【感想・ネタバレ】稲作の起源 イネ学から考古学への挑戦のレビュー

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Posted by ブクログ

稲作は焼畑農業ではなく、サトイモなどの根菜栽培を起源とする株分けから生まれたとの説を展開する。水稲に備わっている短日感光性や休眠性といった遺伝子が陸稲では失われており、陸稲から水稲には簡単には戻らないとの理由で雲南アッサム起源論を否定する。いきなり種蒔きが始まったのではなく、株分けから栽培が始まったという主張も受け入れやすい。様々な難題が整理されており、歴史観も少なからず変えられた。情報量も多く力作である。

根栽農耕
・根栽植物の貯蔵器官は、乾季のある亜熱帯や冬季のある温帯で発達する。熱帯降雨林では食料になる植物は少ない。
・根栽農耕は低湿地の農耕であり、移動耕作である焼畑で多年生の根栽農耕作物が移されることは考えにくい。

稲の栽培化
・作物の栄養として窒素が最も重要で、地力や肥沃度とほとんど同じ。
・畑では窒素が酸化されて雨で流されるが、水田では土壌が酸化されることはない。無肥料でも水稲は完全肥料時の80%の収量をあげるが、畑作では40%になる。
・水田では、土壌中のリン酸と鉄やアルミニウムとの結合が弱く、利用されやすい。灌漑水からカリウムなどが補給される。ラン藻類やアゾラによって窒素が固定される。
・畑作では微生物が蓄積して病害が増えるため連作ができないが、水田では湛水によって好気的な微生物は死滅する。

越人
・古代越の都(現在の浙江省紹興)近くの河姆渡遺跡は、長江下流域の良渚文化(BC3300〜2250)につながる。
・呉の中心(現在の江蘇省蘇州)には草鞋(そうあい)山遺跡がある。
・越は楚によってBC334年に滅ぼされ、住人は南に逃れて百越の小さな国々を建てた。
・9000〜8000年前の彭頭山遺跡のある長江中流域の洞庭湖北西の?水(れいすい)流域は、古代楚の地域。
・殷の時代に争っていた東夷(山東省)や淮河夷(河南省)は、後の南蛮、ミャオ族(現在、貴州省、湖南省など)、ヤオ族(湖南省、雲南省など)のタイ語系諸族で、周に押されて南に移動した。
・秦の時代にも嶺南支配(広東、広西)によって南越国が征服された。
・福建省の?(びん)語や広東省の粤(えつ)語は、古代の百越の言語の中国語化の結果(橋本萬太郎)
・倭は中国沿岸部で越に属していた部族。

日本への伝来
・水田稲作前に焼き畑などの遺跡や農耕具の発見はない(佐々木、佐藤は農具は必要ないと主張)。縄文の遺跡から穀物がまとまって出た事例はない。
・日本神話の大部分は南方系のもの。中国南部の少数民族には日本の神話や伝説に似たものがあり、ポリネシアや東南アジアとも類似がある。
・竹は漁労文化とともに日本に渡ってきた。日本の竹類には外来種が多い。
・水田や水路は淡水魚の産卵場であり、トンボやカエルはイネの害虫の捕食者。
・朝鮮半島の確実な稲作遺跡は、半島南西部の錦江(クムガン)地域にある松菊里遺跡(BC600年頃)。

水田稲作社会とは
・畑作農業は面積あたりの生産量が低いため、畜力を使って大面積を耕作しなければならず、強制力によって組織された労働が必要。

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2018年10月31日

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