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西田幾多郎、レヴィナス、ドゥルーズ……その思考のあらたな可能性これまでの哲学が再三にわたって論じてきた「私」という問題。しかしそこには、大きな見落としがあったのではないか?産まれる、子をはらむ、産む、死んでいく、だけど誰かが残る。こうしたことを、それ自身として真正面からとらえる。そのための哲学が、ここからはじまる。(講談社選書メチエ)
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Posted by ブクログ
「子供とは誰にとって何なのか」という、根源的な問いと向き合う。私たちが“自分”と呼ぶものの成立条件を揺さぶる本であり、読み進めるほどに、身体と他者の境界線が鮮明になる一方で、その境界をめぐる不確かさも浮かび上がる。子供は全くの他人に比べれば、私と大部分の利害を共有する。だが、それは自らの遺伝子を継承...続きを読むした子供だからなのか、家族という設定ゆえか、共同生活をしているからか。 私にとって「私」とは、まず身体を媒介に成立する領域だ。怪我をして痛むのは“私”であり、恥ずかしさを感じるのも、お腹が空いて苛立つのも、“私”の身体が経験している出来事だ。身体という輪郭により、私は無条件に「自己」を認識する。そして、その輪郭の外にある存在がどれほど近しい関係にあっても“私”ではない。どれほど愛情を注ごうと、他者はあくまで他者なのだろう。 この基準を子供に適用するとき、私たちはしばしば直感と衝突する。遺伝子的に繋がっているという前提を、私たちは“当然の事実”として信じている。しかし、人間にはその繋がりを身体的に実感・証明する機能などもともと備わっていない。生殖行為の結果として生まれた子供を「私の子」と認識するのは、実際には身体的実感ではなく、信仰に近い認識の飛躍だ。遺伝的な繋がりがない子供を無自覚に「我が子」として愛し育てている例がこの世界には多数存在する。托卵のような悲劇?もあれば、連れ子を深く愛する家族もいる。つまり、私たちの“親子という物語”は、信じることによって成立している。 本書は“産まれるものとしての身体”をテーマに、「子供」を切り口に他者性の哲学に挑んでいく。引用の思想により、かなり難解な部分も多い。例えば、レヴィナスは、他者を「認識の対象」に回収する力学そのものを倫理的暴力とみなし、認識以前の“呼びかけ”として他者を捉えようとする。だが、本当に認識以前の出来事など語り得るのか。語った瞬間にそれはすでに意味づけされ、認識論の枠内に閉じ込められてしまうのではないか。「認識に還元しない哲学」というのが正直良く分からない。 また、ハイデガーの「世界内存在」も、結局は世界を基盤とした関係性の網の目の中に人間を置き直す試みだが「世界」が先にあるという見方自体、すでに記号化された認識ではないか・・と私は、自己も他者も子供も全て「認識論」でしかないと考えるのだが、単純化し過ぎなのだろうか。 自分と結びつけるひとつの物語として「親子」を構成しているにすぎない。これは認識が作り出す信仰的な結びつきである。他者論と言いながら、認識論の目線で読んでしまったが、何だか勿体ない読み方だったのかもしれない。というか、他者論の解読は難解だった。
久しぶりに哲学書に手を出してみた。(笑) 最近長女の性格、発言、容姿などが私に似ていると旦那含めあちこちで言われるようになったが、 なんだかそうたびたび言われることに対して心の中でふつふつと苛立つものがあった。 「長女は長女であって一人の人間で、私は私という人間である」 と自分自身は思っているも...続きを読むのの、 なぜそんなにも周りは私と長女を同類化させようとするのか。 他にももやもやしていたところはあって、 そんなもやもやしていたところに見つけたのがこの本。 「子供の哲学」とあるが、 生殖し、妊娠し、生まれてきたいのちに対しての「哲学」である。 (なのでここでは「子ども」表記でなく「子供」表記で書かせていただく) ↑ 着眼点が面白いな(そして私の疑問にタイムリーだな)と思ったのが最初に本を手に取った時の感想。 西田幾太郎がベースなのかな。 どちらかというと後半部分(四章~五章)あたりが自分の疑問にぴったりとマッチしていたかと思う。 「私の子供である」という表現への哲学的考察について、興味があったものの、 「子供を産むが故に死ぬ、紡ぎだされる他者への愛=いのち」 なのだろうなとは納得できるけれども、 それが遺伝という伝達物質なのか。 自分的には斜め読みじゃ納得できない部分も多かったり。 逆に他に対する疑問が湧いてきてもいる。 (哲学書ってそんなもんだろうけど) 最近ちょっと「?」と思っていた 生殖行為と性的行為、そして愛する行為が 時に一致しない、完全分断されているにもかかわらず、 妊娠し、子供を宿し、いのちが生まれる=産む。 またそれは運であり、必ずしもいのちが生まれてくるとは限らない。 時に体外受精とか卵子凍結とかあるけれど、 子供を宿す行為への多用化に対する男女の身体論。 ↑ここまでくると生命倫理にまで発展してしまうけども、 突き詰めるとますます疑問が生まれてきそうですが、 いろんな意味で自分としてモヤモヤしていた疑問が間違っていないんだなと肯定できた一冊となりました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 久しぶりの哲学書は読むのさすがに訓練されていないがため疲れました・・。 あまりに読み込めなくてノートにメモしながら読んでいました。
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子供の哲学 産まれるものとしての身体
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檜垣立哉
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