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九螺(くら)ささら氏は、神奈川県生まれ、青学大文学部英米文学科卒、2009年春より独学で短歌を作り始め、2010年に短歌研究新人賞次席、更に、2014年より新聞歌壇への投稿を始め(朝日歌壇、日経歌壇、東京歌壇、ダ・ヴィンチ「短歌ください」等で掲載無数)、2018年に発表した初の歌文集である本作品でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。第一歌集は同年発表の『ゆめのほとり鳥』。
尚、Bunkamuraドゥマゴ文学賞とは、パリのドゥマゴ賞のユニークな精神を受け継ぎ、Bunkamura創立1周年の1990年に創設された文学賞で、毎年代わる一人の選考委員によって選ばれる。(2018年の選考委員は作家の大竹昭子)
私は50代の会社員で、最近短歌に興味を持つようになり、俵万智、穂村弘、東直子、枡野浩一、木下龍也、岡野大嗣らによる入門書や歌集、多数の現代短歌歌人を集めたアンソロジー等を読み、半年ほど前から新聞歌壇への投稿も始め、最近ポツポツ採用されるようにもなった。
だが、現代歌人のアンソロジーを読んでいると、木下や岡野ら、私小説的な近代短歌とは一線を画し、シンプルな言葉で「ふとした瞬間に兆した感情を共有する」作風の歌人を除くと、素人・初心者の私には面白さがわからない(全く個人的な感想です)、よって自らの作歌の参考にはできない歌人も少なくなく、ネットで自分の好みの志向の歌人を探していた中で、「短歌で哲学する」と言われる九螺ささらに行き当たった。(九螺は、2021年に瀬戸夏子が編んだアンソロジー『はつなつみずうみ分光器』にも入っていない)
そして、私は先に歌集『ゆめのほとり鳥』を、その後本書を読んだのだが、(私にとって)九螺の魅力がより味わえるのは本書であった。
というのは、本書は、「あとがき」に書かれている「わたしは、「ただ短歌が並べてあるだけの歌集」や「短歌=与謝野晶子的情念」というイメージに疑問を感じていた」という九螺の思いを反映し、84のテーマについて「短歌+コラム(2頁程度)+短歌」という構成になっているのだが、そのテーマは、体と心、哲学、因果関係、たましい、無限、基準、神様、生まれ変わり、夢、質量保存の法則、今、記憶、聖書、幸福・・・である。テーマを見るだけで大いに興味が湧くが、そのコラムがまた、シンプルな言葉・表現ながら、とても深遠で、このような思考回路ゆえにこのような短歌を生み出せるということがよくわかるからである。(歌集の方は、本書のコラムのようなものがないために、私には消化不良になっていると言えるのかも知れない)
また、九螺は「あとがき」で次のようにも書いている。「わたしは、形而上的世界を愛する「宇宙酔い」の持病もあった。「宇宙酔い」には哲学が効く。哲学は、見えないけれどたしかに人類が感じているこの世の不思議を言語化して、人類脳同士で共有しようとする叡智である。しかし、不可視不可思議を追い求めると、脳は酔ってしまう。短歌は、このような過多な理性を受け止めてくれる器にもなりうる。」
九螺は、哲学的・抽象的なテーマを日常的・一般的な事象に置き換えることにより、硬過ぎない歌とすることに関して、類稀な才能を持っていることは間違いないが、近代短歌とは異なる発想・テーマ設定という点において、参考にできればと思う。
(2022年1月了)
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2020.8
短歌とエッセイ。短歌の潔さやその中の言葉の瑞々しさにはまっていく。エッセイも特に言葉についてのもの、濁音、アナグラム、ゲシュタルト崩壊、部首、なぞなぞ、重複、同音同義語などについてのものがおもしろかった。さすが言葉を扱う人。九螺ささらさんの言葉の使い方やぽっと出てくる単語も思わず笑ってしまうユーモアがある。好きだわ。言葉は音でありリズムであり響きであるということがよくわかる。音楽のようだ。楽しい。
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20180916 言葉や文字の音や見た目に、こんなイメージを展開できる人がいる事に驚かされた。自分にはない感覚なので書いて頂いた作品で味わうしかない。真似しても中身のない表現にしかならないだろう。こういう才能は絶対文感とでも呼ぶのだろうか。
Posted by ブクログ
世界の可笑しさ、面白さ、不思議さ、怖さ、の果てに宇宙の真実が見つかりそうで見つからない作品だった。短歌+散文でそんな不思議体験ができちゃう、この作品を読んで頭がおかしくなっちゃった…いい意味で。
お題に対する短歌と、その短歌に関するエッセイ、それともう一つ短歌。という構成。
短歌はもちろんだけど、その短歌の意味を深く理解するための、著者の脳内を覗けるエッセイがとにかく面白い。
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「ふと思う」の「ふと」は両生類であるこの世とあの世を「ふと」は行き来す
三面鏡の中の無限のわたしたちごめんわたしが抜け駆けをして
夢の中に影がなかった発見を夢の外でしか会えぬ人に言う
マフラーを編んでいる人は黙黙とこの世の端を編みつづけてる
この世とは神様が見てる夢だからところどころに同じ鳥がいる
この5つが特にお気に入りの短歌。読んだ時はそう思ったけど、気分によって、時によって、たぶん変動する。これ以外の短歌もエッセイも全部好き、面白かった、不思議だった。
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著者は、世界をどうやって見てる?
