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作品一覧 2022/06/17更新 アメリカの友人 試し読み フォロー 贋作 試し読み フォロー キャロル 試し読み フォロー サスペンス小説の書き方 試し読み フォロー 死者と踊るリプリー 試し読み フォロー 太陽がいっぱい 試し読み フォロー 太陽がいっぱい 試し読み フォロー ふくろうの叫び 試し読み フォロー 見知らぬ乗客 試し読み フォロー 見知らぬ乗客 試し読み フォロー 水の墓碑銘 試し読み フォロー リプリーをまねた少年 試し読み フォロー 1~12件目 / 12件<<<1・・・・・・・・・>>> パトリシア・ハイスミスの作品をすべて見る
ユーザーレビュー 太陽がいっぱい パトリシア・ハイスミス / 佐宗鈴夫 2023年一番の作品でした。 初めはグレート・ギャッツビーと同じ系統かと思ったものの、まったく違うものでした。 トムの行動や、できごとにどう思ったかということは細かく書かれているものの、心情についてはあまり書かれていないよう思う。けれども、トムの閉塞感や焦燥感、嫉妬なんかがじわっと迫ってくる。トムと...続きを読むフィリップとマージの関係が、よくある痴情のもつれた三角関係におさまらないとことが興味深い。 映画も見てみたけれども断然こっちがいい。 アラン・ドロンの色男ぶりはすごいですけど。 リプリーも見てみたい。 Posted by ブクログ キャロル パトリシア・ハイスミス / 柿沼瑛子 “恐れていながら人を愛することなんて出来はしない。恐れと愛は両立しない。ふたりでいることで日ごとに強くなっているというのに、なぜ怯える必要があるのだろう? 昼だけではなく夜ごとにも。同じ夜は二度となく、同じ朝も決して訪れなかった。ふたりは一緒に奇跡を紡ぎ続けていた。” Posted by ブクログ キャロル パトリシア・ハイスミス / 柿沼瑛子 「見知らぬ乗客」でサスペンス作家として世に名を轟かせたパトリシア・ハイスミスが、1952年に匿名(別名義)で出版した恋愛小説。 心情描写の詩的比喩が多く、若く主観的なテレーズが成長していく姿とリンクしていて美しい。 印をつけて大事にとっておきたい文章がいくつもあった。 映画も小説も忘れられぬ作品...続きを読む。 " 古典とは時代を超越した、人間の業を描くものだと思います " ・ ・ ・ ・ ・ ・ *余談 : 当時は「ザ・プライス・オブ・ソルト」として出版され、後に「キャロル」と改題されている。 Posted by ブクログ 贋作 パトリシア・ハイスミス / 上田公子 ディッキー事件のあと、結婚しパリ郊外に住んでいるトムの元にロンドンから「至急来てくれ」と一本の電話が入る。トムの一言からはじまった現代画家の贋作事業が、コレクターの一人に勘付かれたのだ。死んだ画家のダーワットに変装しコレクターのマーチソンと対峙したトムは贋作疑惑を晴らすため画策するが、仲間の一人であ...続きを読むるバーナードが罪悪感から思わぬ行動にでてしまう。「太陽がいっぱい」で逃げおおせたトムが新たな詐欺に手をだし、自ら境地に追いこまれていく、トム・リプリーシリーズ第二作。 死ぬまで売れなかった現代画家を、その悲劇によって売りこみ、贋作でビジネスをするというのが皮肉で面白かった。ダーワットが有名になったのは贋作仲間たちがつくりあげたストーリーゆえであり、人びとはその虚構に金を払うのだということをトムは掴んでいて、そこに罪悪感は微塵もない。 しかし、生前ダーワットの友人であり、今は彼の贋作画家になってしまったバーナードが苦しんでいる理由はトムには痛いほどわかるのだ。ディッキーとの日々となりすましの逃亡劇を直接振り返ることはないが、トムはバーナードに過剰な共感を寄せ、己に重ねている。 だが、トムの思いはバーナードには伝わらない。バーナードにとってトムは贋作事業の言いだしっぺであり、己の罪をより大きくした張本人だ。トムは自分を殺そうとしたバーナードを許していると伝えたくて追いかけていくが、その行為がむしろバーナードを追い詰めていく。 トムの悲劇は、自分も誰かを愛することができると信じたいと願っているのに、結局は保身と引き換えに孤独を選んでしまうことにある。演じるのが癖になっていて、自己開示が下手なのだ。なのに相手には過剰に感情移入してしまうから暴走していく。 