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ニーチェが目指したのは、たんに道徳的な善と悪の概念を転倒することではなく、西洋文明の根本的な価値観を転倒すること、近代哲学批判だけではなく、学問もまた「一つの形而上学的な信仰に依拠している」として批判することだった。『善悪の彼岸』の結論を引き継ぎながら、キリスト教的道徳観と価値観の伝統を鋭い刃で腑分けし、新しい道徳と新しい価値の可能性を探る。ニーチェがいま、はじめて理解できる決定訳!
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Posted by ブクログ
ニーチェの訳本とは思えないくらいに非常にわかりやすい語り口であった。『道徳の系譜学』の違う訳を参考にしたくて、本書を購入したが、一冊目では理解しづらかった部分も、非常に明瞭に理解できるようになった点がよかった。 しかし一冊目から光文社の本のみというのも、哲学を読み解く醍醐味が半ば失われてしまう気もす...続きを読むるので、二冊目の参考書としてもっているくらいがとても良いと思う。 また、解説も内容をわかりやすく伝えようとしている訳者の姿勢が伝わってよかった。 以下、第二論文のみ再読した際に、一部メモをとったので、そのメモを自分用に全て載っけておく。 第二論文感想・メモ 第二論文2を読んで思ったこと 「約束を守ることができる人間」と「できない人間」のことについて記されている。 ここの部分は、全体の中での役割としては、ある一つのコミュニティの中で、序列が生じる所以、必然性について書いていると思った。 そのコミュニティの中で約束を守る人間は上位にたつ根拠として、彼の持つ「良心」がある。 そして、このときの「良心」というのは、「約束を守ることができる自意識」であると同時に、「約束を守れない奴に鞭打つ権利を持つ自覚」でもある。 故に、「良心の疾しさ」が内向的な自虐であるとするなら、「良心」は外向的な虐待、というふうに解せる部分があるとおもった。 第二論文5を読んで思ったこと ここでは、債務者に負債を返済させる、約束を守らせるために、痛み、刑罰によって「忘れさせないように」してきた経緯がかかれている。 これを第二論文2と関連させて読むと、「約束を守ることができる人間」が「守れない人間」に鞭打つ様子を、刑罰という形で、そのまま5で記しているのだと思った。 こう読むと、2→5という流れがあるようにみえる。当たり前なのかもしれないけど 第二論文7を読んで思ったこと 第二論文しか読んでないが、ここで初めてニーチェの真の敵「健常者まで柔弱化、道徳化してしまうこと」が、ペシミストとの対比としてでてきていた。 ペシミストは生の嘔吐、人生への不信をするが、沼地の植物のようなもので、それはまだいい、問題(最悪のしるし)は、柔弱、道徳化なのである、という。それは自分の動物的本能をはじいるものだ。 ここの対比は、一見同じように見えたが、ペシミストは、生存そのもの、自分の存在そのものに対する嫌悪というよりは、生きることやそれに伴う苦悩に対して嫌気があるもので、後者の病人のほうは、自分の存在、動物本能的部分すべてが無理になってしまうのが、ダメってこと?かとおもった。 他にも、人間はやっぱり苦悩そのものよりも苦悩の無意味さがつらいから、いつでも自分の苦悩を神が見てくれるように、神を発明した、とか、 決定論だと神が退屈してしまうから、神が人間への関心をなくさないように、自由意志を発明した、とか、ここら辺の話忘れてて、おもろ、と思った 第二論文11を読んで思ったこと 長かったので覚えてることだけ書く。初読の時は、弱者のルサンチマンを抑えるために、(本当はしたくないけど)強者が法律を定めた、というニュアンスで読んでいたが、それは普通に違いそうだった。 むしろ強者は積極的に法律を定める立場にあるのだろう。 そう読めば、多分後に出てくる、ルサンチマンが方向転換し、内向的な自虐、良心の疾しさに至る、という文脈も、これは弱者側はそうならじるをえないことだから、スムーズにつながる。 