【感想・ネタバレ】いつもそばには本があった。のレビュー

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Posted by ブクログ 2021年02月03日

著者たちとあまり学生時代を過ごした年代が変わらないので、この本でふれられている”あの時代”の雰囲気はよくわかる。なぜか浅田彰の本がベストセラーになって、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』などという本が平積みになったりしていた時代だった。ちょっと前には「朝日ジャーナル」などという雑誌があって...続きを読む、”人文的な教養”が価値のあるものと考えられていた時代でもあった。この本はちょっと懐古的に感傷的になっているような印象もあるが、それを踏まえた著者たちの現代への問題意識もわかる。ただ、両者がバックグラウンドとする仏哲学が『知の欺瞞』後にどれだけアクチュアリティを持てているか、単なる”妄想”になっていないかの自己認識みたいなものは聞きたかったな、とは思った。

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Posted by ブクログ 2023年03月31日

わずか125ページの小著だが、人文学的知とはどういうものなのかを教えてくれる。特に論文の引用数だけで全てを評価しようとする風潮に警鐘を鳴らしている。

著者達が読んだ本を紹介しながら、往復書簡のように話が展開していき、たいへん勉強になる。

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Posted by ブクログ 2019年07月19日

新しい形式である。対談でもない。往復書簡でもない。同時代を生きてきた二人のなかで本を介した記憶や思想のネットワークがつながり、広がる。アクチュアルな哲学に興味のある人ならば、引き込まれるはず。いわゆるエッセイやガイド本ではない。

・アーレントは最後まで実存主義を離れなかったには目からウロコ。
・内...続きを読む田義彦の『作品としての人文科学』。論文としての人文科学ではなく。
・答えではなく、問いが人文科学。

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Posted by ブクログ 2019年04月20日

この本は、ドゥルーズなど仏哲学を中心とした哲学研究者の國分功一郎さんと、雑誌編集者兼ソシュール研究者でもある互盛央さんが、昔読んだ本に関する文章を相互に交換リレーする形式で綴ったものである。フォーマットとしては珍しく面白い仕掛けだが、それが成功してこの本を特別な本にしたかというと、それほどまでではな...続きを読むい。ただ、少なくとも二人の関係性と、主に1990年代初めに学生だった世代が共有する読書空間があって初めて成立した本だという意味で特別な本である。國分さんが1993年に、互さんはその1年前に大学に入学している。自分は1988年入学だが、理系であったこともあり、現代思想にかぶれるようになったのは少し後であることを考えると、おそらく著者らとちょうど同じころに現代思想に触れた世代といえる。そのため、出てくる本、出てくる著者、出てくる言葉、についていちいち溢れ出てくる懐かしさを感じた。1995年に日本で公開されたクロード・ランズマンのドキュメンタリ映画『ショア』(上映時間9時間半!)の話が出てくるに至ると、本当に同時代の空気を感じて生きていたんだなあと思う。

國分さんが担当する最初の回では、國分さんが大学一年のときに所属していたサークルで柄谷行人の話題が出た話で始まる。そのとき國分さんは柄谷のことを知らなかったそうだが、その後出版されたばかりの『ヒューモアとしての唯物論』を夢中で読んで、その内容に感銘を受けたという話が出てくる。自分の柄谷体験で熱心に読んだ本を挙げるとすると、それとは違う『探求I』『探求II』になるが、そのころに現代思想にはまった人間にとって、柄谷の影響力は今では想像することは難しいのかもしれない。自分が大学院生になったころ、思想書好きで集まったグループで手作りの雑誌を作ったことがあったが、そのグループの中でも柄谷の存在感は頭ひとつ抜けていた(そのグループの中に、東大教授となっている社会学者の北田暁大がいた)。國分さんは、柄谷の最近の著作として『哲学の起源』を出色の出来であり傑作と評しているが、この辺りにもまだ柄谷へのある種の憧憬がまだ生きているということなのかもしれない。自分なら、近年の著作から選ぶのであれば、やはり素直に『世界史の構造』を挙げるが。というように、この世代であれば、柄谷行人については話を継ぐことができるものなのである。