今作ではそんな〈役者〉トムのことを少ない言葉で理解してくれるキャラクター、妻のエロイーズが登場したのも嬉しかった。表面上は浮ついた感じのする女性だが、トムが本当にケアを必要とするときには思いやり深くなり、鋭い助言もしてくれる魅力的なキャラクター。トムが強く愛したいと衝動を感じるのは男性なのかもしれないけど、一緒に生活するならエロイーズみたいな人がいいよね。ハイスミスは現実的だなぁ。 当の殺人のきっかけはバーナードのためというよりトム自身がいらんこと言ったせいだったり、そもそもディッキー事件で顔が知られている描写がありながら簡単に変装して警察まで騙しおおせるのは都合がよすぎるなど、前作同様、犯罪小説として緻密というわけではない。だがハイスミスの真骨頂はトムの心理描写にあるというのを今回もまざまざと感じられた。読者もトムと一緒にバーナードの行動に翻弄される分、サスペンスとしては前作を上回っている。 緊張感にあふれた死体遺棄の共同作業、地下室に残された身代わりの首吊り人形、殺人未遂とトムの仮死、自殺を見届けて一人で無理やり火葬など、好きな展開が次から次へと続くのでご褒美のような小説だった。終盤はややグダつくが、ザルツブルクでの追走劇は〈幽霊視点の怪奇小説〉のような幻想的な書き方がされていて、ホフマンみたいで好きだった。そのあと森でガンジス川のほとりみたいに雑に死体を焼く。この雑さがほんと最高。 犯罪もののBLが好きな人でまだ読んでない方は、ぜひトム・リプリーシリーズを読んでみてほしい。全然相互Loveにはならないので、〈二人だけの短く甘い記憶〉のパートは全くないけど。 そう思うと『黄昏の彼女たち』と本書は対照的な共犯関係を描いているなぁ。 Posted by ブクログ 太陽がいっぱい パトリシア・ハイスミス / 佐宗鈴夫 ニューヨークで国税庁職員のふりをして詐欺をはたらいていたトム・リプリーは、かつての友人ディッキー・グリーンリーフの父親から「ヨーロッパへ行って帰ってこない息子を呼び戻してほしい」と依頼を受ける。トムがイタリアのモンジベロを訪ねると、ディッキーはマージという女性と共に悠々自適に暮らしていた。トムは徐々...続きを読むにディッキーと距離を縮め一つ屋根の下で暮らすまでになるが、二人のあいだには常にマージがいた。そしてある決定的な事件を境にトムはディッキーから疎まれてしまい、傷心のトムはディッキーを殺し彼になりすますことを思いつく。サンレモへの二人旅の途中、ディッキー殺害計画を実行したトムの危険な逃避行がはじまる。映画『太陽がいっぱい』の原作小説。 読み始めはどうしても昔見た映画版のぼんやりした印象といちいち照らし合わせてしまったのだが、話が進んでいくにつれこの作品もまた〈同性愛者の生き方〉を取り扱っていることがわかってきて驚いた。映画はヘテロセクシャルの物語として自然にみえるよう、筋がかなり変更されているようだ。(とはいえ、映画版にもホモセクシャルの要素があることは淀川長治が指摘していたらしい) はじめに気になったのは『キャロル』の主人公テレーズとトムの境遇が似通っていること。二人とも孤児で他人の経済力に頼って生きてきたため、贅沢な暮らしに憧れ、今の自分の生活に嫌悪感を抱いている。テレーズは舞台美術デザイナー、トムは俳優を目指してニューヨークへ出てきたが夢破れ(かけ)ており、職業的に安定していない(トムが「デパートで堅実に働いていれば…」と考えるシーンも示唆的)。二人とも同性の友人がおらず、世間的に語られる“恋愛”に違和感をもっている。 ふたり旅が運命を大きく変えること(マージ視点から見たトム“と”ディッキーの旅はキャロルとテレーズの旅に似ていないだろうか?)、探偵とのハラハラする問答など、展開的にも『キャロル』と重なるところは多い。当時別名義で出版した『キャロル』のほうが先に出ているので、ハイスミスが『リプリー』でも共通のテーマを扱ったと考えても不思議ではない。トムの心理を詳しく見ていこう。 トムは打算まみれでディッキーの元へやってきたが、ローマでの夜遊びをきっかけに同居を許されてから本当に親愛の情を感じはじめる。このときトムの意識に性愛はなく、マージを疎ましく感じるのもディッキーをアメリカへ連れ帰るという目的のためだと考えているが、偶然ディッキーがマージの腰を抱いてキスするところを見てしまい、大いにショックを受ける。そして自分でもその衝撃の意味がわからないまま、ディッキーの服を着て鏡の前に立ちマージの首を絞めるという寸劇を演じるのだ。