【感想・ネタバレ】死について考えるのレビュー

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Posted by ブクログ

◯どういうきもちになる
・死生について考えるきっかけになる
・生活ではなく人生と捉えるようになる。やるべきことが見えてくるような気がする 
・亡くなった親類や友人がきっと静かで穏やかな世界にいけてるんだろうなと救われる


・「死について」ではなく「死について考える」というタイトルがぴったり。死後のことなんて誰にも分からないけどその先を考えることで救われたり生を全うしようという気持ちになるよねー

・死を意識することで嫌でも生を突きつけられるから、死について考えることはやっぱり必要なことだと思う。自分が何をすべきか、何のために生まれたのかが見えてくるような気がする。死と何度も隣り合わせになった著者だからこそ書けるんだなーと。

・一度死んでから息を吹き返した人の体験談を集めたものの中に、
病気で失明していたのにはっきりとその時の光景が見えたという話が面白かった。息を吹き返した後、自分が着ている服装や状況を当てたらしい。すごくね?他にも同じ経験をした人は多く(死んだ時の自分を上から見た・亡くなった親類に会えたなど)興味深いなーと思った。


・印象的だったのは神は自死を拒否しなかったり、道徳的に正しいとされることを神は正解と考えていないこと。(遠藤周作がそう考えてるだけかもしれないけど) キリスト教その他の宗教について全く知識がない私は神様は綺麗で正しくて美しいことしか愛さないイメージだったから、こんなに自由で懐の深い人なんやと思った。死ぬときは泣き喚いたっていいんだと知った。

とりあえず原民喜「夏の花」を読んでみたくなった。

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2023年06月07日

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時にユーモアを交え、死についてさまざま語られた本。

「亡くなった肉親や先祖たちのいる世界に戻るという感覚」
そう捉えると、死もこわいものでは無くなる気がする。

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2023年01月22日

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「死」というテーマについての短いエッセイがたくさん。「死」は誰も知らない経験。希に臨死体験者はいるが。でもすべての人に平等に訪れるもの。それについて話されることというのは、人間性というか人生観が滲み出てくる感じがする。そう、なんというか、じわじわと伝わってくる。「ああ、そうなんですね」ではない。じわじわとしたのが自分の中のなにかに触れて、ああ、こういうことかという言葉以上の受け取りが出てくるような気がする。

”じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。”

 たしかにそうなのかもしれない。死ぬことを考えないでもない。でも本当にその可能性があるときとないときでは向き合い方が絶対違うと思う。今は、「じたばたしない」と思っている自分がいる。どこかにいるじゃなくて、わりと大きな顔をして自分の中に座っている。

 遠藤氏の書かれるなかで、自分があまり得意ではない「倶会一処」に似たことが、病により死を待つしかない人の慰めになると書いてあるところがあった。先に亡くなった祖父母、父母にあえるというようなことが。遠藤氏の文章から思ったのは、それは家族がいて、それにすべて安心して頼り切っていた幸せな時を思い出すことなのかなと思った。実際には会うという歓びよりも、その人と過ごしたときを今自分の体感として思い出して、なにかに身をゆだねるということなのかなと今までとは違ったことを思った。そうやって、死を迎える瞬間を乗り越えるのかと。

 じわじわ感じること。彼の文章には苦しみには必ず孤独があるということが通底している。これは本当にそうだ。仏教もキリスト教も関係ないのだろう。人間の苦しみはそこにある。どんなに近くにいても、わからない。

 宗教観。遠藤氏は、山に例えてどの道を通るかわからないが、宗教の行き着くところは同じかもしれないとおっしゃっていたが、ここは自分は違うような気がした。だってそれも誰も確かめようがないじゃないか。どこまでも自分が納得出来ないとだめな自分を再確認した。

 とても親近感が湧くというか、近くでお話をしてもらっているような本。宗教に関係なく、一度手に取って読んでみるといいと思う。自分が避けて考えていることをまっすぐに書かれるともう聞くしかないから。

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2022年01月03日

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人は遅かれ早かれいづれ死ぬ。大作家だって犯罪者だっていづれ死ぬ。死について考えないで人生終えれたらどんなに楽だろうと思う。死は怖いし死んだらどうなるかなんて誰もわからない。だから人はその死の恐怖をやわらげるために宗教に頼ったりするんだろうか。

