素晴らしき乳白色の画家と称えられ、エコール・ド・パリで最も有名な日本人・藤田嗣治。彼の生涯を追った傑作ノンフィクション。東京都美術館の藤田嗣治展を観る前の予習で読んだ。
陸軍軍医総監の父を持ち、裕福で厳格な家庭で育った少年の夢は画家になることだった。しかし面と向かって父にその夢を語るのを
...続きを読むためらった少年は、同居しているにも関わらず父に手紙を書いた。きっと反対されると恐々としていたが、父は反対もせず、大金を与え、画材一式を取り揃えるようにと伝え背中を押した。
長じてからは、すぐにでもパリに修行に行きたかったが、陸軍軍医総監の前任者でもあった森鴎外の勧めもあって、東京藝大の前身である東京美術学校で黒田清輝に学ぶ。
しかし、藤田と黒田は合わなかった。黒田はラファエル・コランの影響を受けていて、教え子にもそれを伝えようとしていた。しかしコランは印象派の亜流のような作風で、すでにキュビズムなどの前衛絵画が主流となりつつあったパリでは、古い技法だった。藤田は黒田の指導には染まらなかった。卒業制作の自画像は、黒田に悪い作風の代表例とこき下ろされた。
パリに渡った藤田は、最先端の絵画に触れ、猛烈に制作に打ち込む。ピカソやモディリアーニ、ルソーなどの芸術家たちとの交流の中で、彼らの模倣を通じて腕を磨き、試行錯誤しながら新たな技法を模索した。そして自らのルーツである日本の浮世絵の技法を取り入れた裸婦像で遂に藤田オリジナルの絵画を完成させる。偉大なる乳白色と称えられた作品群はパリにセンセーションを巻き起こした。
当時のパリは狂乱の時代と呼ばれた絶頂期。連日連夜のパーティー三昧、酒とドラッグと色恋沙汰でモラルは崩壊。なかでもおかっぱ頭でロイド眼鏡の日本人の乱痴気騒ぎは目を引いた。
奇矯な格好でパリの街を闊歩する日本人画家は有名人となり、彼の元にはモデル希望の女性が引きも切らなかった。
しかし、藤田は酒にもドラッグにも一切手を出さなかった。モデルの女性にも肉体関係を迫ることもなかった。友人であるモディリアーニとはその点では正反対だった。
藤田の奇矯な振る舞い影には、芸術を貪欲に追求しようとする確かな芯があるように思えてならない。あえてピエロを演じていたのではないかとも思う。
世界恐慌の影響でパリの画壇も狂乱から覚めて、市場は冷え切った。これが藤田にとってひとつの転機となる。
日本に帰国した藤田は各地で熱狂的な歓迎を受ける。しかし画壇からは冷淡な反応しかされなかった。パリ時代の藤田の行状を蔑む人も多く、華々しい成功をやっかむ人も多かった。
この辺りの画壇の対応は、野口英世が帰国した時の日本の医学界(学閥)の完全無視と重なる。海外で成功した人を認めないエリートと言われている人のみみっちい性根というか、島国根性というか、もう恥ずかしい。
(時代が前後するが)昭和12年には海外に日本を紹介する映像作品の制作を国より依頼され、秋田の子どもたちの風俗を撮影したのだが、城跡でチャンバラごっこをしたり、切腹のまねごとをする場面が、日本の後進性をことさら強調してるとか、野蛮と受け取られるといった批判によりお蔵入りする。
東京都美術館で開催されている美術展では、この映像作品も公開されていたので見てみたが、無邪気な子供たちが遊んでいるだけだし、表情も生き生きしていて、撮影現場の和やかな雰囲気まで伝わってくるような心和む作品だった。時代背景を考慮したって、言いがかりにしか思えなかった。
数年後には南米各地をめぐった藤田は新たな刺激をうけ、パリ時代とは画風も変わり、鮮やかな色彩が増える。とくにメキシコではリベラやシケイロスといった壁画運動の巨匠たちとの交流でタブロー画の限界に気づき、壁画運動が示した多くの国民を啓発するという、その教育的な可能性に刺激を受けた。もともと藤田はベラスケスやドラクロワなどの巨匠たちが描いたような宗教画を描きたいと思っていたこともあり、このメキシコでの見聞が、その後の戦争画による国威高揚、国民教育へと繋がっていく。
父と陸軍の深い関係から、藤田は戦争画を描くようになる。それにより画壇での地位を固めていく。当時は戦争に協力するのが当たり前。横山大観などの大御所も戦争画に挑戦するが、朦朧体ではそれらしい絵は描けず、代わりに戦闘機4機を寄付した。だから戦争画を描いてないからといって、戦争に協力しなかったというわけではない。
戦争画を芸術の域まで高められたのは藤田だけだった。アッツ島玉砕やサイパン島陥落の絵など、それまでの藤田のイメージとはまるで反対の、一面暗い色で覆われている。反戦の意味を込めているわけではない。徹底したリアリズム表現で、おそらく殉教の絵として描いている。
藤田は自分の絵の前で手を合わせて祈る老婦人の姿を見て、感動する。ベラスケスやドラクロワの境地に近づけたと感じたのかもしれない。
しかし戦後は、GHQによる戦犯指名に恐れをなした画壇から、藤田は人身御供として差し出されることとなる。確かに藤田は戦争に協力した。しかしそれは誰も彼もだ。なのに画壇は責任の一切を藤田だけに押し付けようとした。藤田の戦争画が見事で目立ったためもあるだろうが、そこにはやはり藤田を純粋に日本人として認めず、西洋かぶれ扱いにする卑怯な意識が働いていたと思う。
結局は美術界からは誰も戦犯指名されなかった。逆にパリ時代の藤田のファンのGHQの将校が藤田を訪ね、戦争画の収集の協力要請までしている(藤田の戦争画がいまもアメリカからの無期限貸与なのはそのため)くらいなので、はなからGHQにそんな意図はなかった。びくびくと怯えていた画家たちの先走りでしかなかった。戦争画を描けなかった技量の拙さを棚にあげ、俺は戦争に協力しなかったと吹聴した厚顔無恥な画家もいた。
結局、藤田は日本を捨てるしかなかった。だが、藤田を裏切り追い込んだのは日本である。
「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください」
藤田はそう言い残し、フランスに旅立った。そして再び日本の土を踏むことはなかった。
その後藤田は日本国籍を捨て、フランス国籍を取得する。
フランスに帰化してからの作品は子どもたちの絵や、童話に材をとったものなどが多い。
晩年はフレスコ画に挑戦して、死ぬまで美術に対する意欲を失わかなった。
彼は一途に美術の道を突き進んだと思う。
ブレていたのは彼に捨てられた日本という国だった