【感想・ネタバレ】子どもたちの時間のレビュー

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Posted by ブクログ

人間の成長の過程は、関係の拡大なのである。そのなかには文字との関係や本との関係も含まれる。なぜなら文字や本をとおして、直接関わっていない世界と関係をもったり、自分が関わっている関係の世界を改めてとらえなおすことができるからである。

だからもしも成長とか教育とかいう言葉を使うのなら、それは子どもたちの生きていく関係が広がるように応援することでなければならない。

人間の成長は、子どもたちが次第に獲得していく関係の拡がりとともにあったのである

関係を無視して自己を形成する方向への転換は、子どもたちが現代社会の要請にこたえ始めたことを意味している

本当は、その畑や牧場を見ながら、森を切り開いてそれをつくりだした自分自身に感動しているのだ

ある仕事を成し遂げたとき、私たちはその仕事が完成したことに喜びを感じているでしょうか。それとも。その仕事をやりとげた自分自身に喜びを感じているでしょうか

その建てられた家に感動しているのか、それともその家を建てた自分に感動しているのか



本当なら、関係する世界の認識が深まっていくことのなかに、少年時代の成長をとらえることができるはずです。どのような関係のなかで自分は存在しているのか、をみつけだしていく子どもたちは、自然や社会との新しい関係を築きながら、その関係のなかで思考している自己や、行動している自己を発見していく

そのことだけしか覚えていない幼年期の記憶は、その場面だけの時間の記憶であったように私には思えます。つまり、その時間だけのことが、鮮明に記憶されているのです。あるいは、その時間だけが、今日もなお甦るだけの価値を持っているのです

どうしてでしょうか。それは、おそらく、その時間が自分にとっては新鮮な時間の創造だったからでしょう。そのときの自分にとっては、記憶に残るほどの価値ある時間の創造だったといってもかまいません


その瞬間の創造は、自分と他者との関係がつくりだしたものです。前章で述べた私の例をとれば、他者とは果実の実であったり、谷川の沢ガにであったりしたのですが、そのような他者と関係をもった自己が、おそらく何かに心を動かされながら、記憶に残る時間を創造していたのです。


もしもより多様な他者との関係をみつけだしていくことが、本当の少年時代の成長であるとするならば、それは他者との関係で創造されていく時間が、より複雑なものになり、より深く、より多様なものになっていくことのはずです〇より大きく、深い関係と共に存在している自己を発見していくこと、このプロセスのなかで少年は青年になっていくのです

現代の私たちは、未来の自分の時間を他者としてつかみ、この他者との関係で現在の自分の時間を創造するという、習慣を身につけているように思えるからです。本来の他者であるはずの社会や自然も他の人々も、一面ではこの時間創造のための単なる前提であり、他面では手段になっているにすぎません。

本来の他者との関係のなかで時間が創造されるのではなく、これからも生存しつづける自己という「他者」との関係のなかで、時間をつくりだしつづけるようになりました

人間も時間の創造者で有り続けましたから、時間は自分の営みとともにあるものであって、けっして人間の外に確立された支配者ではなかったのです

時間に支配されながら、同時位に時間を手段として使い捨てる、ここに現代人の時間に対する習慣が生まれているように感じます。未来の自分を「他者」とすることによって創造される時間とは、未来のための手段にされm使い捨てられていく時間でもあるのです

忙しすぎる子どもたちや、時間に追われる子どもたちのことはしばしば議論され、もっとゆったりした成長の時間を与えたいと、多くの人々は考えもきました。しかしこの議論は、私には時間の使い方の議論にすぎなかったような気がします。それは、現代人は忙しすぎる、もっと余暇をとろうと言っているのと同じレベルの議論であって、もちろんその必要性も私はけっして否定しませんが、それだけでは現代の時間世界に生きる人間の問題は解決しないのです。

人間は時間を存在させることによって、その時間とともに生きているからです

子どもたちも、未来の自分の時間経営が破綻しないように、現代の時間を手段として消費しています。自分だけの孤立した時間を意識しつつ、未来の自分を他者として、その他者と関係を結ぶことによって、現在の自分の時間を創造し、結果としては時計の時間に支配されながら、時計の時間の消費の仕方だけを問題にするしかなくなったのです