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2009年10月04日

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またかけがえのない人が亡くなったときこれを読みたいです。仮にある人がまだこの世界にいても、いつか亡くなったときのことを想像するだけで今いる時間を大切にしようと思えます。

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2023年12月08日

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「死」に対して様々な角度から、カトリック教徒としての遠藤周作の私見が書かれている。最初の方は、遠藤周作があの時代に力を注いでいたホスピスの様な医療の普及について書かれていた。たった30年ほどしか経っていないのに、ホスピスもたくさんあるし、癌の告知も当然のようにされる世の中に変化していることに驚いた。このあたりの文は、時代が少しばかり違うので、あまり共感する部分はなかったけれども、後半の宗教的(哲学的)な考え方には共感し、彼の考える「救い」の広さに感動した。遠藤周作のキリスト教との向き合い方がよくわかった。

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2022年08月27日

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氏は、60歳を過ぎて死について考えないのは、怠慢か、鈍感な人であって、決して褒めるべきことではありませんよ、と話したといいます。
昔であれば、60歳なんて、バタバタと死んでいく人がいたものです。
死を身近なものとして捉えるにあたり、本書はまさに適切な一冊と言えるでしょう。

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2022年05月06日

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「死について考える」なんていうタイトルなので、死ぬことを哲学するような内容の本かと思うけれど、
それよりは少し肩の力の抜けた、老年を迎えた作者が死や歳を取ることについて思うことを書いたエッセイである。


カトリック信者の著者による本なのでところどころキリスト教について触れているところがあり、そうは言えども日本人でもあるわけなので、西洋と日本の死生観の違い、その辺を本人の中でどう折り合いをつけているのかなどが面白い。
どちらかと言えばキリスト教から見た死と、日本人にとっての死との共通点を見出そうとしている感じである。ただ、カトリックと日本古来の信仰とは比較的近く、仏教(主に禅)はやや離れていると言っているように感じた。


30年以上前の本だけれど、言っていることはほぼ現代にも当てはまる(「老害」という言葉が既に出ている!)。(信仰上の立ち位置等も含め)じゃあ自分はどう考えるか?を意識してこそ意味のある本。

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2021年07月27日

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ネタバレ

20年も前に書かれた本ではあるが、その姿勢は現代のターミナルケアに通ずる部分も多い。以下、自分の印象に残ったこと、気づき。

・最期に自分を支えるのは、やはり精神だ。先立たれた大切な人に会える、だとか苦しんでいることを理解してあげることが一番いい。
・延命処置の是非。尊厳死はどうなのか?天寿を全うしているなら、尊厳死でもいいのか?
・ACPは、死に直面したときに初めてスタートする。在宅医の先生の訪問診療について行った時の経験を思い出した。
・安楽死は可哀想だから死なせてあげるという家族のエゴが入っている。尊厳死はその人が死に方を選べる。しかし自殺はダメ。天寿を全うしてないから。
・痛みも生きている証だという考え方。
・結局考え方は人それぞれだから、万人に使える万能のターミナルケアなどない。
・「痛み」ってなんなんだ?心の痛み、神経が痛み刺激を受信している。痛みは薬剤以外でも和らげることができる。誰か共感してくれる人や元気になりたいモチベーションがあれば、痛みとも上手に付き合えるのではないか。
・宗教は意外と大切かも。
・臨死体験をした人は皆、暖かい光に包まれて、自分の身体を俯瞰してみることができたらしい。かつて愛した故人に会えた人もいたのだとか。死後の世界はあるのだと信じても良いかもしれない。禅宗的には、解脱にあたるようだ。
・生活と人生は違う。生活:他者に残すかたみ、人生:自分の素顔。老年において本当の顔をまじまじとみる時がきたのだ。
・天国と地獄。悪いことをしたら、全員地獄に行くのか?死ぬ間際に心から悪いことをしたと思えば神は天国に連れて行くのか?一方殺された人々は、あの人々をお許しくださいと言えるのか?自分の身に降りかかった理不尽を恨みはしないのか?

