一寸探せば「文庫本が直ぐに入手可能…」と判ったので直ぐに入手し、ゆっくりと読んでみたのだ。
淵田美津雄(1902-1976)の自伝である本書が登場するまでの経過も、本書の中に記されている。
60歳代の半ばに差し掛かろうというような頃から、御本人が経験したことや考えて来たこと等を纏める“自伝”というよ
...続きを読むうな原稿の執筆に取組むようになっていたという。最晩年には病気で視力も衰えていたそうだが、奥様の手助けを得ながら執筆していたそうだ。他界した後、淵田美津雄が持っていた様々なモノは息子さんが保管していた。本書の解説的な部分の記述にも在るのだが、息子さんにとって「淵田美津雄」は「様々な想い出が尽きない、敬愛すべき親父」であり、様々なモノを長きに亘って大切に保管して在ったようだ…本書に向けて遺稿を整理することになった方―解説等も付された方―が息子さんが持っていた遺稿の存在を知り、整理して一冊の本に纏め上げて本書が登場するに至った訳だ。
こうして登場した自伝は、幾つかの章から成る大河ドラマのような仕上がりだ。淵田美津雄は航空戦を司る指揮官であったが、所謂“高級参謀”として活動して来た経過が在る。参謀将校というのは、様々な計画等に纏わる報告や、決定の発表等の色々な文案を起草するような役目も担う。そういう事を通じて文章を綴ることに長けるようになっていった面も在るであろうが、彼の時代にはやや新奇なモノであった航空作戦を担おうと色々な知識を得るべく様々な資料等をドンドン読むようなこともしていた筈で、そういう職業上の経験が「文筆家的」な素養を自ずと涵養していたのかもしれないと、本書を読みながら感じた。本当に本書は昭和の頃の小説やエッセイの雰囲気と何ら変わりがない感じだ。敢えて「昭和の頃」としたのは、「或いは、最近は少し違う書き方になるか?」という文字や単語の使い方に時々気付く場合も在るからに過ぎない…
本書の内容は淵田美津雄の生涯を幾つかの纏まりに整理した感だ。出版されたモノは遺稿を編集しているのだが、御本人が番号を振って原稿を整理するなどしていた経過も在るということで、或いは「御自身で人生を“章”分けしてみる…」というような感も在ったのかもしれない。下記に大雑把に纏めておきたい。
淵田美津雄は父親が小学校の教頭・校長を務めていたという家に生まれている。長じて地元の中学校―現在の奈良県立畝高校の前身ということになる学校であるそうだ…―を卒業し、海軍兵学校に入学し、海軍士官としてのキャリアを歩み始める。
海軍兵学校で飛行艇の見学試乗という機会が在ったことが契機で、航空関係に関心を寄せるようになり、淵田美津雄は航空関係を担当するようになって行くのである。そして根強い「大艦巨砲主義」に対して、航空戦力、航空戦力を運用する際に用いる航空母艦を戦艦等よりも重要視すべきであるという考え方をするようになって行く。
日米開戦が近付く中、母艦単位で航空隊を運用するに留まらず、複数の母艦から発進した各航空隊を纏めて運用するということが構想され、淵田美津雄はその指揮官となる。関係者間で「総隊長」と呼ばれるようになり、あの真珠湾攻撃の際には攻撃機の偵察員席に陣取って出動し、飛び続けられる時間目一杯に現地上空に在って戦況を視ながら指揮を執った。
そしてその後の戦争の経過の中でのことが綴られる。ミッドウェイ海戦の際、淵田美津雄は撃沈されてしまった航空母艦<赤城>に在った。ミッドウェイ海戦の作戦に向けて艦隊が出航した頃、盲腸を患ってしまった。優秀な外科医であった乗艦している軍医の手術を受け、半ば静養しながら艦内で活動していた。<赤城>が攻撃を受けた際に足を骨折する怪我を負いながら脱出することは出来た。以降は主に国内で、航空関係部門を司る参謀将校として活動していた。
やがて原爆投下が在って降伏ということになった。幸福を潔しとせずというグループによる騒動を何とか収めるようなことに奔走する場面も交え、戦後の後始末にも携わる。
故郷の橿原市内に土地を求め、そこで何とか暮して行こうとする他方、占領軍からの事情聴取で呼び出しを受けるような場面も多いという暮らしに入っていた。そういう中、淵田美津雄はキリスト教に出遭う。
やがて淵田美津雄はキリスト教に深く帰依するようになり、米国のキリスト教関係者との交流も拡がり、深まる。そして渡米もして、色々な人達との出会いや対話が在る。
こうしている中で60歳代の半ばに差し掛かり、生涯を振り返っているような記述で自伝は終わる…
真珠湾攻撃の場面で、乗っていた攻撃機の操縦士が「ザマーミロ!」と口走る描写が在る。そして敗戦後、フィリピンで降伏した兵士達が「ザマーミロ!」と罵られることが在ったという描写が在る。何か「小説の“伏線”?!」とさえ思ったのだったが…淵田美津雄が至った境地は?「罵り合う」というような関係を排し、互いの立場ややってしまったことは「それはそれ」として、「対等な個人」として「各々が神を懼れる一人の人間」として語り合うことが、個々人の心豊かな生活、更に世界平和への途であるというようなことではないであろうか…
本書を読んでいて非常に驚いたが、淵田美津雄は広島に原爆が投下された8月6日の前日、8月5日に広島に在ったのだそうだ。広島での打ち合わせを終え、「広島泊まりで一寸一息入れられる」と宿に入った時に連絡を受け、急遽岩国へ移動し、奈良県内へ飛んだのだそうだ。奈良県内の基地に在った8月6日の午前11時頃に原爆のことを知ったのだという。その後、広島の現場調査に参加し、8月9日の長崎のことを現地で聞いて、岩国から大村へ飛んで長崎の現場調査にも参加したという。
或いは?この原爆の件で、「与えられた命?夥しい犠牲が発生した戦争を潜り抜けて生き残った運命?」を意識した中、日本の捕虜として過ごした米兵の物語等に出くわし、聖書にも触れてキリスト教に帰依するようになって行ったのかもしれない。
極々個人的なことに引き寄せて思うが、淵田美津雄は多分、自身では会ったことが無い父方の祖父と近い世代、殆ど同じ世代だと思う。“親父殿”は兄弟の末っ子で、その両親が40歳代に差し掛かっていた頃に生まれていて、その“親父殿”が中学生であった頃に50歳代で父方の祖父は他界したそうだ。だから「自身では会ったことが無い父方の祖父」と表現するのだが…
淵田美津雄は「海軍大佐」であった。江田島の兵学校を卒業した若者が海軍で士官として勤め続け、次第に上位に昇格して行く訳だが、“大佐”ともなれば誰でも到達出来る訳でもない筈で、やがては「提督」と呼ばれる将官という大変な地位だ。そんな凄い位置に居た人物で、他界されたという1976年からでも既に45年も経っていて、「非常に遠い“史上”の人」という感は否定出来ない。が、考えてみれば、仮令会ったことはない―残念ながら自身が産まれる十数年も前に他界していて、会える筈も無いのだが…―にしても、「極々身近に在ったかもしれないような人」の数奇な運命が回想されているというのが本書だ…
本書との出会いを感謝しながら、多くの皆さんに御薦めしてみたいと思う…