そこに帰ってきた他ならぬディッキーの言葉でトムが自覚を促され動揺するくだりは悲劇的だ。そしてトムが自身のセクシャリティにゆらぎを感じていたこと、「男を好きなのか、女を好きなのか、自分でもはっきりしないんだよ。だから、どっちもあきらめようと思ってる」というかつて言った“冗談”、しかしその言葉のなかには「事実もけっこうあった」「世間の人間と比べれば、自分ほど人の好い、心のきれいな人間はいない」という心情が読者に明かされる。 この日を境にトムはディッキーとマージから仲間はずれにされ、疎外感から精神的に不安定になっていく。ディッキーから決定的に嫌われてしまったことを認め「死にたいよ」と呟くシーンを起点に、ディッキーへの感情は反転して憎悪となり、ふたり旅に乗り気でないことを隠そうともしない彼をボートのオールで「たたき切るような感じ」で撲り殺す。犯行の直前、トムはひと気のない入り江で「ディッキーを殴りつけることも、飛びかかることも、あるいはキスをしたり、海に投げこんだりすることもできる」と考える。ここでキスを選ぶこともできたのだ。だがトムは自分の心を死なすより、ディッキーを殺すことを選んだ。孤児、あるいは(潜在的な)同性愛者だったがゆえに孤独を強いられていたトムは、殺人者になることで自らが選びとった孤独を手に入れ直したとも言える。この先なんどもそれを後悔するのだが。 〈殺害計画〉といってもトムのやることは全て行き当たりばったりだ。ディッキーに宛てたマージからのひどい内容の手紙(ホモフォビアがほんとひどい)で「何の取り柄もない人」と悪口を書かれるのも無理はない、とつい思ってしまうくらい、何から何まで運任せ。原題「The Talented Mr.Ripley」はハイスミスの皮肉だろう。トムに犯罪の才能はない。なんせディッキーの死体に引っ張られてボートから落ち、あやうく自分まで溺れ死にかけたりするんだから。彼にあったのは劇場では発揮できない類いの演技の才能だけ、つまり嘘つきの才能だけである。 ご都合主義的にも思える逃亡劇にハラハラドキドキさせられるのは読み手をトムにしっかりと感情移入させているからであり、ハイスミスがサスペンスの女王と呼ばれるゆえんを思い知る。ディッキーになりすましていたトムが自分の役に戻らなくてはいけなくなり、ディッキーのイニシャルが入ったブルーとストライプのシャツに涙をこぼすシーンや、「ディッキーとマージの関係についてあんな愚かな判断のあやまちを犯してさえいなかったら、あるいはふたりが自然に別れるのを待ってさえいたら、こうしたことはなにひとつ起こらなかっただろう。そして残りの人生をディッキーとともに暮らし、旅行をしたり、生活を充実させたり、楽しんだりすることができたのだ」とおいおい泣くシーンで、私はトムにすっかり入れ込んでしまった。ここでトムははじめて殺害動機をはっきりと読者に伝えている。トムはディッキーのような人生がほしかったわけではない、ディッキーとともに暮らす人生がほしかったのだと。その望みが完全に絶たれたと感じた瞬間に、殺したいほどディッキーを憎んでしまったのだと。 本書は、同性愛者であることを隠し続けて生きる疎外感と孤独の恐ろしさを殺人者・逃亡者の心理に重ね合わせているという意味で、クイーンの楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」にとても近い構造の作品だと思う。秘密を抱えながら常に道化を演じ、恋をした相手と同一化したいと望むナイーヴなトムの虚飾にまみれた姿は、フレディというよりカポーティのようだけど。 映画と異なり、トムはまんまと容疑を逃れ遺産まで手に入れるが、この結末ははたしてハッピーエンドなのか、ピカレスクとしてもモヤモヤする終わり方だ。最初に比較した『キャロル』のテレーズとはなんという差だろう。キャロルはテレーズのために一人娘の親権を手放したし、テレーズ自身は夢だった舞台美術の世界へ一歩踏み出した。対して、トムのために何かを犠牲にするような人は現れない。トムは憧れの俳優業に就く代わりに、人生をまるごと嘘に変えてしまったのだ。ハードボイルドな犯罪小説でも痛快なピカレスクでもない、他人の服を着ることではじめて大胆になれた臆病な男の心理小説として素晴らしかった。私にはハイスミスを読む喜びがこれからもたくさん待っていると思うと、こんなにワクワクすることはない。 Posted by ブクログ パトリシア・ハイスミスのレビューをもっと見る