【感想・ネタバレ】教科書の常識がくつがえる! 最新の日本史のレビュー

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Posted by ブクログ

令和4年のGWの部屋の大掃除で部屋の隅っこから発掘された本で、昨年の今頃に読み終わった本でした。著者は河合氏で帯にある写真、どこかで見たと思いましたら、昨年から始まったNHKの番組「歴史探偵」のレギュラーの方でした。

この本に書かれているように、私が高校時代に習った40年位前の教科書の常識が覆っているようです、新たな気持ちで歴史を学び直す良いチャンスだと思いました。

以下は気になったポイントです。

・663年中大兄皇子が渡海させた軍勢は、白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した、以後大和政権は唐の軍勢が日本に襲来することを想定し臨戦態勢を保たなければならなかった、九州の太宰府を防衛するための水城を構築、対馬から瀬戸内海沿岸、大和にかけて多数の山城や烽火を作り多くの防人(兵士)を配置した。667年には都を、飛鳥から琵琶湖のほとりの近江国大津へ移したが、これは敵が襲来した際に、船で待機するためだとする説がある(p18)

・大海人皇子は飛鳥に戻り、673年には年には飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇となった、それまでの天皇と違うのは武力によって前王朝を倒して皇位についたということ。他の天皇とは比較にならないほど権力は強大であった、一気に律令体制を進めていった(p28)

・持統天皇の藤原京は、条坊制(縦と横の道路で区切られた碁盤目状の区画)を有する都として日本初であり、政務や儀式を行う大極殿や朝堂院が設置された、近年の発掘の結果、藤原京は定説よりずっと巨大で、平城京・平安京をしのぐと言われている(p39)

・院庁は院(上皇の御所)に設置された私的機関であったが、上皇の意向を受けて院庁から発せられる院宣には絶大な効力があり、朝廷(太政官)はこれに逆らえなかった、つまり律令にのっとり朝廷が秩序だって運営する仕組みが大きく崩れた。この布石を作ったのが、白河天皇の父・後三条天皇である。後三条の母は摂関家出身ではなかった、摂関家を外戚としない天皇(後三条天皇)の誕生は170年振りのこと、院政の始まりは、白河天皇が八歳の息子・善仁(たるひと)親王=堀河天皇にいきなり譲位し、院庁を開設してここで政治をとるようになった応徳3年(1086)が始まりである。(p52)

・桓武平氏と清和源氏の二大武士団はいずれも天皇家の血筋から始まっている、桓武天皇の第三皇子・葛原親王も「平」という姓を与えられ臣籍降下した一人、その子が関東に下り桓武平氏の祖となった、清和源氏は、臣籍降下した貞純皇子の子・源経基から始まる(p56)

・王家、摂関家という二大権門に構成されてきた院政期的な政治構造は保元の乱によって解体された、その後の政治は自立したかつての院近臣たちが相剋する混迷の時代となった、その中で発生したのが平治の乱であった(p75)

・最近は蘇我氏を滅ぼした事件を大化の改新とは呼ばず、乙巳(いっし)のへんという、大化の改新とはその変後の一連の政治改革のこと。改新の中心となったのは、中大兄皇子ではなく、その変の後に即位した孝徳天皇という説が強くなっている(p77)

・戦国時代の始まりは応仁の乱ではない、というのが常識になっている、西国が先駆けて東国が戦国乱世に突入している、そのきっかけが享徳の乱(1454)である(p81)

・鎌倉府とは室町幕府を創設した足利尊氏が鎌倉に置いた関東を統治するための出先機関である、鎌倉府の長官を鎌倉公方といい、尊氏の三男・基氏の家系が代々就任した。その鎌倉公方を補佐して政務を統括するのが、関東管領であり、上杉一族が世襲した。鎌倉府の権限は次第に拡大し、東北地方も管轄するようになり、ついには京都の室町幕府と対立するまでになる、足利義教は大軍を派遣して鎌倉府を滅ぼした、水亮の乱である(p83)

・足利政和は鎌倉公方に任じられたが、服属を表明する武士は多数派とならず、伊豆の堀越を拠点にせざるを得なかった、上総・下総・安房三国のほとんどが古川公方の勢力下となり、古河を拠点とする成氏が抑えた。そして関東には、古河公方と堀越公方が並び立つことになった(p93)

・鎌倉時代には6つの新仏教(宗派)が起こり、社会に広まったと教科書に記されているが、そうした事実は無く、発展したのは幕府の保護を受けた臨済宗のみで、圧倒的に旧仏教が影響力を持っていたし、この時代にはもっと多くの宗派が勃興している、鎌倉新仏教は室町時代に飛躍的に発展し江戸時代まで残ったものをそう呼んでいる(p109)

・天下は全国ではなく畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉)をさし、天下布武は畿内での室町幕府の将軍政治の復活を目指したという説が有力になっている(p138)

・以前は江戸時代は士農工商が厳格に定められていたとされるが、今の教科書からはその記述は消えた、その概念は中国古代のもので江戸時代の儒者が強引に日本社会に当て嵌め、それが誤った形で明治以降に伝わった、実際は支配者の武士と、被支配層の百姓・町人の三身分が主で、百姓と町人の間に上下関係はなく、居住地域や職業別に過ぎない。しかも武士身分は金銭などで購入でき、身分は流動的であった(p140)

・戊辰戦争が終わった翌月の明治2年(1869)6月、新政府は版籍奉還を実施する。版とは、藩の領地、籍とは、藩の領民のことで、これらを朝廷に返上させた。武力で日本を平定した新政府は、徳川家などから没収した土地のうち、要地を府、その他を県とした。実態はあまり変わらず、相変わらず全国には270近い藩(大名家)が存在し、江戸時代同様、領内で政治をとっていた、これを府藩県三治制という(p143)

・廃藩置県は明治4年(1871)7月に断行されるが、それより2年も前から自らの藩の廃止を求める動きが出ていた、特に財政の苦しい小藩に顕著であった。明治2年12月に、吉井半と狭山藩が廃藩願いを受け入れた、その後には十数藩の申請を受け入れている、盛岡藩・徳山藩・津和野藩・長岡藩など、さらに鳥取藩・尾張藩・熊本藩も統一国家を作るべきという観点から廃藩を申し出ていた(p157)反発は全くと言っていいほど起こらなかった、藩の借財を新政府が請負、士族の禄も政府が支給することを確約したことが大きい(p165)

・高等学校の教育課程が大きく変わる、日本史分野では「歴史総合」と「日本史探究」という2つの科目が誕生する、歴史総合は日本史と世界史の融合科目(範囲は近現代のみ)で必修科目となり、日本史を選択した生徒が「日本史探究」を学ぶことになる、単に知識を覚えるのではなく、思考力・判断力・表現力を身につけることが重視されている。その手段として、時代の転換と「画期」を認識することの大切さが明記されている、つまり日本史のターニングポイントをしっかり掴みなさいと言っている、これから日本史を学び直そうとする方は、ぜひターニングポイントを意識しながら理解するようにするといい(p204)

2022年5月2日作成

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2022年05月02日

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