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教育は前向きな実践であり、またその言葉は「人々を幻惑させる力」を有し、批判の声を封圧する。教育界が取りつかれている前向き思考は、長時間労働という現実問題への直視を難しくさせている。
私が知る教育養成系の在学生は、「魅力は十分に分かっている。だからこの大学に入った。あとは、働き方が改善され...続きを読むることを願うばかり」と打ち明けてくれた。魅力を高めるためには、魅力を高めようとする志向から離れなければならない。これが大炎上から得られた教訓だ。
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もの言わぬ教師はいかにつくられたか
教師を目指す学生たちの多くは、多くの学校で教師たちは動力の教職員や管理職と侃侃諤諤に議論していると思っている。実際、かつての学校の在り方はそうで、その中でお互いに同僚性を深めることができていた。声の大きい教師やそうではない教師などもいる中で、若手もベテランもなく第一線の教師としてある意味対等な関係で意見を交わすことができた。こうした学校内部における学校経営(教育活動を支える学校全体の意思決定や運営などの営み)の在り方は政策や行政の手が届かず、それゆえ多様な学校経営がありえたし、その分、移動後その学校文化に慣れるのに苦労する、ということもありえた。しかし、今はそうではない。そう話すと、学生の多くは驚き、失望することもある。「教師の世界はそんなに不自由なのですか」と。
目立った変化として、2006年改正の教育基本法6条2項に「体系的な教育が組織的に行わなければならない」と規定されたことがある。この方向性の下で、学校によって自治的あるいは自発的に、多様な形で営まれていた学校経営が、法令や自治体の制度などにより法的に枠付けられていく(=法化現象)。その法化により、学校経営組織や意思決定の在り方は標準化されたものに塗り替えられてきたのである。
先の中教答申の示した改革の視点で真っ先に実現したことの一つは、「校長・共闘への適材適所の確保」であり、学校管理職への集中的なエンパワメントである。2000年には民間人校長制度、2006年には民間人教頭制度が鳴り物入りで導入され、職員室に新しい風を吹き込むことが期待された。さらには、「校長のリーダーシップ確立」を旗印に、学校裁量・権限を拡大することが図られた。教育課程に関する面では、学校が創意工夫を凝らすことのできる総合的な学習時間の創設(2002年告示)、学習指導要領が最低基準であることの確認(2002年)がなされた。また、自治体により異なるが、学校裁量予算、企画提案型予算制度などの財政面、教職員公募制やFA制などの人事面での裁量拡大も進んできている。
他方で、教育基本法改正後の2007年には、新たに副校長。主観教諭・指導教諭という職が学校教育法に設けられた。特に前二者は、「校長を助け」「命を受けて」校務に当たるものとされており(学校教育法37条5項、6項)、校長をトップとする指揮命令のラインを担うものと期待された。また、これらが昇任試験合格により任命される、俸給表の異なる新たな職として設けられたことは、校内の教職員組織の更なる多層化を意味した。
2015年、中央教育審議会答申「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」で「チームとしての学校」が提唱され、「教員以外の専門スタッフの参画」が第一の方策として挙げられた。スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、学校司書、部活動指導員、看護師の設置を拡大していく提言自体は、複雑化・肥大化した学校課題を解決するにあたって重要だ。しかし、より複雑化していく教職員組織の中で、教師の専門的自立性をいかに確保するか、教師一人一人の「声」がどれだけ尊重されるかは、それほど丁寧に検討されたとは思えない。