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2020年03月15日

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遠藤周作は昔の人だから、仏教的な考えで死に向き合ってると思ってたら、まさかのキリスト教
死というのは、たぶん、海みたいなものだろうな
入っていくときはつめたいが、いったん中に入ってしまうと…

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2023年08月02日

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ネタバレ

キリスト教徒として、日本人として、作家として、とりとめなく死について語っている。漠然とした恐れが遠のく安らぎと慰め、そして慈愛に満ちた内容だと感じた。
自身の大病の経験から終末期医療と向き合い、心あたたかな医療を願う活動をしていたことを初めて知った。先立たれた苦しみを和らげ、死を恐れる人間の心を落ち着かせる、優しい語りかけだった。
『沈黙』や『深い河』など、なぜあのような小説が生まれたのか、その背景にあるものが分かったような気がする。

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2021年02月09日

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あとがきで、「キリスト教とは関係のない形で死についてを語ろうとしました」と書いてあるが、キリスト教とめちゃめちゃ関係ある思考回路で書いてるなという印象

以下読書メモ 
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・「遠藤君、君はまだ若いからそんなこと考えたことないだろうけど、若い時は若さで生きて行ける、壮年まではまだ社会が大事にしてくれる、老年になって不要になった時、どう美しく生きるかということを今から考えておかなきゃいかんよ」by東大仏文学者渡辺一夫

・私は、生活必ずしも人生ではない、と考えています。生活は私の考えでは自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを無視、軽視していなければなかなか成立しないものです。生活は道徳、世間体、外づらを大事にしないと運びませんし、自分の心の奥底にかくしているものを露骨に見せるわけにはいきません。世間を乱さぬため、他人に悪口を言われぬためには、我々は心のなかに抑えこんでおかねばならぬものがたくさんあります。そういう形で成立しているのが生活です。

・苦しく、醜い物でも大事に守り続けよ、というのがキリスト教の言う「愛」の一つの考えだと私は思っている。

・人生は苦しいし、醜い。苦しいから捨てる、醜いから捨てる、というのならイエスだって十字架で何もあんなに苦しまなくてもよかったじゃないか。キリストの人生だって決して楽しいものじゃなかった。それを途中で放棄しなかった。最後まで十字架を背負って苦しんだ。我々も最後までイエスのように苦しんでも人生を捨てない、というのがカトリックが自殺を認めない根拠なのです。

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2021年01月24日

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もう少しで還暦を迎える身となり、そして亡くなった友人の噂を聞くたびに自らの死を考えるようになりました。私は、死は全てを無に帰すものだと考えていますが、著者が書いているように大事な人や愛した人愛してくれた人が待ってくれている世界があるかもしれないと考えると漠然とした恐怖が少し和らいだ気がします。

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2018年09月30日

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ネタバレ

キリスト教徒である筆者が、”死”について思うところを述べている。だからといって一つの宗教にとらわれるのではなく、語っている。その語り口は圧倒的にやさしい。

2022年8月再読。
ホスピスや延命治療等の内容を聞いていると少し時代を感じる。著者本人も最後に言っているようキリスト教談義となってしまわないようにしたとのことで、別の宗教の観点等も所々でてくる。

P.33
私小説家たちは一種の自己鍛錬というか、自己修行というか、そういうものを無意識に積んでいったんでしょうね。そういうものを一つ一つ積んでいって、円熟というところへ到達したんでしょうね。そうでないほうの、うまく年をとれない作家たちは、老いるにつれて心のみにくさが出て来る人もあるでしょう。そういう日おてゃ、あいつはいやな奴だなあと言われるでしょうか、それは死ぬ前に胃に溜まったものを吐いて死ぬ人生と、ちゃんと消化して死ぬ人の違いで、大きな神の眼から見たらそう大差はないということではないでしょうか。

P.142
「信仰というものは、九十九パーセントの疑いと、一パーセントの希望だ」と言ったのはフランスの有名なキリスト教作家ペルナノスですが、私は本当にそうだと思うんです。

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2010年01月24日

Posted by ブクログ

カトリック作家の遠藤は、『死』をテーマにした本を書いてくれ、という出版社の以来を再三断っていたと言う。その理由として、キリスト教談義になるのを恐れたから、とあとがきで述べているのを読んで、なるほどと思ったのは、自分がこれを読みながら持った思いが、「何でわざわざこんな宗教くさいもんをいまさら書くのか」というものだったからだ。誰もが迎える『死』というものを、誰もが理解できる平準化した視点でその「心づもり」することの大切さを、語っている。

死についてなぞ、わざわざあつらえて述べなくても時が来れば理解する、というのが私の宗教家としての立場だが、実に表面的に捉えれば、そこいらの人とも変わんない持論だということが、なるほどわかった気がする。死を迎えるのは人には変わってもらえない、自分の人生の一大イベントなのだから真剣に向き合う必要はありますね。


09/4/3

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2009年10月04日

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