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Posted by ブクログ
最近、ミステリーのように筋立ての妙で読者をひっぱる物語よりも、文章それ自体の力によって、ゆっくりと歩ませてくれる種類の小説に強くひかれる。在るということ、それ自体が発する力を受けとめる緊張感をもった器のような、そんな小説だ。
九州の小さな離島の、わずか一年間の物語である。眼に見えるような変化はほとんど起きない。ただ、ひとりの男がやってきて、いつのまにかいなくなっただけ。しかしその、何もないように見えて何でもある島の生活は、たとえば、セイの毎日を満たす食べものを通して、こんなふうに描きだされる。
「こればっかりは島で採れるとが一番」と義父がいう、アオサのおつゆ。から揚げにしようか、さっと煮ようか、叩きもいい、と考えながら市場で買う、とてもきれいな小アジの一盛り。男の親指ほどのミミ竹を採って、その場で味噌をとかしてつくる茸汁。そこで採れる食べ物をていねいに食べる、その一年を通した描写があるからこそ、何かをあきらめたわけでもなく、強がりでも倦んでいるのでもない、「島の女」として、この男の妻として生きていくことを選んだセイの姿が、それでもなお、先の見えない「切羽」へと手を延ばそうとする心のひたむきさとともに、くっきりと像を結ぶのではないだろうか。
傍目に何もないように見える日常を生きることは、けっして何かをあきらめることと同義ではない。その日の食事をていねいにつくり食べることは、たぶん、空気のなかにひそむささやかな季節の変化、エロスの信号を感じ取ることと通じるのだ。たとえば、夫がはじめて「ぞんざいさと親密さを織り交ぜて」「あんた」と自分のことを呼んだことに気がつくこと。
日常の風合いを楽しむ小説
特に事件は起こらないありふれた日常の機敏を描くのが上手で、主人公の気持ちの変化を丁寧に言葉にしていると思います。そういえば私自身もちょっとした事で気分が上がったり、下がったりする事があると改めて自分に置き換えて考えたりしました。表現の詩的な感じもとても素敵でした。不思議な存在感の石和に作者が託したものは何だったのか、考えながら読み進めていき、最後まで謎のままで読み終えました。主人公が子供の時に見たミシルシの象徴が石和かもしれません。有って無いようなもの、あるいは無くて有るようなもの、影または気配の象徴かもしれないと思いました。
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第139回直木賞受賞作。
離島の小学校の養護教諭の麻生セイ31歳がみた、1年間の島の様々な人間模様。
セイは島の診療所の医者だった父の娘で、一度は東京に出たこともありますが、今は両親は亡くなって、画家である幼ななじみの三歳年上の夫の陽介と二人で暮らしています。
島で一つきりの学校である小学校に勤めています。
同僚の教師月江は、生まれも育ちも東京ですが、五年前から島にいます。月江は独身ですが、妻のある愛人が本土にいて、本土さんと呼ばれるその人は時々、島に月江に会いにやってきます。そのロマンスは島民、全部が知っています。
小学校の生徒は9人で、教師は他に校長先生と教頭先生だけです。
そこへ、新任の音楽教師、石和聡が赴任してきて、セイも心がざわついてきます。
90才の島の老嬢、しずかさんにはセイの心の内を見透かされたようなことを言われて落ち着きません。
小さな島の何事もない日常だけれど、石和が現れて少しずつ変化していく様子が描かれていきます。
島ののんびりとした空気、小学校の生徒たちが石和のピアノに合わせて歌っている場面など情景が鮮やかに浮かんできました。
しずかや、夫の陽介も存在感があり淡々とした一連の出来事もはっきりとその空気感がみえてくるようなしみじみとした作品でした。
大きな事件もありませんが、平易な文章で情感がありました。
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淡く美しい小説。
夫の描く絵、島の景色、人々のありよう。
穏やかであたたかい、ある意味なまぬるいような
景色のなかにやってきた石和という人。
ざわめきが、ゆっくりと穏やかな景色を、
空気を乱していく。
切羽とは、トンネルを掘っていくいちばん先。
トンネルがつながるとなくなってしまう。
いつか喪われてしまうもの。
喪ったことで美しさがいつまでものこるもの。
書かれないことで、心にのこる、
そんな淡い美しさがこの小説の印象。
Posted by ブクログ
何かを成す途中にはとても大切と思われていた場所が、終わってしまえば影も形も消えてしまう、そんな場所をあなたはご存知でしょうか?