瓦さんは、自身の研究者としての方向性を作るきっかけとなった本として丸山圭三郎の『ソシュールを読む』と『ソシュールの思想』を挙げている。自分にとっても、シニフィアンとシニフィエの発想、すでにある世界の分類に沿って言語があるのではなく、言語自体によって現実世界が分節されているという思想を眼から鱗が落ちる思いで読んだ。ソシュールは哲学思想の深さと面白さを知ったきっかけの一つでもあった。そして、自分がそのような現代思想の書き手を知った本は『わかりたいあなたのための 現代思想・入門』という本だったのだが、この本について「この本、懐かしく感じる世代のかたがいるはずだ」と書かれてあり、驚いた。この本は単行本ではなく、いわゆるムック本のようなものだが、懐かしく思い出すというのは全くその通りで、自分もこの本から現代思想に入り、どの本を読むべきかのガイドブックとして長く手元においていたものである。ああ、みんなそういう感じで入ったんだな、ムック本でもこうやって広く影響を持つものもあるんだと、そのころの熱とともに思い出した。瓦さんはこの本に出てきた人として山口昌男、廣松渉、今村仁司、蓮實重彦、柄谷行人という名前を挙げているが、まさしく懐かしく感じる名前である。本書に出てくる思想家の名前をあらためて見ると、『わかりたいあなたのための 現代思想・入門』の影響の大きさがわかるような気がする。「若い頃は、豊崎や蓮實重彦の文章に憧れて、むやみに込み入った文章を書こうとしていたのを(恥ずかしく)思い出す」と書かれているが、恥ずかしながら自分もそういう思いを共有する一人である。

昔読んだ本については、その本を読んだ状況含めて、さまざまな記憶と結びついているものが多い。今は電子書籍で読んでいることもあるのか、年齢のせいなのか、そういう本は少なくなっているような気がする。学生のときに読んだ本のいくつかはその本を読んでいる情景とともに思い出すことができる。なぜその本が印象に残っているのか理由はわからないものもある。例えば、蓮見重彦の『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』は、何か所用があって一人で遅れてスキー場に向かう電車の中で読んだのをなぜかはっきりと覚えている。もちろん、フーコー、ドゥルーズ、デリダ各々の本は、その気合の入った本の装丁とともに印象深い。本書の中でも様々な話題の中心にフーコー、ドゥルーズ、デリダがいる。特にフーコーの『言葉と物』『監獄の誕生』『狂気の歴史』は、丁寧にかぶせられた薄紙をくしゃくしゃにならないように大事にして、読むたびに丁寧に再び本にかけてカバーに入れていた。フーコーの読書体験は、あの装丁とともにある、と言って同意していただける人はどれくらいいるのだろうか。
他にも、本書の中で今でももっと読まれるべき本として挙げられたロラン・バルトの『テキストの快楽』『S/Z』『物語の構造分析』『零度のエクリチュール』『モードの体系』『恋愛のディスクール・断章』『神話作用』『表徴の帝国』『彼自身によるロラン・バルト』などは、光沢のある真白い、みすず書房の品のある書籍を大学院生時代の部屋で、寝床にしていたロフトに寝ころんで熱心に線を引きながら、ときに印象的な言葉をノートに書き写しながら読んでいたことをやや暗い部屋のくすんだイメージと少し匂う布団のにおいとともに思い出す。

「本だけがそのような物語を紡ぎ出せるわけではない。だが、本はそのような物語を紡ぎ出すのに最適の媒体である。だからこそ、人類が発明したこの本という媒体は、どれだけメディア環境が変化しようとも、常に高く評価されてきたのである。いつもそばに本があることは、人間が人間らしく生きるために必要な条件だという認識は今も失われていない。
私のような書き手の端くれもそのことを常に意識してきたし、意識している。そしてこの本は本がもつそのような機能と魅力を読者の皆さんにお伝えするために書かれたのである」ー 國分さんは自身の最後の断章においてこう書いて終わる。もちろん、この本のタイトル『いつもそばには本があった』は、ここから取られたのは間違いない。

「本がもつそのような機能と魅力」は、同時代に当時の1990年代初めの現代思想にかぶれたものとして、とてもよく伝わってきた。それはすでに自分の中にあったもので、この本を触媒として再び上がってきた感情である。そうした同時代的な空気の共有を、例えば今の大学生の世代では持っているのだろうか。持っていないだろうとも言ってはいないし、仮に同じようには持っていないとしてもそれが劣っていることだとも思っていない。それは時代の違いというべき類のものかもしれないが、しかし寂しい気持ちもある。

あとがきにて國分さん自身は「機能主義的に本を読んできた」と書く。「機能主義的に」ということが、「知っている」ことを確認し、さらには何を「知らない」かを知ることであるとすると、自分も機能主義的に本を読んできた。決して時間潰しのためでもないし、娯楽のためでもなかった。それこそが國分さんが言う「本がもつ機能と魅力」であるとすれば、自分も機能主義的な本読みだと思う。そして、それは結局のところ贅沢で大いなる悦楽でもあるのだ。

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