読むが通用しないのが対話。一方的スピーチでもない。思いやりはエゴイズムの変形。そこに勇気は必要ない。純粋な思いやりは結果的に相手に害悪をもたらす場合も見越してある行為をすること、そして結果的に対してはキチンと責任を取ること。言い換えれば思いやりを押し付けないこと、喜んでもらうという報酬を求めないこと。
傍観者は保身のためにいじめをとめない。弱い人間は優しさによって殺されていく。他者との対立や摩擦を極端にさける。この目的のため自分に異質な他者との接触を恐れる。
ヨーロッパでは生み出された対立の総合に重たる努力が向けられるのに対し、日本では対立そのものを生み出さない、あってもなかったことにすることが求められている。
現代日本人は他人に関わりたくないという強烈な願望を持っている。自分が辛くない些細なことも他人は辛く可能性がある。
Posted by ブクログ
自らの言葉に自らの心を表して、自らの言葉に自ら責任をもって、相手の言葉に真剣に耳を傾け、相手の言葉で他者との差違を学ぶ「対話」が、日本には少なすぎることを指摘し、「対話」の獲得によって社会の風通しをよくしようと主張する一冊。
大変共感できる内容でした。
Posted by ブクログ
独特の価値観?日本の中では個性的と思われる著者による、日本に散見される言葉の亡骸。言葉を使えない、使わない、空っぽな自分になりつつある現代人。それらの原因を思いやりや優しさに見出しながら、批判している。そして、対話の効果を提唱している。
確かに著者の言うこともわからないでもない。ただ、その発言が過激だと感じるのは、それほど自分もこの日本に染まっているからだろうか。しかし、少なくとも私の周囲には対話や言葉の力を活用できている人がいると感じる。そんなニーズを対話を用いて満たせるようにしたい。
Posted by ブクログ
良くも悪くも中島義道。
文章読んだだけで誰が書いたか分かるって言うのは考えが一貫してるってことだから、長所ではあると思う。
でもまあ極論にすぎないよね言ってみれば。
言いたいことはよく分かる。日本人はもっと積極的になるべき。
でも欧米のやり方が日本に当てはまるとは限らない。
何でもかんでも欧米を引き合いに出すのはどうかと思う。
Posted by ブクログ
この本は1997年に発行されており、確かに、その時代、「やさしさ」「思いやり」というキーワードで
若者が語られていたように思う。大平建が「やさしさの精神病理」をかいたのもこの頃か。
対話、会話、討論、それぞれ異なる意味をもち、使い分けされる必要があるわけだが、
対話を下記のように定義
「対話を遂行するものは一方で、自分の置かれた状況からの独立の「客観的態度」を持って語るのではなく、他方、自分の置かれた状況に縛られて「主観的態度」を持って語るわけではない。<対話>はちょうど両者の中間を行く。自分の固有の状況・体験・感受性をまるごと引きづりながら、客観的心理を求めて語り出すのである。」