これはなかなか難しい質問です。簡単には思い浮かばないと思いますが、例えばビルや家の工事現場がそんな場所と言えなくもありません。もちろん白い幕に覆われていて容易には目にできないという突っ込みはあるかもしれませんが少なくともそんな場所をイメージすることはできると思います。私たちが当たり前に目にするビルや家が今の姿になるまでにはその途上の姿がある、それが工事現場です。しかし、最初の質問の解答としてはこの答えは少し不適切です。何故なら工事途中の形状こそなくなってしまうとはいえ、そこにはその途中の積み重ねの結果としてのビルや家が姿をとどめているからです。
では、そんな質問に対する答えはあるのでしょうか?全く思いもしなかったそんな答えを私は偶然にも手にしました。井上荒野さん「切羽へ」というこの作品。直木賞も受賞されたその作品の書名となる『切羽』とは、”トンネル掘削の最先端箇所”のことを指す言葉なのだそうです。トンネル工事にたずさわる方でもない限り決して見ることのできないその現場。それは、トンネルを掘るという一大事業を進める中では一番大切な場所です。しかし、トンネルが完成してしまえばそんな風に定義される場所自体どこにもなくなってしまいます。
そんな『切羽』という文字を書名に関するこの作品。それは、人がいっ時抱くある感情の存在を思わせる描写が淡々と続く物語。いっ時が過ぎればそんな感情がこの世にあったこと自体消え去ってしまうことを感じる物語。そしてそれは、登場人物から消え去った感情が、読者の心の中にいつまでも余韻として残り続けるのを感じる物語です。
『明け方、夫に抱かれた』と、『私を眠らせたまま抱こうとする』夫の存在を『眠りの中で感じ』ているのは主人公の麻生セイ。そんなセイが『目を開けて、夫を見上げ』ると、『できあがった』『明日。一緒に見よう』と得意そうに夫の陽介は微笑みます。朝になり『小さな丘のてっぺんに建っている』という家の庭に出て『野蒜を抜いていると』、『見る?』と陽介が声をかけてきました。そして、『手を繫いでアトリエに向か』う二人。『かつて父の診察室』だったアトリエは『雨戸もカーテンもすでに開け広げられていて、明るい日差しがいっぱいに差し込んでい』ます。そこに、『百号の大きなキャンバス』に『海を描いた絵』が『日を浴びてい』ました。『これは、どこね?』と訊くセイに『俺たちの島たい』と答える陽介はセイ『の腰に腕をまわし』ました。『一日中でもそうしていたかった』ものの、『小学校の養護教諭』でもあるセイは『今日は卒業式だ』と出かけます。『小学校へ行くまでに私は丘を三つ越える』という丘の多い島に暮らすセイは、三つ目の丘の麓にある港で『港湾課の村崎さん』に声をかけられます。『人間より先に荷物が着いてしもうて』と言う村崎は東京からの荷物を見て、『家賃が格安』で、『本土から島へ渡ってくる人は、たいてい』入るという『岬住宅』に引っ越してくる人のことを話します。そして、再び歩き出したセイは『生徒は九人』という小学校へと着きました。『今日で、アキラとミドリはいなくなる』という別れの日。そんな日にピアノを弾くのは『何かと噂の的』になる『グラマーで、その上いつでも体にぴったり張りつく服を着てい』る月江先生。その横に『風貌のやさしい』校長先生と、『がっしりした山男タイプ』の教頭先生が並ぶ卒業式、そしてその後の懇親会も終わった中、月江が『季節はめぐっていくのよ』と話しかけてきました。『新入生?』と訊き返すと『新任教師。男。東京から』と答える月江に、朝の一件がピンときたセイは『もう会った?』と訊くと、『まだ何もしてないわ』と悪ぶって答える月江。そして、四月となり、『石和聡(いさわ さとし)といいます』という『歳は三十歳前後 ー 私より少し下かもしれない』、『背はさほど高くなく、少年のようにするりと瘦せている』という一人の音楽教師がセイの前に現れました。そして、そんな石和のことを強く意識しだすセイのそれからの一年が描かれていきます。
「切羽へ」という書名の意味と読み方がまず気になるこの作品は、2008年に第139回直木賞を受賞している井上荒野さんの代表作です。私は井上さんの作品を初めて読みましたが、美しい表現とともにゆったりと展開する物語の中に、独特な世界観が作り上げられているのにとても魅了されました。まずはそんな表現の数々を見てみたいと思います。