また、「正義」という起源についてもちらほら出てきていたが、(「正義」の起源は、約束を守れる人が自分と同程度のものと和解し合うことであり、自分より弱い約束を守れない下劣な奴らには、ルールを強制し、和解させること、であった)正義の起源の、「和解させる」の部分が法を設けて「和解させる」につながるなと思った。 つまり、強者は、ルサンチマンを抑えたい!という動機というよりかは、彼らの正義の観念に従って、うるさいやつらを和解させる!という感じの動機になるのかとおもった。 第二論文14を読んで思ったこと 刑罰を受けた犯罪者が、「まずいことになった感じ」だけがあって、反省・更生などしないのだ、という段落。 その理由として挙げられているのが、刑罰だって、見かけ上はただの「暴力」であって、あいつらだって自分と同じことやってるじゃないか、という感覚にしかならないのだという。 ここを再び読んで、確かに、と思った。学校教育とかで、最初にちょっかい出したやつよりも、やり返して暴力を振るった側が、「でも手を出したのはお前だ」と怒られる風景がある。しかし、大人が、暴力に対してあえて怒るのであれば、そもそも刑罰がなぜ暴力的であるかを考えるべきだと思った。 また、犯罪者を裁く側の人間に、「罪のある者」を相手にしている感覚はまったくなく、単に損害をもたらしたやつ、不運なやつ、という印象しかない、という記述も興味深い。 つまり、「刑罰」という概念と「罪」という概念の連関、あるいは、「負い目」という概念と「罪」という概念の連関は、まだここでは整備されていない。まだその連関が見出されていない時の刑罰の話なのだ。 だから、犯罪者も、裁判官ですらも、お互いに、なんで罰する(罰される)のだ?とキョトンとしているのである。 コントかよ、と思った。 第二論文19を読んで思ったこと 神々の起源についてまた述べてるところがあった。祖先の存在が次第に大きくなり、神となる。つまり恐怖感情こそが起源だということだ。 おそらくこっちの方がニーチェの語り口調は強かったので、前回見た、「人間の苦しみを見落とさせないために発明した」というのは、特性の一つとして発明した、という感じだろう。 高貴な人々ですらも、利子として神々に高貴さを返済してしまった、という部分は、わかるような、まだわからないような気がしている。 第二論文21を読んで思ったこと この段落では、無神論と神(祖先)に対する負債のなさは比例するのではないか、という反論に対して、神が愛ゆえにすでに返済してしまったから、贖罪は不可能になってしまった、という主旨が語られる。 しかしこれはどうも屁理屈に聞こえてしまう。つまり、この段落は、キリスト教から逃れたくてももう逃れられない、だって神が贖罪してるから、という理屈だと思うが、そもそも無神論に向かえば、キリスト教から逃れられないとか、神が贖罪してる、とかそういうものに対しても無関心でいられるのではないか、と現代的な価値観から思う。なぜ無神論の人を想定するのに、キリスト教に囚われてる前提でいるのか、謎である。
ニーチェは、今の日本人こそ読むべきだと思う。言葉の一つ一つが自分に向けられているかのように刺さってくる。 中二の頃、岩波文庫で読んでいたときと違って、訳が新しいとニーチェでもものすごく読みやすくなっている。これは論文というよりむしろ詩と言った方がいいかもしれない。
第一論文は語源的に、良いと悪い、善と悪の系譜をたどっていく。これまでのニーチェの直感的、詩的な記述に比べ、論理的な記述が明晰である。 第3論文まで読んで、人間の底無しの深淵を覗き込んだような気がした。すごい筆力だった。 ヨーロッパとキリスト教、そして学問体系に挑み、瓦解させ、それでも、さらに生き...続きを読むよと言う。恐ろしい本だ。
これまでの文化、哲学、さらには学問全体を、徹底的に分析し批判することで、ヨーロッパを支えてきた従来の価値観を転倒し、新たな価値観を探る。 「どう生きるべきか?」という問いに、徹底的に、本気で向き合った、不朽の名著。 以前、岩波文庫版『善悪の彼岸』で挫折してしまったが、今回、『ニーチェ入門』を読ん...続きを読むでから本書に挑戦。 内容は難解だが、訳文は読みやすい。
善悪の起源、良心の起源、禁欲の起源、それらが如何に倒錯的に現れ、人間を支配してきたか。それは近代科学のような学問の領域においてさえ。
