絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。
絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、
...続きを読む当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。
学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。
絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。
では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。
自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。
自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。
絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。
ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。
キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。