この作品の舞台は『かつて大きな産業が栄え、そして衰退した』という一つの島が舞台となっています。そんな島の豊かな自然を感じさせるのが、『蒸し暑い晩だった』という夜に『散歩ばせんね』と誘う夫と共に出かけたセイが見ることになる光景です。『植物ではなく、動物を思い起こさせる草の匂い』が立ちこめる屋外へと、陽介の後に着いて出たセイは『土手を越え、小川のほとりに下りる』陽介の後を追います。『どこへ行くとね』と訊いても教えてくれない夫を追うセイは、足元ばかり気にしていたことで『夫が見ているものに気がつ』きませんでした。そして、『わあ』と思わず声を上げるセイの前には『小川の向こうの林の中から川面にかけて、小さな光が幾つも浮遊してい』ました。『どがんね』と得意そうに言う陽介に『もう、こがん飛んどったとね』と返すセイ。そんな二人の前には蛍が『乱舞してい』ました。『どんぴしゃり、まっさかりやったね』と言う陽介に『いっそう呆然とした』セイは、『目の前の蛍の美しさにうたれ』ます。そして、『まっさかりの蛍を、私たちは毎年ちゃんと見てきたはずなのに、これほど美しい光景をはじめて見た気がする』と思うセイというこの場面。蛍を見ること自体が容易でなくなった現代において、小説中に蛍が登場すること自体なくなりつつあるように思います。私が読んできた小説の中にも、そんな描写をすぐに思い浮かべることはできません。そんな身には、清らかな水の存在があってこそ成り立つ、蛍が舞うという光景は読んでいてハッとするものがありました。そして、井上さんは、さらにこんな言葉を使ってその光景の素晴らしさを決定づけます。
『私は、蛍が雪のように舞い落ちているほうへ歩いていった』。
季節が真逆のまさかの雪に蛍を例えるこの絶妙な表現。そして、そんな中にスケッチブックを取り出して鉛筆を動かす陽介…と続くこの場面の美しさにはうっとりと魅せられるものがありました。
また、ハッとするような描写は自然だけではありません。セイが意識する石和に対してこんな表現が登場します。『石和聡はジーンズをはき、白いシャツを着ていた』という十月のある日の描写。『石和はずいぶん日に灼けている』と彼のことを見るセイ。そんな理由を『白いシャツのせいだろう。そのシャツはしわくちゃで、新品にはとても見えなかったが、奇妙に真っ白だった』と、セイが見る光景をそんな白いシャツと秋の空を絶妙に組み合わせてこんな風に表現します。
『初秋の濃い青色の空が、石和のかたちに切り取られていた』。
石和を意識するセイの感情を見事に絵にしたこれまた絶妙な表現だと思いました。
そんなこの作品は、東京から新任の音楽教師として島に赴任してきた石和聡のことを、主人公の麻生セイが強く意識の下に置いていく姿が全編に渡って描かれていきます。それは、作品に登場する『石和』という名前の数の多さが象徴しています。同じ言葉が繰り返し登場すると数えずにはいられなくなる さてさてとしては、”正”の字を書いてその登場回数を数えてみました。
・『石和』の登場回数: 365回
この作品は文庫で240ページ程度の作品です。にも関わらずこの登場回数はもう異常とも言えます。『石和は音楽の専任教師だった』、『石和聡は料理がとても上手だった』、そして『石和は希望してこの島へ来た』といったように『石和』、『石和』、『石和』と繰り返し登場するその名前に、読んでいてセイの石和への意識の強さがいやがおうにも伝わってきます。麻生陽介という夫がいて、その夫に決して不満な感情を示すそぶりが全く見えない中に、ただただ盲目的に石和を意識し続けるセイ。しかし、そんな作品を読んでいてふと不思議なことに気付きました。それは、石和を意識するセイの感情とはどのようなものなのだろう?というものです。夫がいるのに他の男性のことを思うのは一般的には不倫とされる感覚です。もちろん、この作品の中でセイが石和の体に溺れるような描写がなされていくわけではありませんが、これだけ他の男性を意識するシーンが登場するとそこには、恋愛感情の存在がどうしても想像されます。しかし、この作品には肝心のセイの石和に対する想いというものが全くと言っていいほどに描写されないことに気づきます。