どの角度、どの高さ、どこから見てる?
何色に見えてる?形は?流動的に見えてる?
視野も視点も、何パターンもあってまるで世界が一通りに形を留めてないように思える。自然の風景だけでなく、生命の活動から無機物、言葉、感情、思想、森羅万象に語りかけては向こうからも語りかけてきたり。
まさに宇宙との対話。
その先にいる神様を見つけたら、みんなもそこに辿り着けるように住所をメモしなくては。神様の住所の郵便番号は何番だろうか。そうやって神様の目の前で、読者のために手紙を書いている光景が見えた。
キューブリックの「2001年宇宙の旅」を観た時のような、サイケデリックな発光で頭が掻き回される体験。短歌で「2001年宇宙の旅」をした気分。
読んでいると不思議な感覚に陥る。
10階建ての建物のエレベーターに乗っていたら、10階を通り過ぎてあるはずのない11階で扉が開いて、あっ、これ、降りたらダメなやつだ、ってなるような感覚。
現実と重なる別の世界に足を踏み入れてしまって、これ以上は進んだら帰ってこれなくなるな、と肌で感じる違和感や危機感がなぜかこの本の世界には広がっていた気がした。
著者は人間なんだろうか、妖なんじゃないか。そんな風に思えてしまうくらいに、世界を不思議そうに見つめている著者の姿が浮かんだ。
子供の頃に観た海外の不思議なアニメ。それらの記憶が走馬灯のように、ごちゃ混ぜになって流れ込んでくる。そうやって仕舞い込んだ記憶の中のおもちゃ箱をこじ開けられて、子供の感覚が蘇ることで、短歌の世界が見えてきたし、短歌の意味が想像できた。
著者が頭の中に入り込んできて、子供の頃の自分の手を取って、著者の短歌の世界へ連れて行ってくれた。不思議な体験だった。
この本を読むと自分が揺らぐ、世界の輪郭が揺らめく、宇宙と時間と空間が迫ってくる。有が押し潰されて無になり、無が押し広げられて有になる。神様の夢の中。宇宙の中身。心という空間。思考という物体。人間という図形。命という物質。僕らの生きる地球1丁目では通用しない感覚や常識や法則でできた地球2丁目の裏通り。あれ、別の宇宙に迷い込んでいたのかな?
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特にお気に入りの短歌と、それに対する自分の感想。
「ふと思う」の「ふと」は両生類であるこの世とあの世を「ふと」は行き来す
→概念って次元を超えるんだ、っていう発見、のような感覚。「ふと思う」ってのは思ってない状態から、思っている状態へ変化した瞬間。なんか、それっぽく言うと、重ね合わせの状態で、瞬間的に両生類なのかな。
「まだ思ってなかったこと、を思った」ということを「ふと思う」って言うのかな。無かった状態から有る状態への移り変わり。「ふと」はその両方を表現する言葉なんだろう。「ふと」は思考のあの世とこの世の接着剤なんだろうと、ふと思った。
あと、あの世とこの世を行き来するものを両生類って表現も面白い。じゃあ、生きてるし死んでいるゾンビも両生類かな、なんてことを、ふと思ったり。
三面鏡の中の無限のわたしたちごめんわたしが抜け駆けをして
→この短歌は、映像を思い浮かべやすいし、鏡に対して抱く想像のひとつであり、恐怖のひとつでもあるなと思う。鏡に映る無限の自分がいて、その中で裏切るのが自分ならいいけど、鏡の中の別の自分が裏切ったらどうしようという恐怖。
鏡を見るっていうのは、いつだって鏡の中の自分に裏切られる可能性を孕んでいるのかもしれない。なぜなら鏡のこちら側が現実1とは限らない。鏡の中の方が現実で、こちら側の方が虚像である現実2かもしれない、なんてことを思ったり。
鏡の中の自分もきっと自分を鏡のこちら側と思っていて、こっちのことをあちら側と思っているんだろうな。鏡っていうのは、そこに映る無限の自分の中で一番早く動いた自分が勝ち、でも一番早く動いた自分が負けっていうゲームをいつもしているものなんだろう。
夢の中に影がなかった発見を夢の外でしか会えぬ人に言う
→夢の中、その世界の住人にとっては普通のことで夢の中ではその発見を共有できない。夢の外、現実の住人にとっても普通の事だろうけど、その事実を理解して面白がってくれる。でも、だからどうした、って話。
世界のルールをその世界の住人では理解できないのは、もどかしい。でもその世界の外では、そのルールは何の価値もない、これもまた、もどかしい。物凄く重要な事が、重要でない場所でしか意味を成さないって、なんか複雑。
ただ、夢の創造主は自分でそういうルールを設けているのに、それを大発見のように面白がれるっていう、夢と現実の関係性をいつまでも楽しめる人でありたいなと思う。そういえば、夢にスマホが出てこないけど、これも発見になる?
