【感想・ネタバレ】シュレーディンガーの猫を追ってのレビュー

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Posted by ブクログ

例えば、堀江敏幸の小説のように。あるいは蜂飼耳の散文のように。流れる言葉の連なりの中に、作家の思考の断片が幾重にもオブラートに包(くる)まれた状態で見つかるような文章に、惹かれる。フィリップ・フォレストはそんな文章を書く作家のひとり。

例えば草むらの中に転がる軟式野球のボールの白さにはっとするように。今まで歩を進めていた草原とは隔絶した物語がその白さの佇まいから流れ出すように。文章の森の中にそっと配置された思考の断片に潜んでいた別の言葉の連なりが想像され、思考が繋がる感覚を得る。しかしそれは龍安寺の石庭に置かれた庭石のように観察者の意図を寄せつけぬようでもある。加えて、石の配置の意味するところを量りかねるだけでなく、存在そのこと自体に気付かない思考の断片もまた幾らでも草陰に埋もれて散らばっている。目に見える言葉の辞儀通りの意味をいくら汲み取ったと思ってみても、自分はフィリップ・フォレストの綴った言葉の何を読み得たのかといつも不安に思う。

『彼の話をするときになぜ「戻ってくる者」という語を必要としたのか、じつのところ、わたしにはよくわかっていた。そして、庭にあの猫が出現するのを見た「最初のとき」から、シュレーディンガーの有名だがかなり難解な「思考実験」のことを考えた理由もよくわかっていた』―『反=猫という仮説』

失った娘=黒猫、という心象を巡るエクリチュールの輪舞。還元主義的にこの物語の言葉の連なりを分解してみれば、量子力学的実在の意味と夜闇の中に現れ消える黒猫の物語、そして大きな痛みを共有しつつすれ違う夫婦の暮らし、ということになるだろう。しかし作家の試みは、言葉の大部分が費やされる量子力学的な現実の解釈の探求の中に、喪失の痛みを紛れ込ませること。それをまた俯瞰して見つめるように陰と陽の間を行き来する。物語の歩みはどこまでも散漫かつ緩やかで、シュレーディンガーの人生や、エヴェレットの解釈を巡るエピソードなどを織り交ぜながら、言いたいことの核心には触れずに進んでいく。密やかな徴の中に込められた幾つもの意味の欠片が、結晶の中で屈折し散乱する光ように無数の思考となって引き出され、輪郭が明らかだった筈の一つの言葉の濃度をどこまでも淡くする。そして、連なった言葉の行く先は、断章ごとに霧散するかのよう。波紋の消えた水面に元の波紋の痕跡を見出そうとするような哲学的思考の様式は、禅を経て陰陽へ至りやがてシュレーディンガーの猫の生死についての思考に再び戻ってくる。そこにフォレストの祈りを微(かす)かに認めることができる。

『だからこそひとは、せめて自分の飼い猫に、師の姿を見出そうとする。そして、人生の稀に見る相対性を諭す、意義深くも言葉を伴わない唯一の教えを授かるのだ。(中略)猫は、虚無と戯れ、震える大気を目で追い、物影として見える亡霊を狩り出し、獲物と影を交換し、今度はその影を顧みずに、いっそう捕らえがたい何かへと目を向ける。こうして猫は、世界の不条理を白日の下にさらけ出し、そこに何かしらの意味を見出そうという意図の滑稽さを暴き出す』―『「わたしたちの畑を耕さねばなりません」』

十五年の時を掛けても昇華させることの出来ない思い。あり得たかも知れない現実をコペンハーゲン派的世界観の中で一つの現実と納得することで得た一瞬の安堵のようなものは、そのあり得たかも知れない現実に生きる自分自身の分身の意味を丁寧に理解することによって、たちまち霧消する。そして「逢ふ魔が時」である「たそかれどき」から始まった物語は、明け方の光が蒙を啓くかのように全てが元の形に戻り閉じる。「たそかれどき」や「かはたれどき」はこの世とあの世の淡いの時という古の日本人の死生観を、フォレストが物語の流れに重ねていたことを最後に気付く。

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2021年06月03日

H

購入済み

理解が・・・

物理学は嫌いではありませんが、やはり、一般常識が通用しない、量子の世界はついてゆけない処があります。私には、楽しく読めませんでした。ただ、途中で放り出すことにはならない程度で、興味を引きました。その意味で、☆三つです。

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2021年12月31日

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