これは非常に不思議な感覚です。この作品は全編に渡って主人公である石和セイ視点で展開します。ということは、そこにセイの内面が描写されて然るべきとも言えます。しかし、描写されるのはセイが石和を見る、石和と共にある、そんなある意味淡々とした描写のみです。こんなに意識する存在であればそこには”好き”だとか、”愛する”といった表現が登場してもいいはずですが、こういった表現は一切登場しません。また、これは夫の陽介にも言えます。『もちろん、夫は帰ってきた。それも、予定よりも一日早く』という展開には、妻の何らかの異変を感じ取る夫・陽介の心情が伺い知れます。もちろん、セイ視点なので陽介の内心が表現されることはないとはいえ、二人の会話にはセイの異変を訝しむ表現さえ登場しません。登場人物たちが相手をどう思っているかを表す表現がほとんど登場せずに情景描写だけで進んでいくのがこの作品の特徴と言えると思います。そんな作品を読んでいると、ふと自分自身が、セイの心がそのシーン、そのシーンでどのようなものであるかを類推していることに気付きます。そんな私の類推が正しいかどうかはわかりません。何故なら私はセイではありませんし、そもそも書かれていないことでもあります。逆に言えば書かれていないからこそ、そんな心情を類推する感情が生まれてくるとも言えます。そう、この作品は登場人物の感情を敢えて書かないことによって、そこには読者の数だけ物語が存在する、そんな非常に大きな可能性を秘めた物語なのだと思いました。
『トンネルを掘っていくいちばん先を』指す『切羽』という言葉。『トンネルが繫がってしまえば、切羽はなくなってしまう』一方で『掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽』であるという事実。そんな『切羽』という言葉を書名に冠したこの作品では、穏やかな島の暮らしの中に現れた一人の男性を強く意識する一人の女性の姿が描かれていました。物語の背景に描かれる美しい島の自然と、ほのぼのとした小学校の日常が一年に渡って淡々と描かれるこの作品。読者の想像力に委ねるかのように、直接的な感情表現が抑えられた極めて落ち着きのあるこの作品。何か大きな出来事が起こるでもない平板な物語に、しっとりとした大人の小説とはこういう物語のことをいうのかもしれない、そんな風に感じた作品でした。
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映画『つやのよる』が面白くなかったため期待してなかったけど、この人の小説は多分、文章で感じるもので、映像にしたらつまらくなって当たり前なんだと分かった。
霧の中に隠された何かに引かれる感じ、そんなのは映像じゃ無理だもの。
ぼんやりした理解だけど、登場人物はみんな好き。特に主人公の夫、理想的。
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・
日々の暮らしの中で、
切羽詰まる、追い詰められ方は何度か味わっているけれど、ルーツは「切羽(きりは)」だとは知らなかったし、そもそも、切羽(きりは)」という言葉すら知らなかった。
・
山田詠美さんが解説。
・
抑制的で読者の想像に委ねている描写。
わたしは好き。
書かない言葉もあるという美しさもあると思うから。
・
淡い、大人の恋愛。
・
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激しいドロドロはなく、淡いのだけど妙にエロチックて、しかも濡れ場がないという不思議な本でした。島に赴任してきた独身教師にそこはかとなく惹かれていく主人公。夫の事は愛しているのに後ろめたい感情が時折頭をもたげるのであります。僕は性格的に夫側の性格なので、奥さん浮気したらいけませんよと念じながら読んでいました。
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主人公・麻生セイ、夫・陽介。セイが惹かれていく石和聡。官能的な視覚的表現はないものの、セイが心惹かれていく様子が描かれていて、むしろそこが妙にエロティック。同僚の奔放な月江と不倫相手の本土さん(結局最後まで名前は出てこなかった)、近所に住むしずかばあちゃんもいい。(ちょっと寂しいけど)
