【感想・ネタバレ】本当は分裂は避けられない!? 中国の歴史のレビュー

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Posted by ブクログ

タイトルは少し過激なものになっていますが、内容は「中国の通史」について、私がいままで何冊かお世話になってきている、八幡氏が書かれた本です。

彼の著作で、「本当は恐ろしい江戸時代」という本を読んで、今までとは異なった切り口で書かれていたのが印象的です。

現在の中国は共産党によって、拡大された後に70年間ほど統一されていますが、分裂を繰り返してきた事実を知ることによって、中国が分裂するとしたら、どのなるのかを予想するうえでも参考になった本でした。

以下は気になったポイントです。

・現在では、ミトコンドリア分析によって、北京原人(50万年前)は現生人類とは関係ないことが分かっている。中国人、欧米人もすべて、数万年前にアフリカからアラビア半島に渡ってきた集団の子孫(p16)

・日本の今上陛下は、神武天皇から数えて125代目だが、世代数でいうと、75世代目(p20)

・始皇帝は、楚・斉・燕・趙・魏・韓の六国を滅ぼして、三皇五帝の皇と帝をあわせて、皇帝と名乗った(p21)

・中国語の発音は、時代とともに大きく変わった。清朝の時代には支配層である満州人にとって発音しやすいように変化していくことを繰り返してきたことも原因。漢帝国時代のものが南北朝時代の南朝に引き継がれた「呉音」、唐時代の長安の発音である「漢音」、禅宗の僧侶などを通じて宋代以降の発音が鎌倉時代以降に輸入された「唐音」が混在している、朝廷は呉音の発音をやめるように命令を出したので漢音が多い(p30)

・中華民国の掲げた五族共和は、満州(黄)・漢(赤)・モンゴル(青)・ウィグル(白)・チベット人(黒)、戦前の満州国は、ウイグルとチベットを抜いて、日本人と朝鮮人を加えた(p34、225)

・大和朝廷を、本州中央部を支配する原日本国にまで発展させてのは、崇神天皇である、神武天皇ではない(p50)

・律令制において、始皇帝の制度の郡にあたるものを「国」とし、県にあたるものを「郡」とした。一方で、明治維新直後に、新政府で受け継いだ旧幕府の小さな領地群を地域ごとに府県としてまとめた。これを、府藩県三治制といい、廃藩置県直前には、3府40県261藩(p67)

・南朝では皇帝を菩薩扱いしたのに対して、北朝(北魏)は如来とした。(p108)

・北魏では外戚の強大化を避けるために、皇太子の生母は自害させるという習慣があった。(p116)

・百済や高句麗の遺民は、唐・日本・新羅にばらばらに移った。日本にも百済王が逃れてきて、中堅貴族として処遇された(p134)

・唐の滅亡をもって古代の日中交流は終わった、そのあとは平清盛の日宋貿易、足利時代の日明貿易など細いパイプのみとなり、正式の日中外交は明治維新を待つ必要があった(p138)

・五大十国時代は、中原を支配する5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)と、地方に樹立された10国(前蜀、後蜀、呉、南唐、荊南、呉越、びん、楚、南漢、北漢)が乱立した、北漢は山西省にあったが、ほかは長江流域や西域という意味(p140)

・清盛は、大和田泊(神戸港西部)を整備し、ここで後白河天皇が宋人を謁見したりした。福原(神戸市)を都として南宋の都である臨安と直接に向かいかけたが、鎌倉幕府の設立と、モンゴルによる金の制服で夢と消えた(p156)

・中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンなどは、チャガタイ・ハンが分裂してできた小国家がもとになっている。ロシアの歴史にはモンゴルの血が受け継がれている側面がある(p161)

・大元帝国は、大都(北京)から撤退した後も、中央アジアまで影響下に置く、モンゴル帝国(北元)として生き延びる。1636年に、満州族のヌルハチの後継者である、ホンタイジは、北元が持ち続けていた中国皇帝としての玉璽を手に入れ、満・漢・蒙三民族共通の皇帝であることを宣言した、これが大清帝国の成立となる、いまの中国はチンギスハンの作った国の後継者(p162)

・日本は銀の精製方法が遅れていたので、銀を含んだ銅の地金を明に輸出して、明は銀を取り出して銀貨、残りの銅を銅銭にして日本に輸出していた(p176)
・スペインが新大陸とヨーロッパの取引を独占したので、スペインの大船団をイギリスやフランスなどのカリブの海賊たちが襲って暴れまわっていました(p180)

・イギリスが東インド会社を設立したのは1600年、1613年には日本の平戸に商館を開いているが、活動の場はジャワ島であった。しかし、東アジアはオランダの天下で、その牙城を崩せず、1623年には日本からも撤退した。さらにモルッカ諸島で起きた「アンボイナ事件」でイギリスは致命的な打撃を受けて、それ以降はインドに重点を移した。オランダは台湾にも支配下(1624-62)に置いた(p215)

平成27年12月20日作成

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2015年12月20日

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