「社会的事実」とは、個人に外的拘束を及ぼしうる行為様式であり、それ個人から独立した存在性を持つ。
「社会的事実」は、物として扱わなければならない。つまり、観念や意識から独立した、科学の対象となる客観的な物として。
このように社会学固有の対象としての「社会的事実」の概念を打ち出した本書は、社会学確立
...続きを読むの記念碑である。
社会的事実について、規範から外れるかもしれないことを企図すると個人は強い心理的抵抗を受け、それを実行に移すとしばしば現実的抵抗を受ける。個々人を超えた「かのような」社会的な拘束性はたしかに感じられる。
そのような個人に還元できない「社会的事実」の概念を打ち出した功績は大きいのだが、あくまでも「擬制」として有益なのであって、デュルケムのように「実在」としての側面を強調することにはためらいがある。
やはり実在するのはあくまでも個々人であり、社会的な現象はあくまでも個人と個人の関係性で理解を試みなければならないようにも思う。
もちろん、それには労力がかかりすぎるので、マクロな現象を永遠に論じれなくなる。それを乗り越えるための技術として社会的事実の概念は必要かもしれない。だけど、個人から説明できるものはそのようにすべきだろう。それではどうしても説明のつかない場合に社会的事実のような概念に頼る方がよい。
デュルケム自身も個々人の心理には還元できない現象を示した上で社会的事実の実在性を論じれば説得的だが、彼のわずかに示した実例では論拠が弱い。
あとがきを読むと、そもそも「個人」を観念しうるのは「社会」(2人以上の人の共在)があるからであり、その意味で個人の実在と同じレベルで社会も実在するというのも、観念的には理解できる(この「個人」は個体とは異なる)。ただし、それも言葉の問題であるし、デュルケムがそのような意図なのかは分からない。