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つながらないことで、確かにつながっていた。
セイにとっては夫のほうが、石和にとっては月江のほうが、近くにいるはずなのに。
書かれていないふたりの空白にはどんな物語があったのだろう。
裏表紙の解説からどんななまめかしい話なのかと思っていたけれど、艶っぽく、瑞々しい反面、画家が描くグレーの色彩に覆われたような、静的なエロスを感じる良作でした。
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文章がきれいだなと読み始めてすぐ感じました。
これでもか!と書き込まれた文章ではないからか
素直に心に響く。
恋愛の始まりって、「あ、素敵」じゃなくて、
「何この人?」という反感に近いものだったりすること、
お互いが惹かれあったときは、言葉は要らないこと・・・
こういう話を自分も書きたかったのかも
しれないなぁ。
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荒野さんの文章が大好きなので引っかかるところも一切なくするすると読める。
物語としてはつかみどころがなく、一見して何事も起きてないような大人の世界が書かれてるイメージ。深く読めていないということなんだろうけど、主人公が教師に惹かれる理由が全くわからなかった。何回も読んだ方がよりよさがわかってくるのかもしれない。
Posted by ブクログ
大人だ〜と思った
なんだ何も起こらないなあなんて呑気に考えていたわたしはレベル3だ
大人だ〜と思う作品はたくさんあったけど、これはその中でも大人
何も見えない、何も見せない
濃密さはこうやって表現されるんだと気づいた
タイトル、端端ででてくるキーワード
ほんの少しの言葉で多くを感じさせる
こんな作家さんも素敵だし、こういう大人になりたいと思った
Posted by ブクログ
トンネルを掘っっていくいちばん先を切羽と言う。
日本の離島、作中の方言から九州方面でしょうか。
島出身の主人公のセイは、島内の小さな小学校で養護教員として生活している。夫は、幼児期島で暮らし本土へ渡った、画家。島の丘の上のセイの父親の残した診療所後で、豊かな自然と濃密な人間関係の中、穏やかな日常。そこへ新任教師の男性が本土から、転任してくる。偶然が二人を呼び寄せ、恋に落ちる様に出会ってしまう。セイは、夫を確実に愛していると同時にこの男性にどうしようもなく惹かれていく。彼からも確かにセイと気持ちを絡ませる刹那がある。
切羽に向かおうとした二人の情愛は、踏み留まる。
そんなこともあるだろうなあ、と思うけれど、謎めいた新任教師へ傾倒するほど、セイが渇望しているものが何かわかりにくい。
Posted by ブクログ
井上荒野さん初読。
なんだか不思議な小説だった。大人の小説。自分にはまだ早かったらしく「?」という感じで終わってしまった。
「トンネルを掘っていくいちばん先を切羽という。トンネルが繋がってしまえば切羽はなくなってしまうが、掘り続けている間はいつもいちばん先が切羽」
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閉鎖的な島で夫と暮らす「私」と、
島へ移住してきた男との心の揺れを
描く物語。
設定はいかにもだけど、
荒野さんの丁寧で緻密な文体と、
生命力溢れる島言葉が美しい。
そして何より、
「切羽」という場所に惹かれて読んだ。
タイトルを見て、切羽詰まる、の「せっぱ」かと思ったら違った。
「トンネルを掘っていくいちばん先」のことで「きりは」と読む。
「トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまう」
「掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」。
有って無いような場所。
先へ先へと求め続けるけれど、
いつかは無くなってしまう場所。
それ以上先へは進めない場所。
それとも、未来へ続く扉にもなる?
