2月に同著者の『「英語公用語」は何が問題か』を読んだが,やはり英語は使えるに越したことはない。本書では,多言語共生という理想を追求しながら,普遍語となった英語を活用していく必要を説く。
前著でも繰り返し述べていたように,「英語支配」がもたらす弊害に注意することを強調。母語に裏打ちされた豊富な言語力を活かし,話す内容を生み出す思考力,対人関係の構築力,批判的読解力を磨いて,「世界語としての英語」でコミュニカーションできれば文句なし。
ネイティブスピーカーがどういう英語を話すかを気にしたり,「正しい英語」を追求するのでなく,英語を使う世界中の人たちが分かりあえる英語を目指すべし。英語教育界でもこういったパラダイムシフトが起きているらしい。
以前どこかで,"I can do it before breakfast!" でいいじゃんって話を見たことあるけど,著者も同意見のよう。え?どういう意味?って聞かれたら,日本ではそう言うんだよーと説明することで,話も弾み,異文化相互理解にも資する。うんおもしろい。
英語教育の新たな指針も示されてる。英米文化理解から,共通語としての英語を使っての発信へ目的をシフト。そのために,脱ネイティブスピーカー信仰,学習事項の仕分け,読み書きの重点化,自律した学習者育成を課題とする。(p.124)
国際共通語といえば,20世紀にはエスペラントが随分もてはやされた。英語よりずっと単純で憶えやすく,一時期は国際派知識人がこぞって普及を夢見ていた言語だが,全然定着せず,ただのマニアックな人工言語で終わってしまった。
結局,20世紀の歴史は英語を勝者とした。思考と密着し,日常的に使うのが言語だから,人工言語が失敗し,強者の言語が普及したのは当然すぎるほど当然だったのかも。今はそれを乗り越え,英語のコアだけが国際共通語として抽出され,活用されていくんだろう。それはもう本来の英語ではない。
何でもネイティブに倣えは最近流行らない。著者がショックだったのは,「何も姓名の順番を英米風にすることはない」って学生に気付かせてもらったことらしい。日本では鹿鳴館時代の欧化政策から,この慣習が長く定着してた模様。