「老子」と聖書を比較すると面白い。
「これこそが理想的な「道」だといって人に示すことのできるような「道」は、一定不変の真実の「道」ではない。これこそが確かな「名」だといって言いあらわすことのできるような「名」は、一定不変の真実の「名」ではない。
「名」としてあらわせないところに真実の「名」はひそみ
...続きを読む、そこに真実の「道」があって、それこそが、天と地の生まれ出てくる唯一の始源である。そして、天と地というように「名」としてあらわせるようになったところが、さまざまな万物の生まれ出て来る母胎である。」
「道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。」
ヨハネによる福音書
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
創世記
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」
そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」
そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。」
ベイトソンが創世の神話を比較しているのを模倣できそうな感じがする。「老子」と「ヨハネの福音書」、「創世記」は言葉から万物が生まれるという点で類似している。聖書においては「神=言葉」はほとんど「創造」そのものであるが、「老子」においては、その向こうを見出そうとしているという差異をみてとれる。「ものそれ自体を認める立場」と「認めない立場」という差異性を見てもいいかもしれない。その立場は認識をどう切り取るかという話なので、どちらが正しいとかではなく。
ガリレオは「宇宙は数学の言葉で書かれている」という言葉を残している。ソクラテスのような対話が継承され、言葉は世界であるという世界観と交われば、科学が西洋で発展したということに頷ける。
ただし、アインシュタインになるとそれはほとんど反転しているかもしれない。「この世界について最も理解できないことは、それが理解可能だということだ。」
なにかまとまったことを言うには知識がない。
カッシーラーは「実体概念と関数概念」という本を記していて、それは確かプラトンからアインシュタインに至るまでの科学の言説の変化を「実体」的な概念から、「関数」のような関係の概念への変遷として捉えたものであったよう思う。あまり覚えていない。ガリレオの言葉とアインシュタインの言葉にある差異は存在の言語、神の言語としての世界の解読を行っていた科学が、世界を関係の言語によって読み解くに至った過程を示しているのかもしれない、なんて。それが正しければカルロ•ロヴェッリまでそのストーリーで直接繋がっていくわけであるが、そこまで、一貫した何かが、果たしてあるのかどうか。
「まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成り立ち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いともたがいに相手があることによって傾斜ができ、楽器の音色と人の肉声とは、たがいに相手があることで調和しあい、前と後とも、たがいに相手によって順序づけられている。」
「故に有と無と相い生じ、難と易と相い成り、長と短と相い形われ、高と下と相い傾き、音と声相い和し、前と後と相い随う。
是を以て聖人は、無為の事に処り、不言の教えを行なう。」
この「老子」の言葉にはある項が他の項との差異性においてそうであることが書かれており、そして「聖人」がそれらに惑わされない、「ものそれ自体」のような位置にとどまりつづけることが示されているのではないだろうか。
ソシュールの言語学との類似性を見てもいいし、自分の作った比較尺度の話ともかなりの類似性を持っている。禅宗は道教との交流が多く、その禅について学んだベイトソンを読んで禅について考えるようになった自分が、「老子」の言葉に類似していくのは何かあるかもしれない。
「老子」の言葉は奇妙に思う。自分が練りに練ってたどり着いた場所に近いところに頻繁に言及しているが、そこに至るまでの論証過程がなく、答えだけがあるように見える。答えしか示さないのはあまり教育上よくない。その点対話篇が残っているソクラテスや哲学の過程は優れている。論証過程があまりないから、むしろ複数人の非常に優れた知恵者が残してきた伝承や言い伝えに近いような気がする。知識の形態がなにか違うのかもしれない。道を探求してきた知恵者の身体や習慣の中に刻まれているのかもしれない。
自分が比較尺度の話に思い至るに至ったのはシャノンの情報理論、ベイトソンの情報の定義、ノイマンのいう影の社会、ソシュールの言語学や柄谷行人の可能世界論などの近代以後の論者の多くの手がかりから考えていたにも関わらず、それと類似したものを古代に閃いていたということに驚きを禁じえない。神秘。
「慈なるが故に能く勇」という言葉には感銘を受けた。訳者の解釈とは少し違うが、自分はこう思った。多分、「慈しみ」を持っていること自体が「勇」そのものなのだと。相手を倒そうと「戦う者」はその相手に打ちのめされることを恐れている。あるいは相手に何かを奪われ、失うことを。しかし、たとい相手が自らよりも強大で敵意を持っている場合でも、そのものに対して恐れからでなく「慈しみ」を分け与えることができるものは「戦う者」よりも遥かに「勇」を持っていると言わざるを得ない。その者は相手もその暴力も、何かを失うことも、自らの死も恐れていないのだから。そして、その命がけの跳躍に成功したならば、確かに「敵」を打倒できるであろうし、それは「争い」への勝利であり、そこにはただ平和だけが残るであろう。
ただし、これはほとんど「人間」にできることではない。それができるのは神性を帯びた「聖人」のみであろう。多分、それは「福音」の最も崇高ななにかの一つでもあるのだと思う。
ウクライナでは争いが起こっている。自分にはその争いは否定することはできない。自分自身、聖人になんてなれやしない。ただ、それでも最も勇敢な者は争う者ではなく、慈しみを持っている者だということを信じて、それに近いものに満ちあふれた世界作ることを夢見ていたい。
なぜこんなことを書くのか本当に意味がわからないのだが、思いついたことを記しておく。
分断する世界でも、我々は「共通の利益」を持っていないわけではない。米国と中国がどれだけ対立しても、①「第3次世界大戦」、「核戦争」の勃発、ひいてはそれを連鎖的に誘発する紛争の発生、あるいは②環境問題による人類、地球上に生けとし生けるすべての生物の現在と未来の住環境の毀損、それらを避けることは「共通の利益」であろう。
それは米中間のみならず、すべての国家、地球上のすべての生物の利益に当たるはずだ。米中ほどの大国、さらには、西洋、日本、韓国と中国の衝突が起こればいずれの側にも多数の犠牲が出ることは目に見えている。
まずは、以上の2点がいかに世界が分断しても、存在し続ける「共通の利益」であることを確認した上で、西側と東側が双方「調和をもたらす自由」と「総体から見られた真実」を尊重して、一昼夜で問題を解決するのではなく、根気強く対話を進めれば軍事的な衝突を避けることはできないだろうか。
紛らわしいレトリックや表現を弄んでいる自分が言うのもどうなのだろうという感じである。一応はあくまで、メタファーやらなんやらを用いただけであって嘘をついたわけではないと思っているのだが、まあ、そんなことはどうでもいいだろう。ただ、自身の言説における真理の探究という点で妥協をしたおぼえはないから、残しておきたい。
いつも通りのいい加減なお話。
正直なところ、自分が考えるべきでない、考えたいとも思わない、現代の時勢についてあれこれ考えすぎてしまった。向いてもいない、知りもしないことに注意を向けてどうも道を誤ってしまったようだ。
自分のこれからの本当の仕事はプラットフォームは少なくとも10年〜、思想やら社会の仕組みやらは200~300年単位の仕事であるはずだ。未だに誰からも何のコメントもメールもないから、最初で最後かもしれないが、心意気だけはそのつもりでやっていこう。何か見られているような気はするけど、それに反応するとまた病院行きだ。ただの自意識過剰であり、自分は何も見ていない。
これから諸々のことに集中するために、この読書録は次とその次で終わりにする。
「老子」は文句なしの星5つ!繰り返し読んで人生の道標にしたい。素晴らしい読書体験だった。