感情タグBEST3
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『だれかが迷ってくれて、足で歩いて道を作ってくれたから、僕ら迷わず歩いて行けるよ』
安吾、凄まじい。
よかった。
僕が迷うて苦悶してなにかを見つけらたり、なにも見つけられない道だと証明して、後の誰かの道になれば良いと思った。
大先輩に敬愛を捧ぐ。
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結構えげつない部分もあるはずなのに、そんなものは些末なことだと思わせるのが坂口安吾、という印象がある。
どこかしらに散りばめられた「戦争」にはいつも深く感じ入るのだが、『肝臓先生』はこれまでに読んできたものとは何か違った、一種の感動さえあった。
しかし、短いせいなのか、何度読んでも『私は海をだきしめていたい』が記憶に残らないのはなぜだろう。
「毎回新しい気持ちで読める」と言えば聞こえは良いけれど…
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「私はあなたから、人の子の罪の切なさを知りました。罪の持つ清純なものを教わりました。」――『ジロリの女』
私が安吾の文章を読んで、たまらなく悲しく、どうしようもなく切なく、そして苦しいほど何かに向かって声の限りに叫びたくなるのは、たぶん、安吾が優しくて潔癖で、強靭で狂人だからだろう。
「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門を目指して出かける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。」――『私は海をだきしめていたい』
安吾は自分の弱さを認めている。自分の無知さも認めている。そして彼は、自分の恥も認めている。
それがどれほど絶望的なことかを、安吾は知っているのだと思う。それでいて、いやそれなのに、彼は人間を信じている。人間である自分を信じている。それはもう、驚くくらい一途に信じているのだ。
私は安吾が好きかというと、よくわからない。
しかし、安吾を愛している。
こんなに潔癖で狂人で、強靭で優しい人がいたらと思うと怖い。でも、そんな彼を、とても愛しく思うのだ。
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同出版社の『白痴・二流の人』がかなり面白かったので購入。見事期待に応えてくれた一冊だった。
今回思ったのは、安吾特有の肉体が前景化される作品よりも、「魔の退屈」のようなエッセイや「肝臓先生」のような作品の方が僕は好きだ。もちろん、肉体・精神を描いた作品も好きだし、安吾の思想を知るためにはそっちを読まなければいけないのはわかっているけれども。
とにかく、安吾は面白い。好きな作家が増えて嬉しい。
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幾つか短編が入ってる中「私は海を抱きしめていたい」が特に好き。満足ができない人間の侘びしさと、女性の美しさの表現が素敵すぎて参りました。「魂の姿態」が美しいという惚け方は、なんかイイですよね。「ジロリの女」のラストも愚かで綺麗で好き。
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坂口安吾は無頼派と呼ばれているが、作品を読むと、ものすごく繊細な人だったのではないかと感じる。人の心の底を覗き込むような、読む人をドキリとさせるような。坂口安吾は、やっぱり面白い。
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流行性肝臓炎との闘いは、ある意味戦争との闘い。それでも患者と向き合い、そして戦争の犠牲となってこの世を去る。短編の中に偉大な人物像が凝縮されている。
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短編集。出始めは読み方が良く分からなく、読みのペースがつかめなかった。無頼派とのことだが、何が無頼なのか小説からは、分からないが、思い出せない漢字はひらがなのままでいいという、この当時の小説家ではあまり言いそうもないことが無頼派か。もっとも無頼派とは私生活のことであろう。表題は、ずいぶん前に映画で見たが、小説の方も正体不明の迫力が映画同様であり、読み返してしまった。
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とある田舎の猟師町。どんな患者も「肝臓病」と診たてたことから「肝臓先生」と呼ばれるようになった町医者は、肝臓病撲滅のために寝食をいとわず患者のために走りまわる。
タイトル、設定の面白さに加えて坂口安吾ときては読まずにいられない。さっそく読んでみたらやっぱり面白かった。
肝臓先生は熱い。お金のない人からはお金を取らず、どんな時でもどこにいても病気の人がいると聞けば駆けつける。風にも負けず雨にも負けず、常に歩いて疲れを知らぬ足そのものでなければならぬ。
こんなに熱く、正しく、力強く生きている男の悲劇を描いているというのに、そこかしこから漂う滑稽さは何なんだろう。褒められすぎると馬鹿にされていると思う感情に近いのかしら。
まだ誰もやった事のない正義の行動は、はたから見れば滑稽にみえるのかもしれないし、だからこそそういう行動をとるのは恥ずかしい。それをぶち破るのは実は宮沢賢治の詩ような、勝つ事よりも負けない事みたいな、持続性のある根性なのかも。
そういえば、宮沢賢治は雨降る夜に森の中で素っ裸になって叫んだりしたらしい。雨にも風にも負けない静かな根性は、はち切れるパッションと対極のように見えて実はくるっとまわって近い所にあるのかも。
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表題の肝臓先生はカッコいい医者の生き様だったけど後のは男女の話でした。
個人的に、その男女の話のほうがおもしろかった。
ジロリの女とかわけわからんけどなんか面白いとおもわされた。
この人の文体は好みやもしれません。
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14冊目。
表題作、他4編。『白痴』(新潮文庫)と収録作が2作被ります。
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私はもはや恋をすることができないのだ。あらゆる物が「タカの知れたもの」だということを知ってしまったからだった。
ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはいられなくなる。その遊びは、私にとっては、常に陳腐で、退屈だった。