学問とは、本来的に中立的であるという観念を、子どもたちに与えること自体のなかに、最初の問題点がある

他者とは、自分が関係を取り結ぶ対象のことなのである。だからそれは、自分の外に実在しているもののことではない。なぜなら、自己との間に関係が成立しないかぎり、人間はそれを他者としてとらえることはないからである

つまり、他者を認識することと、他者との間に関係を取り結ぶこととは同一のことなのである。たとえば、自分の近くに木材が積んであったとしても、その木材と関係を結ぼうとしないときは、そこに積んであるものが木材ではなく鉄骨であったとしても同じことである。ところが、それを片付けようとして関係をもった瞬間に、それが木材であるのか鉄骨であるのかが問題になりはじめる

その木で何かをつくろうと考えたときも、積まれている木材が、自己にとって有意義な他者として認識されはじめるであろう。こうして、ある人は木材を切り、何かをつくりはじめる。そうなれば、他者としての木材との関係はいっそう深まる。知らず知らずのうちに、その人は、他者としての木のいろいろな性質を学んでいくことにもなるだろう

このような他者との関係が、他者と自己との協同を成立させ、創造という行為をつくりだしていく

知識に問題があるのではなく、知識を他者として自己が存在する時空を創造することができない教育の在り方n問題はある

教師の時間世界と生徒の時間世界も同じではない。生徒それぞれもまた異なった時間の動きを持っている。家や地域に帰れば、そこには高齢者たちの時間の動きや幼児の時間の動きも、父や母たちの時間のうごきも展開している。

すべての存在するものは、そこに時間をともなっているのである。とすると、時間論の視点からみれば、他者の認識とは、他者とともにある時間の認識でもある

私たちは他者をとらえることによって、その他者とともにある時間をも認識するのである。そして、他者の時間との間に関係を取り結ぶとき、自己の時間と他者の時間との間に協同の空間が形成される

教育に方向性があることもまた、問題。「このような方向に子どもを導く」ことだから。

個人とは、個という理念として存在しているわけではない。むしろ、他者とのたえざる関係のなかに存在しているのが個人である

他者とは、他の人々でも、社会でも、自然でも、学校や学問、知識でもあってもよい。それは自分が存在する空間をつくりだすためのに、自己との間に関係を結んだ他者

アメリカ人は、勤勉に働くことによって富と名声を得ていくことが人間の使命であると考える。アメリカで称賛されている「勤勉」というものは、我がフランスにおいては軽蔑すべき利得欲と呼ばれているものにすぎない。つまり、近代的な「勤勉」と、本来の仕事熱心とは違うものだということをいおうとした、

近代的な勤勉とは、勤勉に働くことを武器にして自分の財産と社会的な地位を獲得していく方法である。だから必ずしも彼は仕事が好きなのではないのかもしれない。そのことによって成り上がっていくためのもn

アメリカにおいては、優れた労働をこなしたことに対する喜びは実はないのであり、より勤勉に優れた労働をしたことによって、財産と社会的地位が向上したとき、初めてそれが喜びとなってつかみ取られる。これが近代的な勤勉。もともと人間がもっていた仕事に対する熱意というものとは根本が違う

その畑自体にも何の感動もしていない。本当は、その原生的な森を切り開いてつくりあげた自分自身に感動している。その自分自身に対する感動が、自分の勤勉さによってついにこれだけの財産をつくりあげたとか、これだけの地位になりあがったとか、そういうことに対する感動。つまり近代的な感動というものはそういうもの
→価値外在的ということ。行為そのものではなく、それを遂行してそれに付随する部分=外部に、価値を置いてゐる。これは自分にもそういう節があるなぁ。




私が村の暮らしで感じていたのは、ここでは時間は創造されていくということだった。河原で会った老人は、釣りをすることで釣りの時間を創造している。


時間は客観的なものではなく、自分自身の行為によってその存在をつくりだしていくものなのである。そして「行為」とは何かと関係を結ぶということだ。川の流れと関係を結ぶ。畑と関係を結ぶ。山と関係を結ぶ。。。。そうやって他者と関係を結びながら創造されていくのが村の時間である


東京では、時間は消費の対象だった。限られた時間を、いかにうまく消費していけばよいのか。

創造されていく時間と消費されていく時間

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2020年02月05日

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