その切羽まで、「どんどん歩いて行くとたい」と夫に言い放った主人公の母親。その覚悟。
夫か、別の男か、どちらが切羽へ進む道なのだろう?
139回直木賞受賞作。
Posted by ブクログ
心が惹かれ合う2人の様子が描かれている。
一般的な恋愛によくあることは何も起こらない。
山田詠美さんの書評にもあったように、書かないことも大切にしている小説なので、状況や気持ちなど読者の理解に委ねている部分も多く、もどかしい気持ちになる。
直木賞といえばエンターテイメント性が高いものばかりだと思っていたが、この小説はいわゆる地味なものだった。
Posted by ブクログ
息苦しい話。町中(島中)知り合い、誰が誰の奥さんで、仕事は…住んでるところは…愛人は!…みんななんでも知っている。昔の自分の置かれた状況を思い出し、つらい気持ちになった。
こんな暮らしが合う人もいると思うけど、私はしたくない。
結局、何も変わらない。
Posted by ブクログ
田舎の島の言葉と東京の言葉の使い分け、はしばしの風景の描写から読み取れる隠喩、場所や会話の設定など、男女の仲の暗示が文学的にうまいなぁと思いました。閉塞感というか、新しいものにドキリとしてしまう感じ。切羽へ、この題名が素敵で切ない。じっくり読まなかったからだと思いますが、時々出てくる十字架の話がよく分からなかった。
道ならぬ恋、というか夫を(心理的にであっても)裏切る裏切られるタイプの話が好きではないから評価が低めだけど、小説としては良かったと思う。
Posted by ブクログ
(*01)
廃墟文学というジャンルはあるのだろうか。病院、映画館、廃坑などのモチーフがあって、離島というからそこでかろうじて生きている船や港や学校やマンションや、いくつかの棲みかまでが、いままさに廃れようとしているようにも感じられる。
主人公はこの廃墟であるが、プロンプターの様な女の視点や話題がこの廃墟に入ってくる。廃墟を体現した石和(イサワ)というのが廃墟からストレンジャー(*02)として出てくる。
それだけの物語であるが、絵の夫、性の老婆、痴話の同僚などのすったもんだが、この廃墟の場を回している。
(*02)
この道化は、幽霊の様に朧気で飄々でもある。この半存在がいくらかは物語をそれらしくしているように思う。
Posted by ブクログ
これの前に小学生が主人公の本を読んでいたらから、いきなりの大人な内容だな(笑)。
島の狭い人間関係と切なさがうまく混じりあっていてなんとも言えない雰囲気がある。
現在、田舎暮らし。
そういや、田舎暮らしも島ぐらしに近いものがあるように思う。昔から住んでる人とよそ者は区別しているし、周囲で起こったことはあっという間に広まるし。
近所は皆家族ってな感じ!?
