「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全や信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」
(使途パウロのコリント信徒への手紙1 13章)
「スピリチュアルや宗教お断り」とか、苦手だという人が多いのも、
それが往々にして、「
...続きを読むハラスメント」と結びつくようになるからだろう。
それは、反動として人々をまた、無神論・唯物論という過ちへと駆り立てることにもなる。
ちくま新書の『現代オカルトの根源』(大田俊寛)に、「幸福の科学」が取り上げられていたのに驚く。
GLA,オウムも、またスピリチュアルや神智学の影響を受けている。
宇宙人論というのも、オカルティズムの世界的状況からすれば、実はそこまで奇異なものではないという。
要するに、常識外れのオカルトは何もK会だけの専売特許ではない。
神秘思想や、オカルトの類は、古代から連綿と続いてきている。
すべての、壮大な霊や魂、神や宇宙論が、「単なる誇大妄想」で一笑に付されるべきではない。
問題は、それが、「妄想の体系」になったとき、差別を生み、カルトを生み、被害者意識を生み、事件まで引き起こすということである。
そこで、私は冒頭に挙げたパウロの言葉を忘れてはいけないと思うのである。
どんなに壮大な世界観や真理を知識として知っていて、
議論で論破しようとも、
基本的な愛がなければ一切は無意味なのである。
パウロのこの言葉は、「カルト」を防ぐ防波堤である。
「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」というイエスのことばも、
つまりは、「倫理なき宗教、道徳なき信仰は無意味である」ということだ。
私は、神学を用いて議論や論争にふける学者よりも、
聖書を読めないものの、愛を知り、人に親切にすることができる子どものほうが立派なキリスト者であると信じる。
私たちは、どんなに壮大な世界観を知っても、(知らなくてもよいが)、
基本には、愛がなければならないし、
知識がその愛を妨げるようなことがあってはゆめゆめならない。
むしろ、愛を増すための知識でなければそれは偽りであろう。
ブッダは、死後の生命の存続や、宇宙の無限か否かという議論について、明言するのを避け、
その代わり、魂が穏やかになる方法を説いた。
一応、私は輪廻を肯定する立場であるし、オカルトも否定はしていないが、
それを追求するあまり、仮論にふけり、己の心と行いを見失うことは本末転倒と言わざるをえない。
あくまでも、魂や霊界という概念は、「追求」や「探究」の範疇ではなく、
私にとっては、魂の修行の上の「前提」や「仮定」として「あったら便利」「つじつまが合う」程度のものである。
神を「対象」にしてしまうことは、
神を自分の延長にして、理解の範疇に押し込めてしまう極めて傲慢なことだろう。
そして、謙虚さをわすれ、それを他人を裁くための道具とすることは、イエスが最も嫌ったことに他ならない。
私たちは、オウムの痛みを覚えていなければならないし、K会の痛みを忘れてはいけないと思う。
しかし、その痛みというのは、理論を超えて、実は人間にとって良心という本質的なものを示してくれる、魂の声なのだということ。
「キリスト教が上、仏教のほうが平和だ、いや、それらは過去の教えだ、これからは新しい救世主が・・・」
という議論は良いのであるが、それはどうでもいい。
「だから、何なのだ」という話である。
あなたの属する教団や宗教や教祖や開祖が偉かろうが、それはあなたの魂が優れていることを示すわけではない。
むしろ、入り込めば入り込むほど、それはあなたを盲目にさせる。
問題は、あなた自身の魂の世話をすることにほかならないし、
ブッダも、ソクラテスも、それを第一になすべき勤めと説く。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」
(ヨハネによる福音書 13章)