義理の解説に納得するものです。
キリスト教文化圏の人が「愛」を動機として為すべき、と教えられ身に付けている家族や隣人への行為を、
日本人は、たとえ愛が不足している場合でも「義理」を感じて実践する事が出来る。
と、僕は理解しました。
逆に言うと、日本人に「愛」を求めるのには無理があると思いました
...続きを読む。
例えば、「義理」として家族の看病をする日本人に、「愛」を以て看病をしろ。と求めると、少々酷なように思います。
義理として看病するにしろ、
愛情をもって看病をするにしろ、
実際のところは同じ事をしているのですから、あえて
「愛情を以て接しなさい。」
と言う必要は無いと思います。
アメリカのテレビドラマなどを観ていると、恋人同士は頻繁に言葉で愛情がある旨を発言し、確認しています。
本書を読むと、
「なるほど、キリスト教文化圏で育った人は、家族や近しい人へ接する際には、根拠として愛が必要で、それを表現する訓練をしながら育ち、平然と表現できるのだな。」
と理解出来ました。
ただし、これを日本人に求めるのは、やはり無理だと思います。
例えば、しばしば
「子供に愛情がわかず悩む」
と親の嘆きを耳にしますが、
僕はそんなときに
「日本人なら当然です。愛情が沸かずとも、義務として接してあげましょう。」
とアドバイスをするとずいぶんと楽にしてあげられるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
家事や、家計のための収入を得るための仕事を、
義務として為しているときに、
もし愛情の裏付けに不安を持った時には、是非とも思い出したいものです。
「愛」の裏付けを必要とするのは、キリスト教の文化で育った人の考えで、
あらかじめそのように育てられた人にしか出来ないもので、
日本人は「義務」として世話をすれば良いのだ、と。
もし、「愛」があるのか?と疑問に思ったら、それはアメリカのテレビドラマの見過ぎだ、と気づきたいものです。