マフラーを編んでいる人は黙黙とこの世の端を編みつづけてる
→マフラーを誰かのために編む人は、その誰かが属するこの世界をも編んでいるのかな。自分のために編む人は、自分の世界を広げるために編んでいるのかな。
毛糸の玉が惑星で、惑星の端をほどいて行ってマフラーへと世界の形を変えていっている神様なのかな。毛糸の玉が宇宙で、球状の宇宙を広げて伸ばしているのかな。地球平面仮説ならぬ、惑星マフラー仮説、宇宙マフラー仮説。
毛糸という宇宙の住人にとっての神様が、宇宙をマフラーにして身につけようとしているんだろうな。宇宙を首に巻いてどこかにお出掛けするんだろう。
この世とは神様が見てる夢だからところどころに同じ鳥がいる
→世界の中にある小さなバグ、っていうようなものが面白いなと思う。世界にバグがあったら駄目だろって思うけど、きっと神様も忙しくてアプデが間に合ってないんだろう。
にしても、人間にこの世界が神様の夢かもしれないなんて気付かせるような事は、してはいけないだろう。この世界が誰の何であれ、人間がその真実に気付いたら、きっと耐えられないだろうから。
初めは面白おかしく読めるんだけど、でも怖さもある内容だと感じた。人間って、神様の夢の登場人物に過ぎないのか、じゃあ、なんのために、生きてるの?なんて考え出したら嫌な気持ちにしかならない…。
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同音異義語などを発想のきっかけにして、短歌に昇華している。日本語の同義語や掛詞などの言葉遊びの楽しさを思い出させる。発想のジャンプ力に啓発された。
Posted by ブクログ
久々に 短歌って 詠むものなんだなぁ
と思って 思わず口に出してみる
現代短歌は革新的で 感覚的だけど
やっぱり 身にじんわりと染みる
音の響きの良さがありますね
Posted by ブクログ
短歌とエッセイの組み合わせ。
ものすごく興味深い魅力的な本だった。
言葉に対する感性と文字に対する感性とが
哲学的というのだろうか
(そもそも哲学をよくわかっていないのだけれど)
この人が凄い感性を持っていることだけはわかる。
最初から最後まで
とてつもない引力に引き寄せられるようだった。
増殖する「ふえるわかめ」の話とか
「!」「?」で進む会話も面白かった。
「赤の他人と白い恋人」とか。。ククッ
是非とも、最初の歌集も読んでみたいと思った。
だが、しかし、こういった圧倒的な人を知ると
自分の能無し感ばかりが感じられて
嬉しいが落ち込む。
隠された感情を言葉と言葉の間から
引っ張り出して楽しむ短歌は誠に奥深い。
いつもいつも三十一文字に苦しめられて、
絞り出し、ひねり出し、
圧倒的に少ない語彙に打ちのめされる私である。
この人の脳内で溺れてみたい。
「言葉にできない」というのは敗北だとインタビューで
答えているささら氏の爪の垢がほしいぜ。
Posted by ブクログ
84編の短歌と散文.この散文が楽しく合わせて一つの短歌となっているかのよう.共感できる延長上の感性とはっと目を見張るような考えたことのなかった表現.そしてその表れ方が変わっていても,とても健全でまっすぐな気持ちが読んでいて心地よかった.
Posted by ブクログ
情緒もあるメタ文学って感じだった。読むのに時間かかった。。
短歌のあとにあるエッセイがよかったり冗長だったりした。
短歌だけじゃ成立しなさそうな短歌もあるっちゃあるんだけど、短歌と短い文章の組み合わせの本って、どっちかが負けちゃうような気がする。
国境がリウの形に閉じていてその国のリスは二重人格
標識の「月まで三キロ」あたりから次第に軽くなる地球人
上二つはちゃめっけがあって好き。歌集を読みたい。