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「死に至る病」とは絶望のことである。本書はキェルケゴールが絶望の暗黒面を心理学的に掘りさげつつ、人間というものの本質を激しく追求したものであるが、繊細深刻をきわめる絶望者の心理描写の中には、多分に著者自身の自己分析と自己告白とが含まれている。ここに著者の哲学的思索の根本的な特色がある。
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Posted by ブクログ
実存主義の創設者と言われる哲学者キェルケゴールの主著。 死に至る病とは、要するに絶望(死にたくても死ねない状態)のことで、これを解決するには信仰しかないとのこと。 読み始めて、早速このような難解な書を読むためにはどうすれば良いかという問題に直面したので、無理矢理にでも自分自身の問題に置き換えると...続きを読むいう方法で読み進めた。 まずは第一編の以下の冒頭は「自己」に別の言葉を入れることで、読者各々の実存(生きるとはどういうことか)を取り出すことが可能だと思った。 「人間とは精神である。精神とは〇〇である。〇〇とは〇〇自身に関係するところの関係である」 (私は〇〇に「運命」や「笑い」を当てはめて読み進めてみた) また、絶望は以下の4パターンに区分されるとのことだが、自身はどれに当てはまるか考えながら読んだ。 ※念のためパターンを記載しますが、これだけでは意味不明。 ①無限性の絶望は有限性の欠乏に存する。 ②有限性の絶望は無限性の欠乏に存する。 ③可能性の絶望は必然性の欠乏に存する。 ④必然性の絶望は可能性の欠乏に存する。 私は③だったが、③は現実を生きておらず夢想ばかりしている人向けである。 夢想している人間が現実に戻ってくる時に現実に必然性を持ち合わせていなければ、生きることができず、また夢想へと向かうのである。 最後に最も重要だと思うことは、本著を書いた当のキェルケゴールが絶望していたということである。 彼の父親は子供達は若くして死ぬと信じており、キェルケゴールに「可愛そうな子よ、お前はやがて絶望のなかに陥る」と言い放ち、幼く柔らかい心に呪いをかけた。 (実際に7人兄弟の5人は早死にし、1人は精神病で入院した、キェルケゴールは街中で倒れ死ぬ) またキェルケゴールは突然に愛していたレギーネとの婚約を破棄し、レギーネは思い留まるように彼に泣きついたが、結果絶縁した。 そして怠慢なデンマーク教会に改革を求め、教会闘争中に道ばたで倒れて42歳で死んだ。 元来の自意識、父親の呪い、愛する人との絶縁、腐敗した教会。彼はこの絶望から救われたのだろうか。幸せだったのであろうか。 少なくとも彼は自殺していない。精神病で寝床に伏してもいない。(それは決して悪いことではないが) 彼は背後に存在する絶望を決して人生に連れて行こうとせずに、むしろ周り右して、信仰とその知性を持ってして絶望に突進しに行った。 その凄まじい程の衝突は意図せず、キリスト教から実存主義を生んだ。(キリストが意図せず、ユダヤ教からキリスト教を生んだように) ここで、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えらない軽さ」の言葉を引用したい。 「悲しみは形態であり、幸福は内容であった」 「絶望は形態であり、幸福は内容であった」という現象もあり得るのではないか。そして、その幸福とは「生き抜いた幸せ」ではないだろうか。(キェルケゴールはそれを信仰と呼ぶだろう) 読者の私自身、物心ついた頃から現在に至るまで希死念慮と友達だが、そういう意味ではキェルケゴールは絶望の大先輩である。 しかし、私は知性も信仰もない。 どうすれば良いのだろうか。 ただ、確かに分かっていることは自分より遥かに絶望した人間が、この世界には間違いなく存在したということである。 それが分かっただけでも、だいぶ良い。 ★追記 本書には次のような文章が出てくる。 「罪は無知である。これが周知のようにソクラテス的な定義である。」 無知は罪?ソクラテス、こんなこと言っていたっけ?と調べてみると、案の定キェルケゴールのお手製だった。やってるな、キェルケゴール(笑)
キルケゴールを解説書などではなく、直接読むのは初めてだが、その信仰に身震いした。この歳まで読まずに来たことを悔やむ。つくづく読書は若いうちからはまるべきだ。これまで人生の何分の一かを損した気持ちになった。ただ私のラッキーは聖書に馴染み生きてきたことだ。多くの日本人にとって難解な書と思うが、聖書のバッ...続きを読むクグラウンドがあることで一文字一文字が沁みるように入ってくる。文体そのものは一見古いが、キルケゴールの言葉運びそのものは、要点が分かりやすく、それをさらに砕いていくのでとても読みやすい。 人間の最初の姿は絶望である。神の前に犯した罪の故にエデンを追い出されて必ず死ぬものとされた人の姿は絶望そのものである。人は可愛い赤ん坊すらも死を抱えて生まれてくる。これだけなら絶望せずにいられようか。キルケゴールの言う死に至る病とはこの絶望のうちに生きる人間そのものであるが、しかし同時に(歴史的時間差はあれど)永遠の命の希望と赦し、救いをもたらすために人となった神が元からおり、その神と離れた状態を指して、さらに踏み込んで病として様々な表現で絶望を説明する。