【感想・ネタバレ】超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』のレビュー

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Posted by ブクログ

4ヶ月ほどかけて丁寧に読ませて頂きました。
原典を読んでも何一つ理解できなかったと思いますが、そんな『精神現象学』を少しでも分かった気にさせてくれる本著は本当にありがたいです。
人間の「意識」はどのように成長して、「絶対知」を得ることができるのか。人間はどのようにして「自由」な社会を実現できるのか。
まさにこの現代に必要な理解が『精神現象学』で語られていると感じました。

本著をきっかけに、別の入門書や解説書にも挑戦してみたいと思います。(「もう無理だ…」と心折れずに最後まで読めた本著はやっぱりすごい。)

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2024年03月03日

Posted by ブクログ

NHKの100分で名著で扱っていたのを見てとても興味を持って、まずは解説本としてこの本を買って読んでみた。世界3大難書の一つというだけあり解説本でも理解が難しい部分はあるが、内容はとても面白く、現代や自分の仕事の上でも生かせる考えが多く、ヘーゲルや精神現象学という本に出会えて良かったと思えた。哲学書なのにまるで物語のように主人公が失敗を繰り返しながら成長して最終的な真理に辿り着くという構成も面白い。最終的に行き着いた考えは自分にとっても共感でき生かせるものだった。私のバイブルになった。いつか原書も挑戦してみたい。

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2023年09月16日

Posted by ブクログ

『精神現象学』をこれほどわかりやすく解説した本はないと思う。しかし、それだけ著者の解釈が入り込んでいるわけで、本当にこの本を理解したといえるかどうかはまた別問題である。やはり原書に当たるほかない。

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2020年10月29日

Posted by ブクログ

2017.9.13
主と奴の部分の承認をめぐる闘争、ストア主義、スケプシス主義、不幸の意識などはまさにという感じで、誰もが経験を覚える部分だろう。私は社会にあまり関心がないので、この本の人間学的部分にのみ焦点を合わせて読んだが、この自己意識の章と、そして良心の章はもうかなり感動した。行動する良心と批判する良心の違いはそのまま実存的視点と俯瞰的視点の違いであり、これもまたどちらも、経験の覚えのあるものである。両者の和解の先にあるものは、『ヘーゲル 大人のなり方』のレビューに書く。
私は自由を求める、つまり自分の欲したように生きたいと欲する。他者も同様である。ここで対立が起こる。この対立が、相互承認の契機となる。相互に相互の自由を承認し合うことで、互いが最も自由に生きられるからである。さらにこの過程を経て人間は、「私」と「みんな」が折り合う地点を探る。それは私の欲望でありかつ、みんなの欲望でもあるという、個別的欲望と普遍的欲望の一致する点に、大きな価値を見出す。道徳は、普遍的欲望は持つが、そのために個別的欲望をないがしろにしている、自己否定的な人間であり、故に徳福の不一致が問題になる。こうして個別と普遍が一致した状態を、良心と呼んでいるのではないかと解釈する。
しかしその良心を持つ人間においても、その個別的普遍的欲望=価値を直感的に把握し行動する良心と、それを批判する良心が現れる。良心は個別と普遍の一致であり、つまり外側から見れば、それはお前のエゴイズムだと言い得る。そして行動する良心は自らに対する無批判から、それに許しをこう。行動する良心の欠点は、自らの持つ普遍性を無批判に行動に移し実現しようとしたところにある。対して批判する良心にも非がある、なぜなら彼は自分が傷つかない場所から言いたい放題なだけで、自分を行動によって世界に開いていないからである(これは私である。痛み入る気持ちである)。つまり批判する良心の欠点は、自らの普遍性を現実に試すことなく周りを相対化するだけということである。
さて、両者の和解の先は?

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2017年09月21日

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ヘーゲル哲学の入門書。ヘーゲルを読むのに何から始めて良いか分からず、竹田青嗣さんの本はこれまでにも読んでいたのでこれにしましたが、とても分かりやすかったです。これから訳書を読むに当たり、とても心強い入門書です。

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2016年10月22日

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精神が感覚的確信から始まり絶対知に行きつくまでの物語。
意識の経験という弁証法的運動に興味をそそられた。

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2010年07月07日

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竹田青嗣と西研の二人が、ヘーゲルの『精神現象学』の内容をわかりやすくパラフレーズしている解説書です。

『精神現象学』の入門書としては、加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(講談社学術文庫)が有名で、わたくしも以前読んだことがありますが、多くの執筆者が参加しているために全体像が少し見えづらいような印象がありました。本書は、竹田と西の二人が分担執筆していますが、両者は思想的に非常に近い立場に立っており、ほとんど二人のあいだの齟齬を感じることなく、『精神現象学』の全体像がクリアに描きだしています。

西は『ヘーゲル・大人のなりかた』(NHKブックス)で、竹田は『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)や『哲学は資本主義を変えられるか―ヘーゲル哲学再考』(角川文庫)で、それぞれの関心にもとづいたヘーゲル解釈をおこなっており、本書にも若干そうした両者の立場からの解釈が見受けられるようにも感じますが、おおむね『精神現象学』そのものの叙述にそった解説になっています。生命主義的な観点を強く打ち出している長谷川宏の『ヘーゲル『精神現象学』入門』(講談社選書メチエ)よりはニュートラルな解説だと感じました。

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2018年03月08日

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難解で知られる『精神現象学』の筋書きを “表象として” おおまかに把握するのに役立った。

