【感想・ネタバレ】改訂新版 共同幻想論のレビュー

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Posted by ブクログ

 難しいようで難しくない、不思議な本だった。というのも、吉本がここで書いていることは、たいていみんながどこかしらで体感していることであるからだ。だから文章が難しくても、ノリでなんとなく理解できてしまう。
 吉本は幻想を「自己幻想」「対幻想」「共同幻想論」の3つに分けて考えるが、議論の出発点は「対幻想」だ。対幻想とは異性同士の一対一の関係から生まれる幻想であり、つまり「恋愛」や「家族」のことを指す。なお、ここでは自然的な性関係を意味しておらず、この幻想は親子や兄妹関係においても成立する。
 この「対幻想」がのちに国家を生み出す「共同幻想」へと転化してしまう。それは国家のみならず、宗教的儀式や法律でも同様だ。
 そうした理屈でいうと、それまでの国家論や歴史観では国家成立は大和朝廷云々などと言われていたが、吉本からすればそれ以前の邪馬台国もしくはその周辺の小集団の時点で国家そのものは萌芽していることになる。
 つまり、ある意味で人間が共同体を建設するとき、必ず国家は必要となるし、それは家族のエロス的な結合を期限にもつ、ということになる。
 こう考えれば、現在の日本国はなんとも足場のないふわふわしたものに思えてくるし、それは諸外国も同様で、実に抽象的な存在感を放ち始める。これが当時全共闘世代に多く読まれた理由だろうし、ある程度共感はすることができる。
 しかし個人的な解釈を深めるとするならば、本書は国家以外にもさまざまなイデオロギー対立をも霧消させているようにも思えてくる。つまり、現代社会はネットを中心としてさまざまな言説が溢れ、そこから人が結集したり対立しているわけだが、ここにこの「共同幻想」なるものを加味すれば、結局のところ理解した先はそれぞれの相対化しかないからだ。
 おそらくこういった点で本書は再評価されるべきだと思うし、今後も読み継がれるだろう。家族を立脚点に国家を読み解くという視点も、まだまだ効力を失っていないはずだ。吉本隆明は最近読まれなくなってきたと言われているが、没後10年という節目を迎えて、今後もさまざまな読者を得ることを期待している。(何様目線)

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2022年09月29日

Posted by ブクログ

本作品は、戦後の日本思想界の巨人といわれる吉本隆明(1924~2012年)が1968年に発表した代表作で、当時の教条主義化したマルクス・レーニン主義からの脱却を求めていた全共闘世代に熱狂して読まれたと言われる思想書である。
私はこれまで、吉本の著書は、『真贋』、『家族のゆくえ』、『読書の方法』、『悪人正機』(糸井重里との共著)などのソフトなものしか読んでこなかったのだが、本作品についてはいつか読まねばと思い、改訂新版出版のたびに買い替えて来たており、今般やっと、NHK番組「100分de名著」を参考にして一通り読むことができた。(といっても、重要部分の飛ばし読みであるが)
本作品は全11篇から成り、前半の「禁制論」、「憑人(つきびと)論」、「巫覡(かんなぎ)論」、「巫女(みこ)論」、「他界論」、「祭儀論」の6篇は1966~1967年に月刊誌「文藝」に連載されたもの、後半の「母制論」、「対幻想論」、「罪責論」、「規範論」、「起源論」の5篇は書下ろしである。
読むにあたっての技術的なポイントは、まず、吉本が何故この本を書いたのかという問題意識を念頭に置いて読むこと、そして、書下ろしの後半部分から先に読むことであろう。
前者については、吉本は「角川文庫版のための序」に、「国家は共同の幻想である。・・・人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となったりしているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝縮していったにちがいない。」、「人間のさまざまな考えや、考えにもとづく振舞いや、その成果のうちで、どうしても個人に宿る心の動かし方からは理解できないことが、たくさん存在している。あるばあいには奇怪きわまりない行動や思考になってあらわれ、またあるときはとても正常な考えや心の動きからは理解を絶するようなことが起こっている。・・・それはただ人間の共同の幻想が生み出したものと解するよりほか術がないようにおもわれる。」と記しており、自らの戦争体験から、平時であれば「正常な考えや心の動き」をしている人間が、なぜ戦地では「奇怪きわまりない行動や思考」ができるのかを明らかにしようとしたことである。
そして、主に『遠野物語』と『古事記』を題材に、エンゲルスが『家族・私有財産・国家の起源』で著した国家の成立の過程と対比して、日本におけるそれを明らかにしていくのだが、その中で、有名な「共同幻想」、「対幻想」、「個人幻想」という概念が展開される。
翻って、半世紀前に発表された本書を、現代の我々がどう読むべきかを考えると、「祭儀論」にある「原理的にだけいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想にたいして<逆立>するはずである。・・・ある個体にとって共同幻想は、自己幻想に<同調>するものにみえる。またべつの個体にとって共同幻想は<欠如>として了解されたりする。またべつの個体にとっては、共同幻想は<虚偽>としても感じられる。」の部分が参考になる。つまり、現代の共同幻想とは、国家レベルからグローバルレベルに拡大した膨大な情報ということができるが、我々は、その共同幻想を鵜呑みにせず、共同幻想に逆立する(緊張関係にある)個人幻想、地に足の着いた個人幻想によって、共同幻想に対峙していく必要があるのである。
巨大な共同幻想に世界が翻弄される今、改めて読み直されていい作品なのかもしれない。
(2020年8月了)

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2020年08月08日

Posted by ブクログ

 「共同幻想」とは、人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念のあり方を指す、と著者は定義する。それをふまえたうえで、国家とは何か、また自分と国家はどのような関係を持っているのかを考えていく。そこで出た答えとして、国家とはいわゆる共同の幻想で誕生したものだと結論づける。

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2024年03月04日

Posted by ブクログ

在野の思想家という意味では戦後最大と思われる著者の主著のひとつ。共同幻想ー対幻想ー個人幻想という概念は知っていたが,時代性を考慮しなければその価値はよく分からないでしょうね。
対幻想という概念が独特だと思うのだが,これは性であり家族であるということなので,性の多様性と家族の変容を見る現代においてどう考えるべきか。どこかで誰か(本人?)が書いていたけれど,意外と「きょうだい」がポイントになるのかもしれない。

 
 

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2021年12月31日

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