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Posted by ブクログ
歴史に疎い私ですが、知的好奇心がそそられる分野です。
日本史の通説もよくわかっていないながらも、本書を通じて、歴史の研究が進む中で新しい史実が見つかっていく面白さを感じます。
本書で扱う本能寺の変は、従来は、鬱屈がたまった光秀がたまたま起こしたと言われていましたが、実は、絶妙なタイミングを計り、この日しかなかったとまで本書では述べています。
日本の戦国時代と世界の大航海時代、日本史と世界史をリンクさせて理解する必要性も、本書で強く感じました。学校教育でも、日本を世界の一部として歴史を学ぶようなカリキュラムにすると理解が進むのにな、と感じます。
Posted by ブクログ
令和2年になってコロナが騒がれる前に読み終わった本ですがレビューを書くのを忘れていました。緊急事態宣言のお陰でテニスもピアノもできなくなってしまい、更には天気が雨であったので、絶好のレビュー日和となりました。
今年の大河ドラマは明智光秀が初めて主役として登場してきますが、光秀がなぜ謀反を起こしたのか、多くの人が様々な意見を述べています。
最近では新しい史料による研究も進んできていて、新しい解釈もされているようです。歴史の真相が明らかになってくるのは面白いものですね。
以下は気になったポイントです。
・正親町天皇に和睦の勅命を出してもらったとき、信長は、山門領は比叡山延暦寺に返却するという誓書を出し、浅井氏と六角氏の近江の領有を認めているが、その9ヶ月後に反故にし、比叡山延暦寺の焼き討ちをしている(p24)
・当時教如は本願寺の後継者となるべく前久の猶子となっていた、門跡寺院の後継者になるには皇族、五摂家の出身者しかなれなかったから(p25)
・島津家の領地はもともと近衛家の荘園であった、そこに地頭として赴任したのが島津家の祖、忠久であった。以来両家は主従に近い関係を保ってきた(p28)
・信長は天正7年、誠仁親王一家を二条御所に移住させている、誠仁親王の即位を果たしたのち、安土城内の清涼殿に移住させる(遷都)つもりだった、その後、猶子である、五の宮が天皇となれば信長はその父なので、太上天皇と同等の資格で朝廷を意のままにできると信長は考えていた(p33)
・武田信玄の師でもある、快川和尚は正親町天皇から国師号を授与された高僧、その僧を焼き殺した信長は、天皇の権威を真っ向から否定したのも同然であり、前久はついに袂を分かつ決意をした(p36)
・信長は明智のために誅されたという意味の過去帳がある、誅するとは、上位の者が罪あるものを成敗する場合に用いる言葉である。当時、信長よりも地位が高い人物、それは天皇か将軍のみ、どちらかの命令を受けて光秀が討ったと解釈できる(p42)
・義昭が鞆の浦に居住していた時も社会的には将軍と認識されていて、京都五山の住持の任命などの公務も行っていた、鞆の浦は広島県福山市に位置する。江戸時代までは瀬戸内海運の中心地として栄えていた、潮待ちする港であった(p45、46)
・鞆の浦幕府の大名衆として、京極高成、武田信景、内藤如安、六角義あき、北畠具親など、室町時代以来の守護・守護代が記録されている(p48)
・なぜ天正元年を持って室町幕府滅亡とされたのか、それは徳川幕府にとって都合の悪い史実であったから。家康は信長とともに義昭と戦っているが、これは徳川幕府と戦ってもよいのではないか、と言われたら反論できなくなるから(p71)
・当時の西日本は、毛利・大友・島津が対立していたが、義昭が鞆の浦に移ったことで島津を従わせる体制が整った、島津が天正6年に耳川の戦いで大友を破って、西日本のほぼ全域が義昭の号令の及ぶ地域となった(p72)
・三職推任により信長が将軍になれば、義昭の将軍職は無効になる、すなわち西日本の足利幕府勢力圏は瓦解する、それを阻止しようとする動きが起こるのは必然であった(p73)
・秀吉の朝鮮出兵は、天正10年の政変のとき、秀吉がスペインからの援助(最新の軍艦2隻を売り渡す)を受けることと引き換えに約束したからと思われるが、ポルトガルの海軍が反対したため実行できなかった、これに激怒した秀吉は、イエズス会に圧力(バテレン追放令)をかけた(p93)
・幕府が鎖国をしたのは、日本人の多くの望みは「大航海時代よりは国内」「植民地をつくるより、もともとの領土を堅実に守る」ほうが幸せということをわかっていたから(p117)
・信長の遺骨がある阿弥陀寺で秀吉は葬儀ができなかった、なので大徳寺で葬儀を行ったが、織田家からは参列しなかった。大正6年1(1917)に信長に正1位が追贈されて皇室からの使者は阿弥陀寺の信長の仏前に参向した、これが信長が皇室に認められた瞬間(p123)
・農業中心の社会から、商業・流通が盛んな経済社会へと変わった。この大きな変化に、これまで農民を治めていればよかった守護大名の多くは対応できなかった、対応できたのは守護大名から領地を預かり、地元の産業に直接かかわっていた守護代というわれる人たち、その代表的な存在が信長の父信秀である(p135)
・近江を制することは、琵琶湖を制する、これは短い陸路で、太平洋・瀬戸内海・日本海につながることと同義である。三方から集まる流通を押さえれば、津料と関銭をとることができ膨大な収益となる。なので信長は安土城を拠点、長浜に秀吉、坂本に光秀、高島に甥の津田信澄を配した(p139)
・信長は組合である「座」や、寺社の支配下にあった「市」を廃止し、自由に取引できるようにして経済を活性化させようとした(p141)
・種子島に鉄砲伝来したとき、三人のポルトガルは漂着ではなく、倭寇である王直の船で種子島に来ている、ポルトガル側が王直に頼んで日本に連れて来てもらったのは間違いない、日本と貿易したい理由は、鉄砲の弾を撃つための硫黄が欲しかった。種子島の隣にある硫黄島は硫黄がとれた(p147)
・当時の日本には、軟鋼、真鍮(銅、亜鉛合金)、硝石、鉛を輸入する必要があった、そのルートを支配していたのはマカオを拠点とするポルトガルであった、大名たちがキリスト教に好意を示したのは貿易で物資を手に入れたい気持ちもあった(p148、154)
・茶室では先にお菓子を食べてからお茶をいただくが、この作法も聖杯授与と似ている(p188)
・石田三成は豊臣政権の方針を引き継いで、中央集権体制と重商主義政策を取ろうとしたが、徳川家康は関東統治の成功に力を得て、地方分権体制と農本主義政策をとるべきと考えた。関ヶ原の戦いは、両者の政策の是非を問う選挙のようなもの(p198)
・信長公記を読めば信長は迂回も奇襲もしていない、信長は桶狭間という狭い谷間に今川勢を誘い込み、鉄砲と長槍を組み合わせた新戦法で完膚なきまでに打ち破った、この時用いたのはスペイン陸軍のテルシオ舞台にならった戦法である(p200)
2020年4月18日作成