【感想】
本書の舞台であるマーサズ・ヴィンヤード島は、映画「ジョーズ」のロケ地に使われた避暑地だ。この島の中のチルマークという村は、1900年代の初頭には250人程度の人口だったが、確認できるだけでも10人が聾者だったという。
この異様に高い聾者の比率によって、島のコミュニケーション手段は、常識では
...続きを読む考えられないような発展を遂げた。健聴者が全員手話を使え、常に口語と手話が入り乱れるコミュニティが形成されたのだ。
本書では「みんなが普通に手話で会話していた」というエピソードの数々が語られるのだが、われわれ健聴者社会に暮らす者にとっては驚きの内容ばかりである。
まず、島の人はそもそも「誰が聾だったか」の記憶が怪しい。手話が日常に溶け込み過ぎて、聾者のための特別な配慮などなかったからだ。また、学校での勉強、日用品の取引、馬の売買交渉といった複雑なことも、聾者は手話で行っていた。人々が集まれば最低一人は聾者がいたため、みんな手ぶりを交えて話していた。中には、10人ほど集まっても物音ひとつ立てずにしんとしていたことがあったという。全員が手話で話していたからだ。
これは子どものコミュニティでも同様で、大抵の子どもは小さいうちから、聾者の大人や友達と意思疎通するために、自然と手話を身に着けてしまう。中には、口語の修得より手話のほうが早かった健聴者の子どももいたそうだ。健聴者の子どもたちが、学校や教会などの静かにしなければならない場所で、先生に怒られないよう手話でぺちゃくちゃ(?)おしゃべりをしていたというのだから、その凄さが分かるだろう。
そうしたエピソードを読み進めていくと、「ハンディキャップ」という概念は「身体的な障害」ではなく「社会的な障害」である、というのがありありと実感できる。ヴィンヤード島では聾はハンディキャップではなく、背が高かったり目が青かったりといった「身体的特徴」の一つにすぎなかった。聾者は当然「普通の人」と同じように扱われ、婚姻率も経済的成功率も健聴者となんら変わらない。
近年、障害にまつわる言葉を置き換える動きがさかんになっている。「色盲」であれば、「色覚に特徴のある人」というように、彼らの状態を「特性」として言い換えることだ。一般的な社会に住む私たちは、聾というものをかなり重い障害だと見ているし、配慮しなければならないと教えられている。しかしそうした「思いやり」こそが彼らを生きづらくしている。状況を悪化させているのはむしろ、「私たちが聾者の人とコミュニケーションを取ろうとしない」ことにあるのだ。彼らと身近な距離で接して親密な関係を築けば、「障害」は「特性」となって社会に吸収されていく。
それが自然と形成されていたのが、ヴィンヤード島というコミュニティだったのだ。
――「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」
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【まとめ】
1 みんなが手話で話した島
本書はマーサズ・ヴィンヤード島、特にそのタウン(ニューイングランド地方の集落)であるウェスト・ティズベリーとチルマークに焦点を当てている。ここでは200年以上にわたり、遺伝性の聾が高い発生率を示した。孤立した島という閉鎖的環境で、近親交配による遺伝が繰り返された結果、先天性の聾者の比率は155:1だった。これは、アメリカ人全体で5728:1であることを考えれば相当に高い数字である。
住民は効率的な手話を発明あるいは借用することにより、この状況に適応した。健聴者も聾者も、ほぼみんなが手話を使っていた。ヴィンヤード島の人々は聾を障害とみなしていなかった。
20世紀になって島の外から新しい住民が入ってくると、ヴィンヤード島における遺伝性聾の発生率は低下し、1950年代の初めに最後の聾者が亡くなると、ついにはゼロになった。しかしこのことは、そのような恩恵と同時に、小さな共同体の破壊ももたらした。こうした支援ネットワークとしての小さな共同体は、悲しむべきことに、現代の産業化された世界では失われつつある。
ヴィンヤード島に住む80代の女性はこう言う。「あの人たちにハンディキャップなんてなかったですよ。ただ聾というだけでした」
2 聾への適応
同じハンディキャップを負った本土の聾者と違い、ヴィンヤード島の聾者は共同体のあらゆる仕事や遊びに加わった。結婚相手は健聴者からでも聾者からでも自由に選ぶことができた。納税記録によると、島の聾者は総じて平均かそれ以上の収入をあげており(何人かは裕福だった)、教会活動にも熱心にかかわっていた。この状況は1960年代に最初の聾者がティズベリーに定住したときから3世紀以上にわたって続いている。
聾者が多くいるという状況に対して島民たちがどう応じたかといえば、聞こえないということをあっさり受け容れてしまったのである。
・つんぼだなんて気づきませんよ。あの辺りの住民はもう慣れていて、なんとも思っていなかったのです。
・それが当たり前でした。目の色が茶色か青かの違いと同じです。まあ、そこまではいかなくても足を引きずっているとか、手首がちょっとおかしいとか、そういうのと変わりません。
・あの人たちは他の人と同じでした。とくに気遣うこともありませんでした。そんなことをすると、かえって気を悪くするので、同じように扱っていました。
以上は島に住んでいた健聴者の証言だ。よそから来た者がこの問題に関心を持つことに彼らは心底とまどったようだった。
島の住人は自然に英語と手話の二言語を併用していた。
島民は子供時代に手話を習得している。健聴の子供や聾の子供の手話習得法をたずねると、どのインフォーマントも、子供は英語を覚えるときと同じように、成長とともに自然に手話を覚えてしまうと答えた。家の中で聾者とくらしていると、「見よう見まねで手話を覚えてしまう」のだという。たとえば聾者を母に持つある女性はこんなふうにいう。
