誰しも一度は疑問に思ったことがあるのではないだろうか?
鏡を見ると右と左は反対に見えるのに、上と下、前と後ろは反対に見えない。
当たり前のような気もするが、きちんと説明しようと思うとそれほど簡単ではない。
数年前に少し、これについて考えてみたことがあったのだが、そのときは、
「要するに面対称なのだ
...続きを読むから、鏡を頭上とか足下に置けば上下が反転するし、体の横に置けば前後が反転する。三次元のものを二次元に投影して映し出した対称の像だから、さほど不思議ではない。」
という理屈で納得し、自分の中では済んだことを仕舞っておく脳内引き出しにしまい込んでいた。
が。
どこかで本書のことを目にして愕然とした。
鏡映が左右反転するのはなぜかというのは世紀の疑問であって、しかも「まだ解決がついていない」というではないか。しかも基礎科学だけではなく、心理学まで必要だという。
なぬ!?? そんなややこしい話なの? 面対称じゃいけないの???
「はじめに」には、対象としては一般向けとある。古代の学説から、現在の説まで広く平明に書かれているという。
では挑戦、というわけで読んでみたのだが。
意外にこれが哲学的・物理的・心理的な広がりがある話らしい。
哲学者ピアースは、人が鏡を見るとき、自分が回転しながら(円の中心を見ながら回るような感じ)鏡の裏側に回り込んだ像を想像しているという。
物理学者ファインマンは、鏡の中で反対になっているのは、左右ではなく、前後だ、として、その後はピアース同様、「回り込み」理論を採る。
心理学者ダヴィド・ナヴォンはこれらの回り込み「移動説」は、床に置いた鏡の場合には当てはまらないと批判する。
サイエンス・ライターであるガードナーは、我々の体は左右対称であることから生じた「言語習慣」のためであるという。
まぁさまざまな分野の人が論じているというのだが、何だか小難しい・・・。
しつこいようだが、面対称じゃいけないのだろうか・・・?
著者はこれまでの説はどれも一長一短で、この問題をすぱっと説明できていないという。
では著者の主張する説は何かというと、「光学反転」「表象反転」「視点反転」の3つの要素が組み合わさった「多重プロセス理論」である。「光学反転」とは、鏡が表面に垂直な方向で像を光学的に反転させることである。「表象反転」とは、観察者自身ではなく、文字などの特徴的な形を見た場合を指す(自分自身ではないので、先ほどの「回り込み移動説」が適用できない)。「視点反転」とは、「視点」=左右を判断する場合の判断基準=座標軸が反転することを指す。
これらが組み合わさって鏡像反転が生まれているということを、観察者自身や文字を書いたもの、立体などの様々なものを鏡に映し、それがどう見えるかという実験を行って実証していくわけである。
その実験自体は、例えば多くの人にはなじみがないキリル文字を使ったり、切り抜いた文字を使ったり、右か左の半身にかぶり物をしたり、となかなかバラエティに富んでおもしろいのだが。
私は正直、この本の主題がどこにこだわっているのか、最後までつかめなかった。
だって、再三しつこいですけど、面対称じゃダメ・・・?
この本に関しては、浅い理解で申し訳ないが、ただ、左と右って興味深いとは思う。
幼児は文字を習得する初期によく鏡文字といわれる左右が反転した文字を書くが、上下を取り違えることはあまりない(「6」と「9」を間違える子はいるかもしれない(^^;))。
幼児に「右」といっても通じないときは、「お箸を持つ方の手(*これも最近は左利きの子に配慮して使わないかもしれないが)」といったりする。つまり右と左は迷いがちなのだと思うのだ。私も幼児期、右左の区別が少し苦手だった。右を見てといわれると、一瞬あれっと思うこともあった。けれど、前を見てと言われて後ろを見たことはない(当たり前か)。
右と左って、「向かって右」とか「自分から見て左」とか、基準次第で相対的なものでもある。
世の中には「左右盲」と呼ばれる人もいると本書に紹介されている。文字通り、左右がわからないことを指すようで、このあたり、もう少し突っ込んで知りたかった気もする。
右と左を迷いやすいのは、やはり人の体が基本的には左右対称にできているからだろうか?
目が横に2つあることも関係あるのか? 例えば目が2つではあっても縦に並んで2つだったら見える世界や空間認識は違うのかな?
・・・何だか明後日の方向に着地しつつも、わからないなりに読む時間を楽しんだ本ではあったのだ、本当に。
<参考>
*朝永振一郎だって考えた。『鏡の中の物理学』