デビューの契機から1980年代を通じて松田聖子の楽曲をプロデュースしてきた当時CBS・ソニー社員だった著者の自叙伝。そうであるがゆえ,文体に主観的な印象を拭えないが,松田聖子本人が自身の歴史を自らの文体で残さない以上,80年代における松田聖子史の貴重な「一次資料」だといえる。これに付け加えるならば
...続きを読む,本編は,デビュー前に著者に郵送した松田聖子の手紙が6通引用されているという「史料紹介」の役割も兼ねている。
本編は176頁までだが,残りの60頁近くを「アルバムとシングルについて」と題し,当時プロデュースした楽曲の成り行き,作詞家・作曲家とのいきさつ,アルバムの構成について述べられているのは,興味深い。些か本編と同じ内容が繰り返されている箇所も少なくないが,おそらく,これは,「アルバムとシングルについて」が先に執筆され,それを受けて本編が書かれたためだと思われる。
本書のタイトルである「松田聖子の誕生」には,3点の意味合いがあるのだと推測される。
第1点目は,文字通り,松田聖子本人の誕生である。蒲池法子という高校生から松田聖子という80年代最強のアイドルが誕生したプロセスは,本編を通じて余すところなく語り尽くされている。
第2点目は,「松田聖子」という音楽ジャンルの誕生である。著者も述べているように(144-145頁),松田聖子の楽曲は歌謡曲でありながら,当時洋楽的センスに満ちあふれた作詞家・作曲家・編曲家たちによって作られたものであり,それが娯楽性溢れる歌唱法によって歌謡曲に収まってしまうという特徴がある。そのような音楽ジャンルは1970年代までには存在していなかったことから,「松田聖子」は新たな音楽ジャンルを誕生させたといっても過言ではない。
第3点目は,「松田聖子」に代表されるリゾートやトロピアカル・アイランドといった海外旅行の誕生である。80年代には新興の旅行代理店も参入し,ますます海外旅行が身近になっていくが,「松田聖子の誕生はちょうどその過渡期とも重なっていた」という文面が,本書のタイトルにもちょうど重なっていた点を,看過してはならないだろう。著者がアルバムのキャッチコピーを考えるときに,『anan』をはじめ,女性ファッション誌を意識して見ていたというのも,その象徴である。
著者が,聖子の父親と初めて対面したのが,西鉄グランドホテルだったというのも,本書を福岡で読んでいるからこそ,非常に興味深い。
本書の原稿は,2022年の初夏に書かれたという。前年末に神田沙也加さんが亡くなったことで,本書の文面は,その母親に対するエールであるようにも伺えた。