何かに対するアンチとして生まれる行動を批判し、ルサンチマン(怨恨の念)というシステムの起動を捉えていたニーチェ。 アンチ、つまり何かへの敵対や恨み及びそこからしか創造できないこと。 アンチから始まる道徳の究極の形態としての発展してきたものがキリスト教であった。 ニーチェ その名前だけならば知っ...続きを読むている。 実際、ニーチェは特に日本では非常に有名な哲学者だ。 例えば出版点数で見ると以下のようだ。 「ニーチェの著作の出版点数は、出版国別では本国ドイツに次いで世界第二位、言語別でも、ドイツ語、英語訳、フランス語訳に次いで世界第四位です。日本は、世界一のニーチェ翻訳大国です。ドイツ語圏以外で、ニーチェを自国語で読むことに対する要求がこれほど強い国はありません」(225~226頁『ニーチェ入門』 ちくま学芸文庫、清水真木著) ※ニーチェ入門は非常に丁寧な入門書として最初で最後の本としてとても良い本だった。 本書は第一論文から第三論文まで、ニーチェの著作の中では珍しい論文形式らしい。 『道徳の系譜学』は彼がその晩年に自分の思想を分かりやすく書いた本として、『善悪の彼岸』と並ぶものとのことだ(前掲書より)。 系譜学とは、その物事がどのように成り立ってきたのかを探る事であり、ニーチェは元々古典文献学を専門にしてきた研究者だった。 彼はその手法を元に思想を形成してきた面がある。 特に本書では、いかにして今『良い』とされるものと『悪い』とされるものが成り立ってきたかを考察している。 良い悪い、つまり善悪を考える事は道徳とよばれる。ヨーロッパでは特にキリスト教をその根底に置いている。 ニーチェは古代に遡り、弱者がルサンチマン(怨恨の念)に基づき、弱者こそ『善』、強者こそ『悪』という価値転換を行ってきたことを指摘する。 ルサンチマンを原動力とした統治システム、それがキリスト教だった。 ルサンチンマンは本書で以下のように言い表されている。 「道徳における奴隷の反乱はまず、ルサンチマンそのものが創造する力をもつようになり、価値を生み出すことから始まる。このルサンチマンは、あるものに本当の意味で反応すること、すなわち行動によって反応することができないために、想像だけの復讐によって、その埋め合わせをするような人のルサンチマンである…奴隷の道徳は最初から、『外にあるもの』を、『他なるもの』を、『自己ならざる者』を、否定の言葉、否で否定する。この否定の言葉、否が彼らの創造的な行為なのだ」(本書56~57頁) 怨恨の念が生み出す、価値転換。 そもそも強者が『善』であり、弱者が『悪』であった。 古代ギリシアの貴族は強く、誇り高く、強者であり善であった。 同じく「日本の貴族、ホメロスの英雄、スカンジナヴィアのヴァイキング…」(本書65頁)もそうであった。 その価値観がルサンチマンにより転倒した、それを探っていく。 つまりは、ユダヤ教、キリスト教の系譜=歴史を探るということだ。 特にニーチェの生きる当時の西欧世界にとってのキリスト教的価値観は絶大だった。 その価値観を系譜学、つまりその起源に遡ってその価値観の転換を発見したことは非常に衝撃的な出来事だったのだろう。 私はユダヤ教とキリスト教の大きな違いはユダヤ教が特定の『民族』にとっての宗教である事で、一方キリスト教は全人類の『普遍的』な宗教となったことだと思っている。 ユダヤ教はパレスチナ周辺に住んでいた迫害を受けていた人々の宗教として『選民思想』を基にしてその範囲の中で自己正当化を図る、そうせざるを得ない過酷な対外的状況に応じるために生まれてきたと考えている。 しかし、ユダヤ教共同体がうまくいくとその中でも弱者が生まれる。 その弱者を救うのがユダヤ教徒の改革者キリストであり、『隣人愛』という形で救済を唱え全人類にとっての宗教となったと考えている。 だから、ユダヤ教はその当初の民族以上の広がりを持つことはできなかったが、キリスト教はより広く『普遍性』をもった宗教としてうまくいった。 例えば、ローマ帝国の国教となるくらいに。 この発展のメカニズムをルサンチマンに見出し、 ルサンチマンがいかに機能してきたかを第一論文で指摘し、第二論文においてその宗教の中での代表者(司牧者)がそれを点検し、禁欲という理想が掲げられてきたことを指摘している。 