これが第一部である。日本にはキリスト教の神はないからそんな絶望は関係ないと感じる読者も多いだろう。そのような「絶望」の姿も第一部にはしっかりと書かれているからよく読まれたし。 第二部は絶望が神と人を分断するところの罪に置き換えられて述べられていく。罪とは一般に思われている徳の反対としての罪ではない。時々発露し人に迷惑をかけるような罪のことでもない。信仰の反対を罪という。永遠の命にに至る、神が私をあなたを赦したがっているという事実に抗うこと、罪とは行為ではなく状態のことである。 実存主義とはこの書が起点になったと説明されるが、人が死から命に移されていることのリアリティのように思う。 なぜキリスト教は嘘くさく人に伝わるのだろうと思うことがある。キルケゴールの言葉は爽快だ。それはキリスト教界がキリスト教を擁護するからだ。神による実存から自身と真実を切り離し外側に回って擁護するのだ。それは第二のユダである。ユダは接吻から裏切るのだと。
文章は哲学調で読みにくいが、趣旨は明快。実際、本書が示す段階に沿って一段二段と歩を進め、生きてきた人は少なくないのでは。哲学と馬鹿にさせないだけの見事な現実洞察があると思いました。
引用のされ方によるかもしれないけど、その姿勢や感覚は好印象。読み通すのは大変だけど読み通してよかったと思える。前提に対する共感がある程度必要かなと思う。そうでない人には響かないかもしれない。しかし、やはり名のある哲学者だけあり感じたことは有意義だった。
絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。 絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、...続きを読む当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。 学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。 絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。 では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。 自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。 自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。 絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。 ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。 キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。
「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である。」有名な冒頭文だがこれだけ読んだ時点でさっぱり分からないが、読み進めていくと何となく分かるような分からないような・・・。 実存主義者の先駆けとなったデンマークのキェルケゴ...続きを読むールの「キリスト教」における「罪」や「絶望」そして、「自己」の「関係」ということを深く考察している。 死に至る病と言うのは、それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病を指す。それがちょうど「絶望」と呼ばれるものである。死ぬに死ねず、絶えず死に面し死に至りながら永遠に死を死ななければいけないということなのである。 キリスト者にとって、死という最後の希望さえも遂げられない希望が失われているのである。 絶望している当のものは、地上的なるものではなく、自己自身である。永遠なるものと自己自身を失ったという絶望である。 また、「絶望とは罪である」ということが云われ、様々な様態の罪の考察が行われる。罪とは、人間が神の前に絶望的に自己自身を欲しないとこないし絶望的に自己自身であろうと欲することの謂いである。キェルケゴールはここで「神の前における自己」ということを言う。 罪のソクラテス的定義は、無知であるということ。その定義の難点は、それが無知そのもの、無知の根源等々を更に立ち入って行かに理解すべきかを向規定にしている部分にある。罪とは、神の啓示によってどこに罪の存するかが人間に明らかになされた後に、人間が神の前に絶望して自己自身であろうと欲しないことないしは絶望して自己自身であろうと欲することである。 悔い改めざる瞬間における新しい罪もある。躓きやキリスト教の廃棄という罪についても。 キリスト教界の根本的な不幸はキリスト教である。 彼は、「個体的な人間、罪人」のみがキリストにおいてある神の前に生きていると述べる。各人を個体にして、そこからキリスト教は始まるという逆説を彼はとくのである。
