【感想・ネタバレ】遠い朝の本たちのレビュー

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ネタバレ

何よりもまず人間。

詩と自然にひたりたかった私が、なによりもまず人間,というフランスやイタリアのことばに,さらにこれらの国々の文学にのめり込んで、はては散文を書くことにのめりこんでいったのが、ふしぎな気がする。p206
と、かいておられる。須賀敦子さんの、子ども時代学生時代を振り返る本書を貫くのは、読んだ本,作者やその登場人物、行動から本能的に,そして本質的にかぎとり、受け止めてきた、何よりもまず人間ということ。

サンテグジュペリの,人間の土地。飛行機とともに、われわれは直線を知ったという文章がある、と、須賀敦子さんは引いている。牛や羊に依存していた人たちによって作られた、くねくねと曲がった道をたどっていた時代の社会通念と、都市と都市を直線でつなげることを知った空からの視点を人間が手に入れた時代のそれとは大きく変わるはずだと言う事をこの短い文章は指し示しているが、これは宇宙飛行士の視点に通じるものに他ならないだろう。空から地球を見るようになって、と、サンテグジュペリは、書いている。私たちは、(… )宇宙的尺度で人間を判断することになったのだ。人間の歴史を(もう一度)さかのぼって読むことになったのだ。
という須賀敦子さんの文章,は、飛行機により新しい時代新しい尺度新しい人間性を大いに期待しながらも、飛行機により戦争やさまざまな,今ならCO2エミッションなどの厄災ももたらしてきた、インターネットがウェブやコンピュータの登場も当初はなんら同様の直線化による無限の可能性無限の新尺度を期待させながらも、新しき良き時代だけではなく、飛行機でもないさらにドローンなるもので人間も土地も破壊できるようになっている,そんなことを思いながらも、なによりもまず人間なのだという須賀敦子の一貫したよりどころに、救済される。

冒頭と最後の、しげちゃんのこと。くらい戦争の時代を、精一杯カラフルに生きようとし、くらさや嘘,欺瞞、偉そうな感じ,排除やきなくささに敏感になりながら自由自分らしさを求めて生きたおふたり、そこにつながるリンドバーグと一緒に飛行機で冒険したアンモロウリンドバーグの、世界を空から見る目線と,庭に咲く草花や木の芽をありのままに捉える目線。
須賀敦子さんならではの筆致,圧巻と感じるのはやはりイタリアのシエナの坂道の章,シエナの聖女カテリーナとの邂逅。

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2023年03月12日

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妙先生にお借りした本。
子供の頃感じたこと、本にまつわること、そういったことを大切に、素直な気持ちで書けるなんてすてき。子供の頃何が大切だったか、どう感じたのか、そういったことを大切にしている人が好き。例えば、中勘助とか。忙しない日々に、つかの間の透き通った時間をもらえた気分。アン・リンドバーグも並行して読んでいる。そんな年頃なのかな。

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2012年09月30日

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著者の生きてきた背景や感じ方・考え方・捉え方に共感するところが多く、吸い込まれるように読み終えて、著者が小さい頃から読んだ本についての感想に感化されて何冊か読んでみたいと思った。