隠し事なんてできそうもないもん。
そんな狭い世界で、島外から人がやってくるとか日常と違うことがあったら心がざわざわしそう。
石和の独特の雰囲気が余計にこちらの心も揺さぶってくるし……。
よくわからないって気になるものね〜。
Posted by ブクログ
繊細な文章から平穏な離島の暮らしが窺えた。
方言ものんびりとした雰囲気を醸し出しているし、登場する料理もとても美味しそう。
ヒロインは東京から赴任してきた石和に惹かれるのだけど、正直なところこの石和の良さがさっぱり判らない。
かえってご主人の陽介さんの方が好みなんだけど、恋に落ちるのに理屈はいらないということなのね……。
文章が抑え気味なので、どの程度の恋心なのか測りかねますが、精神的には夫を裏切ったわけで、精神的な裏切りと、心を伴わない肉体的な裏切りの場合、どちらの方が罪は重いのかなとふと思った。
Posted by ブクログ
淡々とした語り口ながら、もてますほどの感情を底に感じる、抑え気味の情熱小説。諦めを知った大人の心の物語。ごちゃごちゃとした記述はなく、そぎ落とされている。島ならではの生活の様子が鮮やかに描かれている。
Posted by ブクログ
切羽、「きりは」と読みます。
聞きなれない単語ですが、物語を進める内にキーワードとして登場。
都会と田舎、本土と島。母と娘。対比しながら人間模様を描いています。じっくりと軽く読むことができる大人の恋愛小説。
Posted by ブクログ
恋愛、不倫、そして生と死。普遍的なテーマを淡々としたリズムで描く。抑揚なし、メッセージも伝わらない。が一気読み。終わり方もなるほどね~。直木賞作品だが純文学な感じかなぁ
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初井上荒野さん。二人の男女の間に愛の言葉など、何もない。関係を変えてしまうような事件も、これといって何もない。ただ淡々と物語は進み、ひょっとしたらこの作品を「退屈」と呼ぶ人もいるかもしれない。しかし、豊穣な情愛の芳香が作品の隅々に残る。その香りにつられてページをめくる手が止まらなかった、かつてない作品。
切羽(きりは)という単語も初めて知りました。「トンネルを掘って行く一番先」のこととか。「つながればなくなる」という意味において切羽は二人の切なく儚い関係性を暗じているようにも思えましたし、生きる、とか、死ぬ、ということにも通ずるように思いました。
人がただ繰り返してきた、生と死。
Posted by ブクログ
喪失することが人生。
北の島。
養護教諭のセイは画家の夫をもつ。
新任教諭の石和にお互いに魅かれていく。
その先が切羽。トンネルを掘っていく一番先。
切羽へ。切羽へ。
そして、その切羽で石和は去る。
セイは夫の子を身ごもっていた。
欲しくて欲しくてたまらないけれど。
手には入らない。手には入れない。
そして喪っていく。
喪失こそが人生。
島という舞台が
その喪失感を象徴する。
この一節が印象的だ。
「彼らはすでに、石和を忘れる準備をはじめているようだった。
それは島の子供たち、あるいは島の人間が、
身のうちにこっそりと培っている方法なのかもしれない」
Posted by ブクログ
どうかな。
読み終わってじーんと何か残る作品では、
あるような気がするけれど、もう少し何かほしい、
何かが何かはわからないけれどそんな気がした。
題名とプロットとの綾の厚みでしょうか?
ちょっとさらりとしています。
そのあたりは、好みもあるでしょうが。
Posted by ブクログ
この前、夫の不倫を描いた本(夜明けの街で)を読んで、本をシェアしている嫁さんの前で何となく居心地悪かったのだけど、こちらは本の紹介によると「静かな島で、夫と穏やかで幸福な日々を送るセイの前に、ある日、一人の男が現れる。夫を深く愛していながら、どうしようもなく惹かれてゆくセイ」って妻の不倫を描いた本のようで、今度居心地の悪い思いをするのは君のほうだという感じで、手にする。
ところが、そういう邪な考えや或いは艶かしい描写への期待からすると全く肩透かしの、これは何とまあプラトニックな人への思いを描いた物語なことか。
私には懐かしい言葉で綴られる長崎県の島と思しき田舎の生活と人々。
狂おしいほどの激情の迸りも目くるめく恋愛の陶酔感も明け透けな愛憎の行き交いもなく、淡々と綴られる心理描写。
時折いきなり垣間見せる心の中の滓…。
今時こんなナイーブな男女の恋愛関係は無いよなというのが正直なところではあるけれど、精巧な文章での語り口は美しい。
満ち足りた生活を送っていても、夫婦の中ではお互いに入り込めない領域も必ず残っているもので、そう思った時に、セイを見守る陽介さんの、ひりひりするような胸の内が、何も描かれてはいないにも拘らず、私には強く印象付けられる。