「見えない都市」でもそうであったように、カルヴィーノは、この「パロマー」でも各文章群を数学的な配置に収めることに成功している。パロマーの場合のそれは、3、という数字を基にするもので、あるいは「ソナタ形式」の入れ子、とでも言ったらよいかも知れない構造である。註には、この本が出現する章の順番通り以外にも読んで構わないと記させているが、個人的には、各章の3拍子を味わいながら読むのが、やはりよいような気がする。それにしても、そのような「形」から思考へ至る道筋が、カルヴィーノは好きなのだろうか。
パロマー氏、というのが登場人物の名前であるが、彼の名が有名な天文台と同じ名であることには、何か意図があるのだろう。パロマー氏は観察をする。観察の視線は、眼球の縁から外へと伸びているようでありながら、その実、ぐるっと回って、瞳の中へ、そして、その映像を作り出す臓器の内側へ、さらに、その臓器の上に展開する「意識」の主体へ、と帰結していく。いや、帰結するのではない。そこから更に、視線は外界へと向いて行き、存在するということの持つ意味を、主観である自分が存在から感じ取れる意味と切り離して見いだせるかどうか、という客観的観察、自我を離れた純粋な客観による観察、というところへ戻っていくような、あるいは拡がっていくようなところへ繋がるからだ。それはあたかも、閉じた宇宙に向けて高性能の望遠鏡を向けているかの如く、星々の彼方へ、更にその向こうへと視線を伸ばしていった先に、出発点である自分の星が見え始め、その星で自分を観察している自分を発見する、といった構図のようでもある訳だ。
各章がばらばらに書かれたとは思えないほど、各章の間のバランスが取れている。緩急、強弱、と言ったようなバランスが、あるいはテンポの良さが、ある。内面と外面のバランスと言ってもよい。観察された事象に対する言明、その言明に対する内省、内省の末の達観、概ねそのようなリズムが終始この本を貫いているとも言えるだろう。これは、個人的な思索でありながら、大衆へ開かれた脳の活動であり、その中に読者を取り込み、ぐるりと回ったらせん階段の次の周回を促すような本だ。
カルヴィーノの文章には、虚構という訳ではないのだが何か頭の中だけで構築されていて、現実の質感を伴わないものの危うさというのを感じる。そのことは、描写されている対象の固有名詞に自分の質感が伴ってこないという読み手の側の問題であるかも知れないが、例えば比較的身近な竜安寺の枯山水に対する描写を読んでいても、その感じがなくなることはない。むしろ、風景が浮かべば浮かぶほど、その中で猛スピードに回転するカルヴィーノの思考ということが明確になる。対象と思考との線引きがくっきりし、思考の部分の特異さが強調されるためであろう。やがて、その思考が作り出すもののイメージが、現実の対象の上にオーバーラップして投影され、その結果、現実のものでありながら質感を失うというようなプロセスが、そこにはあるような気がする。
勿論、その思考の中だけに漂っていってこの本を読み終えるという楽しみ方もあるだろう。その為には、その思考の波を楽々とサーフできる肉体がいる。波に乗り損ねないための身体感覚がいる。しかし、演繹的に思考する意識を必要としない、その状況に自分を順応させるには、とても勇気がいる。特に、カルヴィーノの本のように至る所に落とし穴が仕掛けてあるような本を読む時には。自分は、やはり入り口から細い糸を順繰りに伸ばしながらでしか、迷路の先へは進んでいくことができない性格なのだ。そのことを、とても強く意識させられるのがカルヴィーノなのである。
そんなカルヴィーノが「帰納法」は好きになれないが「演繹法」には常に魅力を感じるということを述べている。それを聞いて納得するものも多少ある。カルヴィーノが熱心に言及するもの、それは出発点についてであり、一般化されている一つの思考の行程である。そこからは、一気に道筋全体についての一般化が繰り広げられる。前提とされている命題は必ずしも明らかではなく、個々の事象と導き出される法則の間の論証も多分に主観的ではあるものの、必然的な思考の結果であることにはなっている。しかし、本当にそんなことが言いたいことなのか、という疑問がつきまとう。
何故なら、その導き出されたものの影にあるもの、それこそカルヴィーノの文章を読んでいて意識せずにはいられないものだから。思考の道程を書き出してみて、そこに語り尽くせていないと感じるものこそ、カルヴィーノが求めているものであるような気がするから。自分には、このプロセスが、ジタバタしながら、頭の中から決して出てこない何か、多分それは身体的思考とでも言えるもの、を求めるためになされていることであると思えて仕方がないのである。