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2011年10月22日

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 アン・モロー・リンドバーグの『海からの贈り物』は、名著として名高い。試しに、ある程度本を読んでいそうな女性何人かに訊ねると、「読みました」とか「勿論読みましたよ」と返ってきた。中には「私の一番の愛読書です」と答えたひともいた。単なる随筆の域を超えて女性の生き方の指針たり得る一冊であるらしい(「らしい」というのは、私自身は男で『海からの贈り物』もよく読んではいないからだ)。
 そのアンも、多くの場合姓名ではなくてリンドバーグ夫人と呼ばれてしまう。実際、新潮文庫版の著者名でさえ「夫人」となっている。まるで、歴史的な冒険旅行家であるチャールズ・リンドバーグの配偶者であるということが、この女性の最大の存在意義であると言わんばかりの呼称である。
 それはともかく、大西洋単独飛行で有名な夫君のチャールズと妻のアンの二人が、カムチャッカから千島列島を経て日本まで、小型機で飛来した時の記録が『北方の旅へ』で、アンの処女作だ。本邦では昭和十一年初出の山本有三編の『世界名作選』(日本少国民文庫)に抄訳が紹介されている。
 須賀敦子は、その一文との出逢いと、後に忘れることなく深く刻み込まれたその時の感慨を『遠い朝の本たち』の中に記している。後世に生きる私の眼には、稀代の女流名文家二人の運命的な邂逅に見えてしまうのだけれど、昭和十七、八年ごろと思われる当時の二人は、著名な冒険飛行家の妻に過ぎぬ女性であり、空襲に怯える日本の小さな、勿論無名の少女であった。
 リンドバーグ夫妻が千島列島に不時着し、救援を待つ場面の記述がある。その記述を読んだ半世紀後に須賀敦子が回想する。日本のどこなのか、人が住んでいる島なのかどうかもわからぬ島の葦原に浮かぶ暗い機内で、じっと耐える二人の様子が、奇跡的といえる臨場感で迫って来る。そうして、幼い須賀さんは、「いつか自分もこんな風に書きたい」とも思う。そして「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった」と半世紀後の須賀さんは回想する。それは著作者としての須賀敦子の生成過程であり、同時にひとつの人間形成過の断面図である。しかも極めて見事な断面である。須賀敦子の透徹しきった目と記憶とに鳥肌が立つほどだ。
 鳥肌ものの記述はもうひとつ。
 アンが日本語の「さようなら」について語ったくだりと、それを読んだ須賀さんの感慨とである。
 「さようなら」は「左様ならば仕方ない」という運命を静かに受け入れる、日本人の美しいあきらめの心の表現だとアンは説く。それを読んだ須賀敦子は、外国語の側から日本語を見る視線の透徹性を感得する。やがて川端康成を伊訳し、ナタリア・ギンズブルグを和訳することとなる翻訳家須賀敦子の礎となった原体験だったのだろうと私は解釈する。さらには、日本語からイタリア語、イタリア文化から日本文化へと二つの言語、二つの異文化世界を行ったり来たりするうちに(ちなみに彼女は英語、仏語にも堪能)、自らの中で違和感というものが雲散消滅してゆく、その過程が、須賀敦子の魅力の計り知れない深さと広さとの根源であるようにも私には思える。
 60近くになって彗星のごとく登場した彼女は、巡り合わせの如何によってはミラノの主婦として生涯を終えていたかもしれない人だった。登場以来亡くなるまでの数年間に10冊ばかりの作品を遺した。
 私は今その十冊ばかりの珠玉の著作群に嵌り込んでいる。順繰りに繰り返しそれらを読み続けている。いつかは、須賀敦子の人と作品の魅力についてキチンと書いてみたいと思っている。だが、今はまだ、伝えきれるような言葉を知らない。それほど広く、深い。
 須賀さんは、アンの『海からの贈り物』からもひとつの表現を引いている。それは、人間にとって孤独とは、あるいは一人になることは何なのか、それを問いかけている。私は、須賀さんの人生と作品の奥底にある掴みがたいなにものかを掴むヒントが、そこにある気がする。
 アンの一文は以下の通り。
 「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時にだけしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならねばならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである」

 最後には、一人確固として立っていた須賀さんの内奥に潜む、確かななにものかが見えた気がしてならない。

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2011年03月01日

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須賀さんの本を読むのは初めてではないけどすごく久しぶり。
本に対する思いや本をめぐる出来事について書かれたエッセー集。
この方の感受性に触れることで誰もが優しい気持ちになれるんじゃないかと思います。
全部楽しく読めたんですが、その中に「人間のしるし」という本に関するエピソードがありました。
(私その本知ってる?多分読んだことある?)と思ったものの、借りたのか買ったのか詳しくどんな話だったとかは思い出せません。(後から探してみましたが家にも見当たりませんでした。)
もやもやしつつ読み進んでいたら須賀さんがその本の中の一文を引用してました。
それを読んだ瞬間、鳥肌!
私もその部分抜粋してノートに書きだした記憶がある!
思いもかけず須賀敦子さんとの共通点を見つけてすごくうれしくなりました。

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2010年10月26日

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この本の中で知った、「さようなら」という日本語の意味。

「そうならねばならぬのなら」・・・本当に、なんて美しい諦めの表現だろう。須賀敦子さんは、アンの文章を読んで「もう一度日本語に出あった」のだろう。私は、須賀敦子さんが紹介してくれなければ一生このことばの意味を知ることはなく、感動もなく使っていただろう。