ヘーゲルが問うたのは、個人と社会、公と私、理想と現実……これらの対立をどうするかということであった。今なお問われ続けている普遍的なイシューである。

カント倫理学を手厳しく批判した第4章が特に読みごたえがあった。

“しかし実際には、ここ〔カントの思想〕にあるのは、純粋な「普遍性」(理想)と「個別意識」(現実)とが、いかなる条件で一致するかを洞察する思想ではなく、この統一(徳と幸福の一致)が “存在してほしい” という単なる欲求なのである”(p203)

“両者〔感性と理性〕の一致あるいは統一と言っても、その内実は、あくまで「感性」が「道徳」に従い、寄り添うことが求められているのだ”(p204)

“つまるところ、カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、(……)ただそういう〔不道徳な〕人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか”(p214)

カントの絶対的・普遍的な「道徳」に対して、ヘーゲルは相対的・個別的な「良心」という概念をアンチテーゼとして示す。

“正しさについての「理想」をもち、したがって何が「正しい」かは明らかであり、自分のみならず他人もそれにしたがうべきだ、と暗黙のうちに考えている人は「道徳の人」である。これに対して、「良心の人」は、世の中の現実はさまざまな事情が複雑にからみあっているので、「何がほんとうに正しいことか」についての絶対的な「知」は存在しえない、ということを自覚している。「社会についての全知はありえないが、それでも自分は自分の信念に則って正しいことを行いたい」と考えるのが「良心の人」なのだ”(p226)

“「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。つまり自分の「感性」においている”(p227)

思うに、根源的な理論としてはカントが正しいのだろうけど、現実的な実践としてはヘーゲルが正しいのかと。カント倫理学に共感を寄せる者として、カントのアンチテーゼの代表格であるヘーゲルは、是非とも理解しておきたいのだけど、まだまだ理解が不十分と感じる。別の解説書にも当たってみようと思う。

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2015年07月12日

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ネタバレ

古書。初ヘーゲルだが、これをそれに含めてしまってよいものかどうか疑問も残る。巡り合わせというのは書物と関わっていく上では意外に重要で、以前読んだハイデッガーの入門書同様、ヘーゲルとの巡り合わせも相当悪い部類に入るようだ。精神の遍歴を逐一記述していくという体裁(多分)の『精神現象学』を平易に読み解くという荒行に挑んだのが本書。懐疑主義、啓蒙に関する部分は大いに唸らされたが、後半(特に終盤の「宗教」辺り)は余りに一面的過ぎるし粗が目立つ。カントを乗り越えようという必死さは十二分に伝わったけど!

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2015年05月16日

Posted by ブクログ

ようやく、『精神現象学』のあらましが分かりました。人類の「精神」の成長の歴史を俯瞰し、人類思想史の流れを追う、というような壮大なプロットを(猛烈に難解な言葉で。。)語っている、ということのようです。ようやく『精神現象学』が読み進められそうだ。。

気に入ったのは「行動する良心」。ちょっと引用。
「「良心の人」は、生活のなかのさまざまな場面で、そのつどどういう態度や行為を取るのがもっとも「良心的」だろうか、と考える。彼は、もはや宗教的権威も、習俗のルールの権威も善の基準足りえないことをよく知っている。・・・しかし、にもかかわらず、結局正しいことの基準などないのだとは考えず、いかに判断し、行動するかについて、必ず「自分のほんとう」があるはずだと考えるのだ。「道徳の人」は、自分の信念の基準を、いわば理性の論理、つまり「かくあるべし」という論理的判断からの要請においている。これに対して、「良心の人」は、その基準を「もろもろの衝動と傾向」にしたがう「自然的な意識」においている。」

うん。これはいい。カントの道徳哲学がいかに批判されるべきものか、ということも良く分かりました。(ちなみに、長らくカントを読めなかった理由は、カントの伝記的紹介文で必ずと言っていいほど引かれる、彼の格率の言葉にどうしてもうさんくささを感じたからだと思う。カントは(彼の意には反しているとは思いますが)やっぱり道徳哲学(実践理性批判)ではなく、純粋理性批判が一番大事な仕事だと思う。)

ところで、この「もろもろの衝動と傾向」で「よきこと」を自分の「よろこび」のために行う人、と読めば、おぉ、これはまさしくスピノザの倫理ではないんでしょうか。スピノザの理神論、実体の概念は、もはやナイーブには信じられないにせよ(もちろん、これは形而上学なので、それを「信じる」ということは、誰しもに留保されている、とは言え)彼の「善悪の彼岸」にある「よろこびの倫理」は、今日的な意味があると思うんです。というより、有体に行って、好きなんですねー。

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2011年09月03日

Posted by ブクログ

これは、意識が絶対知に至るまでの物語。
人類の歴史が、個人の精神的成長過程に重なって見える。
だからだろうか、私には成長記録あるいは観察日記に近い印象を受けた。
意識が辿る道を追体験できる感覚が面白い。
ただ、「どうすべきか」という問いへの「応え」を示してくれているようには感じなかった。

以下、印象に残った文章を抜粋

人間の欲望の本質は、「自己価値欲望」という点にある。したがって、「自己の欲望」はまた、本質的に他社による「承認の欲望」を含む。さらに、人間は社会生活を営んでいるため、どんなことであれ、「他社の承認」なしに実現する欲望は存在しない。このため、人間社会は、まずは「承認をめぐる闘争」のゲームとなる。
・・・291頁より

カント的「道徳思想」の底には、「道徳的な人間ほど幸福であるべきだ」という暗黙の要求があることが分かる。しかしじつはこの要求は、不道徳な人間が幸福になるのは「不正」である、という理由からではなく、ただそういう人間に「幸福」をもたらしたくないという「嫉妬」から現れていると言えないだろうか。
・・・214頁より

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2011年08月13日

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