さらにその禁欲という理想の名のもとに、近代的な学問もまた同様な構造があると言っており、ニーチェの射程は今の私たちにも間違いなくささる。 ルサンチマンという人間に備わる機能は、歴史的に全人類を覆うくらいに発展し価値観を転倒してきた。 それは宗教だけでなく学問にも同じように働いており、今も新たなルサンチマンという機能が蠢いているように思われる。 『トランプ現象』や『ヘイトデモ』や『反日』のような何かに対するアンチから生まれる、外にあるものを否定の言葉、否で否定するという創造的な行為はニーチェが解明したルサンチマンシステムの延長線上にあるように思われる。 しかし、外から「我々の自由が脅かされている」という恐怖と「無力な自分たちこそが善だと正当化したい」気持ちから発生する様々な現象の中には、個々人のよく生きたいと願う欲望もあると思う。 ニーチェはシステムとして現れるルサンチマンを基にした宗教を批判し、そのシステムの中で生きている人々にはルサンチマンに陥るなと言っていると思う。 ルサンチマンに回収されない個々人の欲望(よりよく生きたいというような)としての祈りが何らかの宗教的な形態を取ることや何らかの現象として現れる可能性はあるのではないかと思う。
西洋文明批判というニーチェの畢生の課題を、道徳の価値を問うという方法から遂行する。一応論文集という体裁はとっているが、中身はアフォリズムが敷き詰められた独特の文体である。しかしその中にも、道徳の起源を古き時代の支配関係、種族、生理学的反応などに見出そうとするニーチェの苦心が読み取れる。全てを混ぜっ返...続きを読むしてしまうニーチェの筆法がよくわかる作品である。
読み物としては、善悪の彼岸のほうが面白かった。テンポも良かったし、語り口にキレがある。とはいえ、ルサンチマンやニヒリズムといったニーチェ用語に生で接することができて嬉しい。どこまでも冷徹な目で世界を眺める様子はさすが。 論文形式といえど、結局はニーチェ節が満載で、敵対者に対して恐ろしいほどの語彙力で...続きを読むあらん限りの悪口雑言を尽くすさまは、つい笑ってしまった。 結論を小出しにしつつコネコネ、ネチネチと語る語り口で、途中でちょっと飽きた。でも解説が秀逸で、結論を一息で語ってくれる。
ニーチェの生涯における究極のプロジェクトは「善と悪の価値を逆転させ、ひいては西洋全体の価値観を転倒させること」だった。 本書はこのニーチェの計画の核となる考えを著したものである。 ニーチェはこの転倒を成すために、まず「善とされているもの」「悪とされているもの」がどのように成立してきたかを明らかにし...続きを読むた。 人間が社会生活を始めたのと同じくして、人間は「責任を引き受ける」という社会性を身につけた。そしてこの知はやがて社会に生きる人間にとっての支配的な本能となり、「良心」と呼ばれるようになった。 社会はこれを成員に守らせるためにさまざまな方法をとり、これが徹底されることで人間は安全性を手に入れた。 しかし、文明は人間に無償で幸福を齎したわけではなかった。社会の中で生きる代価として、人間が自らの欲望を棄てて生きることを強要したのだ。 これが、個人にとっての善が社会にとっての悪となり、社会にとっての善が個人にとっての悪となるという善悪の逆転であった。 そしてこれはルサンチマンの感情がもたらした転倒だったとニーチェは指摘する。 上記が本著におけるニーチェのコア・メッセージだと理解した。とはいえこれですべてが網羅できているわけではないと思う。 西洋古典独特の抽象的な題材かつ、婉曲的な表現が山盛りなので、決して読みやすい本ではないが、人類の本質的テーマである「道徳」の理解には欠かすことができない本だと思う。
この本では、禁欲、疚しさ、罪、悪の意味についてお話している。 愉快だったり、イライラさせたり。 ニーチェは重要なことをいうのを後ろのほうにとっておいたりするので、途中、言及の意図がわからなくて、読むのが辛かったりする。 いやむしろ、なんども読み返して欲しいがゆえにそうしているのだろうか。
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