須賀敦子さんの文章には、必ずはっとさせられる。

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2009年11月03日

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ぐっぐっと何か力をいれながら書かれているようで、
ひとつひとつ選び抜かれた言葉が重い。

はじめとおわりが、著者の友人じげちゃんの昇天。
やさしい言葉と、正直なことばでかかれているから、
なんだかとても心にしみて、
ついうるうると来てしまう。

著者の読書歴を垣間見ると、自分は読書好きではあるけれど、読書家ではないと思い知らされる。
父親との本でつながれた関係には自分を重ねたし、
本を通じて「あの時の自分」を手繰り寄せられるのは
うらやましくて、自分も将来そういう風にできような
そういう読書をしているかと問うてみることにつながった。

私の好きな米原万里も、須賀敦子も、
自分の昔を振り返って「少女時代」という言葉を使うが、私は自分の幼いころをどうしても「少女」という言葉で捕らえられなくて、すごく新鮮だった。
私もいつか、自分の昔を「少女」として受け止めるのだろうか。


「そのために自分が生まれてきたと思える生き方を、
他を顧みないで、徹底的に探究する」というくだりに
線を引いた。


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2009年10月04日

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ああ、私が大事にして読んだ「ケティ物語」。想い出させてくれた。私にとっても「遠い朝の本たち」がたくさんで、忘れられない。これが、彼女の「遺著」である。帯に本文からの引用がある。     あの本を友人たちと読んだ頃、    人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちていることを、     私たちは想像もしていなかった。誰にでも「遠い朝の本たち」があって、そして須賀敦子という人の書くものは、これからはもう増えないのだ、と、少し震えるような心で読んだ。

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2011年07月19日

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須賀敦子さんの文章って、声に出して読みたくなります。母も「海からの贈りもの」を持っていたので、今度読んでみよう!

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2011年10月11日

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須賀さんの本、初めて読みました。
わかりやすく、すっきりとしていながら、やわらかく情景が浮かび上がってくる文章に心が震えました。

見たことのない情景が、目にも心にも浮かぶように感じました。
時を超える感覚が新鮮で、もっと他の本も読んでみたくなりました。

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2023年09月22日

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ネタバレ

須賀敦子さんのエッセイ。
過去の自分や読書について語られています。

小さいころからの友人、
夙川から麻布に引っ越したときの出来事、
隣人の俳人(原石鼎)のこと、
「少女の友」の中原淳一の挿絵、
などなど。

取り上げられている本が特に有名な本とは
限らないところが興味深く、
「即興詩人」「戦う操縦士」
「幼きものに」を読みたいです。

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2019年07月11日

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本が大好きだった著者が子供時代に出会った本たちをエピソードと共に紹介。
静かで美しくゆったりした時間という印象。
子供の頃大好きだった本、大草原の小さな家シリーズを思い出した。
人生に影響を及ぼした本が私にはどれだけあるだろうか、、そんなふうな本の読み方をしたいと思える本でした。

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2015年11月07日

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読んだ本を思い返すことは、その時の自分の思い出を手繰ることなんだと教えてくれる。
美しい言葉で語られる情景は素晴らしく、読んでいると須賀敦子さんの思い出に入っていくようです。

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2012年12月01日

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ネタバレ

1年ぐらい前にも読んだけれど、再読。須賀さんの文章は読んでいるとわたしの時間の流れをさりげなく変えてくれるから好きだな。

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2012年03月11日

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感受性の鋭い子ども時代に多くの本との出合いを経験し、それを成長過程の風景と共に記憶している著者を羨ましく思った。

最初は、本との幸福な出会いを綴ったエッセイだと思ったけど、どんな本も出合って不幸になるものはないかもね。

アン・リンドバーグの「海からの贈物」は読んでみたい。

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2012年01月05日

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ネタバレ

小川洋子の『カラーひよことコーヒー豆』の中に出てきた、
まだ読んでいない本だったので迷わず手を伸ばしました。
どことなく寂しく、でもとても幸福な読後感に浸ることが
できました。
言葉の選び方がとても無駄がない。そしてすっきり整って
気持ちがいいのです。
幼いころの本との出会いや思い出は私のそれとは全然違って
思い切り豊かなのだけど、出合ったわくわく感はよく分かります。
彼女の文章を読むとたとえ夏の描写があっても初冬を感じる
のは、全体に漂うどこか寂しい雰囲気のせいでしょうか。
読み終わるのがもったいないと思ってしまいました。