―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。 人が全く絶望していない状態を叙述したキルケゴールさんの定式である。 キルケゴールさんはほとんど全ての人間は絶望していると言う。絶望していない人はほとんど存在しない。存在して...続きを読むいるとしたら上記の定式に当てはまっているというわけである。 この本では絶望の様々な形態が抽象的かつ具体的に細かく描写されている。それぞれの絶望が目に浮かぶ。 何も考えることなく日々の辛い日常に埋没している人、単に享楽に浸り込んでいる人、世の中を恨み引きこもっている人、自分は成功者と人々にもっともらしい説教(最近はネットの発展でFacebookやTwitterで持論を展開していることも含まれるかな?)をしている人、企業家、政治家、仕事に疲れたサラリーマン、夫に愛想を尽かした妻、そしてなんとこの私自身もこの本のなかに見事に描写されている。 キルケゴールさんはこの本を教化のための著作といい、教化とはもちろん表面上はキリスト教を信仰しなさいという意味なんだけど、そして、この本の結論としては、これまた表面上は絶対に何等の絶望も存しない状態になるためには信仰するしかない…というものではあるのだけれど、わたしには実のところキリスト様は関係ないのじゃないかと思う。 脳が脳を見ることができないように、世界を見る自分という存在がその見る対称たる世界に含まれているという矛盾から生まれる叙述の不可能性ゆえに、脳の中でのグルグル回しの無限性ゆえに、不可能を可能にする、無限を体現する神を仮定せざるを得なかっただけなんじゃないかと… しかし、もう、ヒッグス粒子も見つかり、相対性理論は普通に携帯電話に用いられ、宇宙は膨張し、空間は時間から生まれることも記述される今となってはキリスト様を持ち出すまでもなく、とどまることのないとは言え、種々の事情によって個人的に限定された己の可能性を掴みとり、その可能性を具体的に現実化していく努力をすればいいのじゃないかと… 「あなたはあなたでしかないでしょ。この世にはあなたはあなたただ一人。あなたしかいないでしょ?そんなあなたには可能性があるでしょう?どんな人にも可能性はあるのよ。だって、すべては変わっていくんですもの。あなただって変われるの。今のまんまでいいわけ?そうじゃないんでしょう?だったらできることをやったらいいじゃん。できないことでもやってるうちにできるようになるかもしれないでしょ。いや、できるようになるものなのよ。やり方が間違ってなければね。それがあなたの可能性なんじゃない?頭ばっかで考えてたら、現実から浮き上がって彷徨っちゃうよ。地に足つけて。あなたを生きられるのはあなただけなの。だから、気を取り直して。できることをコツコツと。あなたには変われる可能性があるの。それも自らの望みで。人間ってそういうものなのよ。人間ってそうやってそみんな世界を変えてきてるの。だからね、もう一度言うけど、できることをコツコツとね。」 というようなことを言いたかったのじゃないかと思われた。 キルケゴールさんの ―自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して、自己は自己を措定した力のなかに自覚的に自己自身を基礎づける。 とは、 ―できることをコツコツと… と同じ意味だと、わたしは解釈した。 その結果、わたしは「あぁ~やっぱり、これでいいのかな…」と自分勝手な解釈だとは思いながらも安心するのでした。そのように安心できるのも、キルケゴールさんがものすごい迫力で面倒くささを厭わずに時代を超えて人類の心の奥に通底するなにものかを伝えようとしてくれたからなんだと… 爪の垢でも煎じて飲みたい気分であります。とは言え、まぁ~できることをコツコツと…ですね。 Mahalo
死に至る病=絶望として、 キリスト教の観点から徹底して絶望を見つめる。 絶望が罪であるということ、 その罪がキリスト教にある原罪と関係があることなど、 深い考察が行き渡っている。 僕らが口にする絶望という言葉が、 どれだけ多面性を帯びているか、 それを知るだけで、暗闇に目が慣れていくように、 絶望を...続きを読む冷静に見渡せるようになれるとも思う。
いかに生きるか。絶対的な可能性という永遠者を見つめ、それに対する内なる永遠者(つまり自己)の声を聞き、その声に従って生きよ。それこそが神に近づく信仰者の道であり、真の生き方である。 絶望について書いたものでありながら、そこを端緒に人間とは何か?自己とは何か?生きる意味とは?といった疑問に答え...続きを読むる道筋を丹念に示している。 信仰者キェルケゴールの著した全人類必読の啓蒙書。
大学1年の6月頃に読んでた気がする。 色々と付き合いや家庭の事が原因で4年間ほど湧いてた鬱な感じを、CLASHの「London Calling」のジャケットのギターのようにぶち壊してくれた。 バカみたいだったよ、長い間抱いてた思いが数時間で壊されちゃったんだもん。 今思い返すと、この本がきっかけで実...続きを読む存主義哲学に興味が湧いたんだったな。 題名にたじろぐ人も居るかもしれないけれど、人の血が通ったとっても温かい本でした。
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