「陰口を言うことより、いすを投げつける方がいつも罪が重かった」
本文中に出てくるこの文は、私も同じ思いに囚われている。おそらく今でも(お子さまですいません)。
冷静に考えてみると、確かにいすを投げつける方が、相手に取り返しのつかない大怪我をさせてしまう可能性が高いから罪が重いのだろうと、大人なら
...続きを読む思うだろう。
ただ、こう返されると、当時の子供の私には、
「肉体の痛みと心の痛みは、肉体の痛みの方が上なの?」と反発するだろう。
「私がどういう環境で育ってきたか、あんたたち知ってるの。知りもしないくせに分かったようなこと、言ってんじゃないよ」と、今風に言うと「キレて」しまっていたのだ。
さすがに、その後の色々な経験や、この作品を読んだことで、これに対する今の私の解答としては、
「自分のみでなく、相手の立場も考えながら、冷静に自分の気持ちを、誠実に訴えればよかった」
ということになるのだが。ただ、当時の私にはそうした答えが分からなかったし、親も先生も誰も教えてくれなかった。まあ、結局、自暴自棄で高校を中退してしまい、しばらく荒れたという昔話で。
要するに何を言いたいのかと言うと、児童書って、物語として楽しめるのはもちろん、本当に必要な人のために書いてるんだなということです。前も、他の作品の感想で書いたかもしれないが、悩み苦しんでいた当時に、この作品と出会っていれば、と思っちゃうんですよね。
主人公の中学1年生の「雅也」は、発達障害なのではと思われてる中、親から「どうして、こんなふうに育ってしまったんだ」と。知るか。こっちが言いたいわとツッコミたくなる、嫌な始まり方。
雅也は、時に自分の感情を抑えきれなくなる時があり、ずけずけとしたもの言いをして、相手を傷付けたことを後悔するけれど、自分自身でどうにもできないもどかしさに苦しんでいた。言っていることは正当なんだけど、自分の立場だけでものを言っているようにも捉えられかねない。
そんなわけで、友達もいない雅也は、「みつばちマーヤの冒険」の本だけが信じられる存在で、鬱屈とした日々を過ごしていた。
そんな雅也だが、叔父の養蜂の仕事を手伝うために、向かった北海道で出会った仲間たち。そこの子供たちは、皆、家庭環境など様々な問題で苦しんでおり、その中の五人の子供たちのまとめ役で冷静に見える、雅也の同級生「海鳴(かいなる)」は、
「強くないよ。ただ、ぼくはゆっくりとがまんするしかないだけさ。逃げる場所がないから、一生懸命にがまんすると、なにもかもいやになる。ぼくたちは前を向いて歩く前に、顔を上げなきゃいけない。それだけでもたいへん」
と思いを語る。この台詞を覚えていたのだろう、後の雅也の台詞に
「あきらめる練習よりも、あきらめない練習が必要な人もいる。顔を上げるためには、心の奥にまで差し込んでくる光が必要」
ちなみに上記の台詞は、自分だけでなく、他人を守ることが自分自身の喜びにもなると気付き始めたときのもので、雅也もこういう台詞を言えるようになるまで、成長したんですよ。
また、養蜂での体験において、様々な立場で物事を見ることや、生きることの大変さを教えられる。
例えば、
「刺されるっていうのは、人間本位の考え方。みつばちにしてみれば、刺さなくてもいい相手を刺して死ぬこともある」
「病気でみつばちが大量に死んだり、水害で流されたり。生きるっていうのは、いつもあきらめと背中合わせだ。残酷だな」
このような話を聞いて、雅也は少しずつ世の中にはいろんな世界があることを、実際の体験により、実感していく。また、みつばちの話から、海鳴たちを思い浮かべた雅也の意識の変化には、爽やかで、納得できる確かな説得力を感じた。
みつばちマーヤの冒険の名言と、養蜂の体験と、家庭環境で苦しむ子供たちの要素のブレンドが絶妙で、物語の展開は、伏線もしっかり入った喜怒哀楽に、大人も子供も楽しめる内容になっております。エンディングも爽やかな切なさがあって良かったし、何より、雅也を含めた個性的な六人の子供たちが、最初はギスギスしたけれど、悩みながらもみんなで少しずつ考えて、助け合いながら人生に向き合う姿には、本当に感動しました。
内容に関しては、子供に言うには少し厳しすぎるかなとも感じたのですが、それって、子供にもよりますよね。ただ、それは日々どんな子供なのか、気にかけていないと分からないし、子供というだけで、甘い厳しいを勝手に判断するべきじゃないよなと、自省するきっかけにもなりました。
「不幸なことがあっても、人に自分の人生を任せてしまってはいけない。それは自分の価値を下げてしまう。自分で自分に期待できるような人になってほしい」
上記は、子供たちを見守る「志保子さん」の台詞。厳しいと思うけれど、おそらく自らにも課している。子供たちを見て、大人も成長する。