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2010年12月24日

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須賀敦子は憧れの人。この本は大変な読書家で「いつも本に読まれて」いた彼女の、本との出合いとエピソードがたくさん書かれている。彼女の作品は私にとって、読むたびに刺激を与えてくれる特別な存在。背筋を伸ばして潔く生きていた彼女が選び抜いた言葉は本当に美しい。だからページをめくるのも勿体無くて時間をかけて読む・・。とても大切な本のひとつ。

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2010年07月27日

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遠い朝・・・まだ人生の深さなど知らなかった少女時代・・・そして、大人になるまでに読んだ本の思い出をその時代の風景やエピソードを織り交ぜて語っている。単なる本の紹介でなく、その本と自分との関わりを美しい文章で綴られている。
中でも、サンテグジュベリ(星の王子様)やアン・モロウ・リンドバーグ(海からの贈り物)への深い思いに共鳴してしまった。
                      ちゃちゃ

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2012年07月28日

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ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、長い時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えていたことがどっと心に戻ってくることがある。


それが著者は外国の言葉、動詞だそうな。こういう話を読むのも面白い。幼少時代に読んだ本ってけっこう大事なんだなと改めて思ったり。

そしてコピー機のない時代の大学生活というものに思いを馳せてしまった。

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2010年01月17日

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 世界戦争になって、痛いほど詩が欲しくなる日々と、詩などなくても生きられそうに思う日々が交互にあった。
(P.143)

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2018年04月10日

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ネタバレ

2015.7.10
幼い頃における本にまつわる体験を静かに語るエッセイ集。
題名が秀逸。エッセイの雰囲気を体現している。
本に囲まれた環境が羨ましい。
本がいつでも側にある、そういう生き方を肯定している。ひたすら本とともに生きる著者の姿に励まされた。
本と共に生きるということの一つの理想を見出した感もある。
行間から本への思いが溢れでている。本とこんな関係を結べたら、これ以上の幸せはない。

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2015年07月10日

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「幼い時の読書が私には、ものを食べるのと似ているように思えることがある。多くの側面を理解できないままではあったけれど、アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった。いや、そういうことにならない読書は、やっぱり根本的に不毛だといっていいのかもしれない」

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2014年12月24日

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著者が遠い昔に読んだ本の記憶。
多くの大人が、幼少期に読書という体験をしているはず。
勿論、私もその一人だが著者の様に鮮明に何かを想起させるような物語はそんなに多くは持っていない。
その意味で著者はとても恵まれていると思う。
けれどもそれは、著者の感受性の豊かさにあるようにも思う。
本書を通して、若かりし頃の著者やその情景が読者にも感受性を分け与え、一緒に過ごしていたような身近な気持ちにさせる。
読書の楽しみを読者に強いることなく、自身の経験を通して教えてくれる。

表紙もとても素敵だ。

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2014年06月05日

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書物をたよりに、フランス、イタリアへ。そして故郷である日本へ。

“吸い込まれるように”本を読み、“本にのめり”こんだ少女は、訪れた街や出逢った人を手掛かりに、書物の続きを紡ぎ出す。

須賀さんの、幼いころからの身の廻りに起きたこと、そしてそれらと処を隔てずに在る書物をめぐる記憶。


ワーズワース
“ダフォディル”
谷や丘のずっとうえに浮かんでいる雲
みたいに、ひとりさまよっていたとき、
いきなり見えた群れさわぐもの、
幾千の軍勢、金いろのダフォディル。
みずうみのすぐそばに、樹々の陰に、
そよ風にひらひらして、踊っていて。

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2013年04月15日

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サンテグジュペリの「星の王子さま」の記述、アン・リンドバーグに関する記述、お父さんやお婆さんに関する思い出と本との接点。柔らかく、優しい文章で、読んでいると何故だかすぐに眠気に襲われてしまって、それはつまらないからではないもので、なーんだ、これ、不思議だなぁ、不思議だなぁ、と思いながら、読み進んでいた。(10/10/23)

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2012年08月17日

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筆者はイタリア研究で有名な方。多読家ですね。幼少時期からの読書の思い出を綴っている。
ムンバイからのフライトで読む。

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2009年10月07日

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