人はなぜ、自らを害する者にわざわざ自分から従ってしまうのだろう。
という疑問をつきつめて考えてみた500年近く前の若者の論文。
「なぜ」よりも「どのように」が近い。
君主はどのように振る舞い、民衆はいかにして隷従するか。
見えるものをただ書いただけ。だから今にも通じてしまう。
ラ・ボエシは革命を
...続きを読む志したわけではなく、この書でなにかをなそうとしたわけでもなく、本当にただ「ああもうそこなんで自分の首絞めさせちゃうのさ歴史に学べよ!」と、思ったことを書いただけっぽい。
親友のモンテーニュはこれを扇動に使われることを恐れ、後の人々は自分の状況を投影して革命の勇気にしたという。
この本に添えられている解説と二つの論文も、やっぱり自分の今の場所に合わせてこの書を使っている。
本人がどんな意図で書こうと、これはアジテーションに使いやすい文章だ。
この文章に鼓舞されるのは、無自覚に隷従する人達ではなく、「もう嫌だ、変わりたい」とすでに思っている人たちだから、革命前夜に投下すれば起爆剤になる。
隷従を防ぐためためではなく、打ち倒すときに力を発揮する。
「自由なんて欲するだけでいいのに。自らを差し出さないだけでいいのに」という憤りやもどかしさは、すごく理解できるけれど傍観者のものだ。
自ら隷従してしまう人たちを変えたいなら、寄り添わないと変われない。
あとがきには「グローバル化した現代にも通じる」とあるけれど、私はむしろもっと個の話を投影した。
この文章の中の「なんで」は、未熟な支援者がDVやモラハラの被害者たちに感じてしまうもどかしさにとてもよく似ている。
散々大衆の愚かさを嘆きつつ自分は自分のところの王様を賛美しちゃってるあたりの矛盾も。
自分のくみしない勢力に利用されないためだとしても、論理を犠牲にしてしまっているは残念だ。
文章がものすごく読みやすい。
外国の古典は「翻訳」と認識して読むから「現代語訳」であることを意識せずに読んでしまう。
訳者はこの論文を研究してコツコツ読んできた人だそうな。
機械的に言葉を変換するだけではなく、きっちり中身を精査して丁寧に現代日本語にあてはめてくれる。
平易な文章を心がけたという言葉通り、こんなに古い文章を気負わず読めるのはとてもありがたい。