都市と都市、ヨーロッパのはし、バルカン半島のあたりにあると思われる二つの都市国家、ベジェルとウル・コーマは「地理的にはほぼ同じ位置を占める」。ほぼ同じ場所を占めるという紹介文の記述がまずわからなかった。いったいどういうことか。
それは『アンランダン』の裏ロンドンのように同じ場所だが異次元、という
...続きを読むようなSF的に現実離れした設定ではまったくなく、実現可能だが政治的に現実離れした設定なのである。二つの国の国境はいわば双方の国民の心の中に画定されている。ベジェルの側からみると、完全にベジェルの土地である〈コンプリート〉な場所、まったく異国、すなわちウル・コーマの領土である〈アルター〉な場所、両者が混在する〈クロスハッチ〉する場所がモザイク状に入り組んでいるのである。
ベジェルの住人は目の前にウル・コーマの街並みがあり、ウル・コーマ人が歩いていても〈見ない〉ようにする。ときどき目があってもすぐに目をそらすように習慣づけられている。それを犯すこと、すなわち〈ブリーチ〉は重大な違反行為なのである。
私の住む3丁目は日本だが、4丁目は北朝鮮になっていて、そこは〈見ない〉ように生活する、5丁目の交差点は〈クロスハッチ〉していて、北朝鮮の車も通るけど、それも〈見ない〉ようにしながら避けて通る。というような感じか。
馬鹿げている? そうかもしれないが、外国人にとっては極めて馬鹿げていても、現地人には非常に大事なことって実はたくさんあるではないか。ミエヴィルはこの奇妙な二つの都市を現代に配置して、実際にありそうに思わせていくのである。ベジェルとウル・コーマが分裂する前の遺跡の発掘現場、愛国主義者、統一主義者などの政治集団などの道具立てのほかに、インターネットもあるしiPodも出てくる。
しかし全体の体裁はミステリーというジャンルを遵守する。私、すなわちベジェル警察のティアドール・ポルル警部補が、若い女性の他殺現場に到着するところから話がはじまる。ところが、まず被害者を知る者が誰もいない。やがてわかってくるのは、彼女がかつてベジェルに滞在し、その後、ウル・コーマに移った外国人で、ベジェルとウル・コーマの間にあるという伝説の第三の都市オルツィニーについて調べていたということである。
すなわち、殺人犯は、被害者をウル・コーマで殺して、ベジェルに遺棄したという〈ブリーチ〉行為に関わっていた可能性があるのだ。ベジェルとウル・コーマの権力のほかに、この〈ブリーチ〉行為を取り締まる〈ブリーチ〉という名の秘密警察のようなものが別にあるらしく、本件を〈ブリーチ〉で扱うようポルル警部補は監視委員会に要請する。
ところが、とってつけたように、犯人が合法的に国境を越えたという証拠が出てきて、〈ブリーチ〉は発動されない。ポルルはウル・コーマ警察に協力して捜査を進めるため、ウル・コーマに入国するはめになる。
総体局所的(グロストピカリー)にはすぐ隣のブロックにある〈アルター〉な地区に直接歩いて入ったらそれは〈ブリーチ〉である。そこで旧市街のコビュラ・ホールに行って、正規の手続きをふんでウル・コーマに入国すれば、〈アルター〉な隣のブロックに行くことができるのだ。しかしその際には、もはやベジェルのほうを〈見ない〉ようにしなければならない。隣のブロックは総体局所的には、隣にあるのだが、遠い異国なのである。こうした造語ももっともらしい雰囲気を作り出す。ベジェルの××街の位相分身(トポルゲンガー)はウル・コーマでは○○街だ、とか。
背表紙の紹介文に「ディック−カフカ的異世界」などとあるが、それはまったくの誤読であろう。ディック−カフカ的世界には超自然的なものが介入するが、ミエヴィルの世界には「不思議なことなど、何もないのだよ」。
読者をこの2つの都市の住人にしてしまう綿密な描写のあと、事態は急を告げ(どうやらオルツィニーについて調べているものが命を狙われるらしい)、それまでまるで超自然的存在であるかのように畏れを持って描写されてきた〈ブリーチ〉が登場する。第3部は〈ブリーチ〉。ポルルは〈ブリーチ〉へと入るのだ。〈ブリーチ〉へ入るということがどういうことなのか、ここでは述べないが、相互に〈見ない〉ことで成り立つ都市と都市のありさまに馴染んだ読者には、認識論的飛躍のめまいを感じさせるだろう。
終盤、「都市と都市」の特性を利用した犯罪の謎を解くポルルの活躍は、何とも見事に盛り上げられていて、しかもミステリの快感がある。さらにこの認識論的飛躍が深い陰影を添えるのだ。tour de forceの作品である。