「深く考えたことはないのです。自然に身についてしまいましたから」
幼児期に手話と出会った聾の子供は、少なくとも健聴の子供が言葉を使い始めるのと同じ時期に手話を使い始めるという。なかには、手話の習得が口話の習得より先行した事例さえ存在する。
身内に聾者がいない健聴の子どもは、親と雑用で近くの家や店に出かけると、そこでごくふつうに用いられている手話を見て自然に身に着けた。遊び友達の聾の子と話すために欠かせなかったのだ。
住民は語る。
「手話はどうしても身につける必要がありました。みんなが手話を知っていました......。手話を知らないでは、ここでやっていけなかったのです」
聾者と健聴者が混じって会話することは当たり前であり、そういったときは口語と手話のハイブリッド、ないしは完全手話が用いられていた。
手話の必要がない健聴者同士でもよく手話が用いられていた。おおっぴらには口にできない内緒話、聞こえないぐらい遠くの人との会話など、手話のほうが便利だと思えば、聾唖のものもそうでないものも、手話を使うのだ。
3 島の社会
島の全家族のほぼ98パーセントが、歩いて往き来できる距離に最低一人は近親者を持っていた。この定住パターンは非常に安定していた。家族の個々の構成員が独立しても、拡大家族の形態と一群の家族がかたまってくらす区域は、世代から世代へとまた世紀から世紀へと変わらずに引き継がれていった。
このきわめて安定した人口こそ、聾の子供がうまく適応できた主因だった。すでに襲を経験ずみの共同体では、新たに聾の子供が生まれても特別の関心や当惑の対象とならなかった。さらに手話が周知のものとなっていたおかげで、聾の子供はごく早い時期から接するすべての人と意思を通じ合わせることができた。
ヴィンヤード島の聾者は教育水準も高かった。1817年にアメリカで最初の聾学校であるコネティカット聾唖院が設立され、ヴィンヤード島の住人は一人を除く全員がここに通っていた。州政府から助成金が支給されていたからだ。ヴィンヤード島の聾者の教育程度は、多くの場合、健聴の隣人のそれよりも高く、健聴者に勉強を教えた者もいたという。
ヴィンヤード島では、聾者が結婚するのになんの妨げもなかった。適齢期の聾者の80%が結婚したが、これは島の健聴者の結婚率とほぼ同じである。19世紀のアメリカ全体の聾者の結婚率は45%であったことを考えれば、その高さがわかる。
経済的成功については、極貧層から富裕層までまちまちで、大半の聾者は広い範囲の中産階級に属していた。アメリカの聾者の平均所得が、健聴者のそれと比べて男性で30%低く、女性で40%低いことから考えても、恵まれていたことがうかがえる。
また、島で集まりがあったときは、「みんな」が集まった。島のくらしの他の面で聾者と健聴者を区別する者がいなかったように、社交でも聾者と健聴者を区別する者はいなかった。どのインフォーマントも、聾者だけが参加した社会活動を一つもあげられなかった。各種の聾者のクラブや活動が多くの者の触れ合いの中心となっている本土と違い、ヴィンヤード島では聾者も健聴者も一緒に島内の活動に加わっていた。それは単に島の健聴者が聾者を自分たちの中に迎え入れたというだけではなく、聾者の側でも健聴の家族や友人や隣人から離れて活動を始めようとはしなかったということでもあるらしい。島の者のあいだにはかなり親密な友情があったが、聾者としか付き合わない人や付き合いの範囲がほぼ聾者に限られる人はいなかった。
この島のコミュニティでは、聞こえない人は生活のあらゆる面にとけ込んでいて、聞こえる人と同じように大人になり、社交し、仕事をし、結婚し、子どもを持ち、政治に参加し、法的な義務と権利を負っていた。聞こえない人の中には、資産家もいれば、生活にかつかつという人もいて、それは、聞こえる人とほとんど変わらなかったのだ。
4 ハンディキャップなどない
ヴィンヤード島で見られた聾に対する適応には二つの要因が不可欠だったようである。
第一の要因は、聾をもたらす遺伝的性質が個人や孤立した家族によってではなく、入植者の一群によって伝えられたということである。こうした理由から、またその遺伝的性質が(潜性であったので)一見、住民の中に無差別に発生するように思われたため、聾はどの家族にあらわれてもおかしくないと見なされることになった。実際、ある時点では島の家族の大半が発生していたほどだった。聾がこれほど頻繁にあらわれていなければ、先天性の聾者が受け容れられるということはなかったかもしれない。
もう一つの同じくらい重要な要因は、この共同体が遺伝的性質とともに大西洋の彼方からもたらされたと思われる手話を使っていたということである。聾という事実を受け容れ、耳の聞こえない人に好意と気遣いを示すだけでは聾者は日常生活にとけ込むことができな い。ヴィンヤード島で最初の聾者がたやすく住民の中に入っていけたのは、かなり洗練された手話体系がすでに存在していたからだと思われる。
ヴィンヤード島の経験は、ハンディキャップという概念が気まぐれな社会的カテゴリーであることをはっきりと示している。共同体が障害者を受け容れる努力をおしまなければ、障害者はその共同体の正規の有益な構成員になれる。社会は万人に適応するため、多少であれ自ら変わらなければならないのだ。
島の聾の男女について最も心に残る事実は、誰も聾をハンディキャップだと受け取らなかったという意味で、聾者は障害者ではなかったということである。あ 女性はこんなふうに話している。
「あの人たちが特別と思ったことはありません。あの人たちは他の人とまったく同じでした。そうだとしたら、この島ほど素晴らしい場所は、他になかったんじゃないでしょうか」