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作家・長江古義人(ちょうこうこぎと)は、息子のアカリとともに四国の森に帰った。長江の文学を研究するアメリカ人女性ローズが同行する。老いた古義人の滑稽かつ悲惨な冒険は、ローズが愛読する『ドン・キホーテ』の物語に重なる。死んだ母親と去った友人の「真実」に辿りつくまで。『取り替え子(チェンジリング)』から続く、長編3部作の第2作。
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Posted by ブクログ
「おかしな二人組」三部作の真ん中にあたる作品。ドン・キホーテをモチーフに作品は進んでいく。そして、毎度のことながら面白い。やはりアカリのキャラクターが彼の作品の中ではとても大事な、光になっている。彼の何気ない一言で、作中にパッと灯りがともる。(10/6/7)
びっくりしました。 大江健三郎は過去の作家ではなく、今でもかつて「同時代ゲーム」を書いた時と同じ意味で同時代性を持った作家であることが、この本から確認出来ます。 興味のある人は、村上春樹の「海辺のカフカ」と本書を丹念に比較して見るといいでしょう。 2つの小説の構造を丹念に解き明かしていくならば(本...続きを読む書の言い方にならってRe-readingするならば)、この2つは実は中心点がほぼ同じところにあることが分かるはずです。 ただ、惜しむらくは現在の大江健三郎がライターズライター(小説家のための小説家)になっていることでしょう。 コアな読み手、あるいは小説を書くために読んでいるような読者でなければ伝わらない書き方を選択しているので。 それ故に「海辺のカフカ」のような幅広い読者は得られないかもしれませんが、小説というものをとことん知的に楽しみたい読者が今の日本に仮に存在するとするならば、そういう読者にとっては堪えられない小説になっています。 (知的に楽しむという意味で、文庫版の解説でリービ英雄が実に的確なガイドを行っていますね。おそらくそのような的確さがリービ英雄に可能であったのは、彼が小説を書く人間であるからだとも言えますし、同時に知的に小説を楽しむ方法を知っているからだとも言えそうです。) もしこれからこの小説にチャレンジしようとする人がいるならば、「主人公に感情移入しない読み方をしたほうが良い」と言っておきます。 感情移入しない、というよりは、主人公に感情移入出来ない小説です。 そういう意味で楽に読める小説ではありませんし、そこでこの作品を醜悪な失敗作と位置づけてしまうことも可能です。 しかし、作者の大江健三郎はそういう書き方を明らかに意図的に選んでいますし、そこで 「なぜそのような書き方をしているのか?」 という問いを発しつつ読むならば、そこからこの小説の面白さは立ち上がってくるのです。 でも、まぁ、どう読んでも良いんですけどね。 賞賛も批判も批評的な読みも含めて 「私の小説をどう読んてもいいよ」 ということが、大江健三郎がこの小説にこっそり仕込んだメッセージでもあるのでしょうから。
小説家・長江古義人を主人公にした『取り替え子』の続編。 古義人の妻・千樫がベルリンに行ったこともあり、この巻ではローズさんという古義人の作品の研究者でもあるアメリカ女性の存在が目立つ。 大江の女性の描き方は常々気になるところだが、この作品でのローズさんの描かれ方はミソジニックで嫌な感じがした。 ...続きを読む ラストワークに向かおうとする古義人の思考の渦の中に巻き込まれていくような気がする作品。
大江健三郎の初期は別に好きじゃないんだけど中期以降を読んで行くのが最近の唯一楽しいことといってもよくて、彼の何が好きかという理由の一つに、あの連綿としたいつ終わるともつかないかんじというのがあるのだけど、展開や終わりを殆ど気にしないで、その1ページ1ページが面白く読める。だからきっと何度でも読める。...続きを読む少し前まで彼の作品をいつか読み終えてしまう日が来るのを怖いと感じていたけど、ほとんど終わりなく読める、ブレイクを読んで、ドン・キホーテを読んで、また戻ってくることも出来る。こんな「森」を作り出せるなんて、魔術。 しかしながら通して読んでみて、はっきりと続きを予感させる終わり方の部分を読み終わって、理解が追いつかなくて頭が混乱していると同時に、他の作品でも幾度も語られていた、ウグイのエピソード、頭をがっきと捉えられ、その後に大きな力で一度突っ込まれ、引きずり出されるあのエピソード…、母親が居なくなった今、本人はこの小説の中では使っていないけれど、リーブと呼ばれる「跳ぶ」に近い行為の後、しかしウグイの時のように救助してくれるもののいなくなった今、自らの力で再び生きようとする展開に、私には気持ち的に追いつかなかった。 「当たり前だ、彼でさえ、ここまで来るのにどれくらいかかったと思う?」と思ってみても、それでも置き去りにされた気持ちが拭えない。 文章が悪いとかそういう話ではなくて…。どんどん私から彼がはがれていくような、どこへ行ってしまうの、と声に出したくても最早届かないくらい遠く後ろ姿だけ見せつけられるような、だからこそ今後の私が幾度読み返すことになるか分からないだけの力の差、文章力というのもそうだけどそれのみならず、彼のいる地点と私のいる場所の差というか…。読み込んで理解されるというのみでは埋まらないような差に、猛烈に疲れてしまった。こんなことで『水死』まで至れるのだろうか。
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