満足もなく、後悔もなかった。(『私は海を抱きしめていたい』)
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こう書いておきながら、一方で女に
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然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。
私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思い出すのでございます。
自然があのように静かでさわやかであるように、人の心も静かでさわやかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと(中略)
けれども、私の願いなのです。夢なのです。(『ジロリの女』)
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こう自分の気持ちを仮託させる安吾が大好きです。
最後に、再読して響いた『私は海を〜』の不感症の女にどはまりしていく男性の一節を。
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肉慾の上にも、精神と工作した虚妄の影に絢どられていなければ、私はそれを憎まずにはいられない、私は最も好色であるからこそ、単純に肉欲的では有り得ないのだ。
私は女が肉体の満足を知らないということの中に、私自身のふるさとを見出していた。
満ちることの影だにない虚しさは、私の心をいつも洗ってくれるのだ。
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こんな好色男になりたいや。
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赤城風雨先生がある年の恩師の謝恩会での挨拶で「肝臓肥大蔓延説」を説くと次々に賛同する大先生たち。この場面はちょっとした爽やかな感動があります。
古い坂口安吾の作品の中に現代中南米文学の痴れ物ぶりを見て楽しめました。
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「真の退屈」「私は海をだきしめていたい」「行雲流水」良かった〜。この力の抜けた感じがたまらん。特に不感症の恋人の話「私は海〜」が最高だ。「ジロリの女」とかの女性関係のリアルな話は苦手。一番長かったけど。
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身体を売りながら逞しく生きる女を描いた「行雲流水」がお話としては一番わかりやすい。
表題作の「肝臓先生」は名医なのか藪医者なのかいまいち分からなったが、仁徳を慕われていたのは確かのようで、散り際も美しかった。
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魔の退屈
堕落論につながる思索的随筆。
私は海をだきしめていたい
珠玉。
しかし本書の中では浮いている。
やはり理想的な並びというもよがあるのた。
ジロリの女
ジロリタイプの女にマゴコロで尽くしものにしたいという男の小説。
ラストで俄かに罪と罰式の展開になるが、
もとは自意識過剰に悩まされた男の話と見るべきだろう。
行雲流水
女のお尻が行雲流水する。
憎んだ女の頭を坊主にする怨念。
これはコント。しょーもなー。
肝臓先生
モデルがいたのね。
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5編収録の短編集。これといって特に共通するテーマもなく、これといって特にオチもなく、全編主人公の男がうだうだ語るという体なんだけど、冒頭から読者を引き込む語り口の妙味が素晴らしい。ただし、表題作の「肝臓先生」だけは例外で、これはストーリィ、展開、オチ、キャラクタ全てが優れている。今でいう舞城王太郎を豊富とさせる突っ走り文体で語れる肝臓先生の虚実入り混じった(虚はないのか?)逸話は感涙むせび泣くこと必至というのはもちろん言い過ぎだ。伊東市に行ったら、肝臓石を探してみようと思う。それと「行雲流水」もアホらしくて好きだ。
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わかる部分とわからない部分、共感できる部分と共感できない部分が多い。また、俺はあまり文学作品を楽しめない人間だけれど、感じるところは多かった。
作中に多くあった男女についての考えは、強く印象に残った。自分のことを考えるなら。恋人との肉欲に溺れた経験がなく、ゆきずりみたいな経験しかない自分の歪みを自覚していた。けれど、坂口安吾を読むとそれを歪みと感じるのは、俺の勘違いなのかもと思う。普通の幸せを知らないことを、俺はひどく不幸だと思っているんだろう。
「その程度の差異で」と言われた気がする。人間の歪みとは何なのか、自分にとって重い、通常とされるものとの差異を歪みというのは、中二病の名残でしかないのではないのか。堕落論と併せて考えれば、どれ程差異があろうと、人間に人間を逸脱できるレベルで差異が出るというのは、無理なんではないだろうか。人を殺したとしても、それも人間特有、冷静でなくなり犯罪を行っても、それも人間。逸脱しようとして逸脱しても、それもまたひどく人間臭い。サイコパスも人間だろう。
嫌な奴はどこまでいっても、すげー嫌な奴にしかなれない。駄目な奴はどこまでいっても、すげー駄目な奴だ。そして堕落論ままだけれど、どこまでもは堕ちれない。関係ないけど、今の文壇と過去の文壇の状況は違うんだろうなぁと思った。今のも全く知らんけど。
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安吾なりの男の無骨さを書きたかったのだろう。正直僕は他の作品より評価は低いが、実際のおちゃらけ安吾より、きれいな男性像が出ている。赤城先生の人生に乾杯!
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堕落論が面白かったので古本屋で見つけて購入してみました。
面白いというよりは読んだ後不思議な読後感をもたらすというか。語り手の心情に同感するわけでもないのですが不思議と嫌悪感はない。面白い作家だなあ、と思ったです。
それにしてもタイトルがきれいですね。
「桜の森の満開の下」も綺麗なタイトルだなあ、と思いましたが「私は海をだきしめていたい」とか。
露悪的な表現も多いですがロマンティストだったのかな、なんて思いました。
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坂口安吾の代表作「堕落論」につながるネタと思われる戦時中の体験や思想などがわかりやすい文体で書かれていて興味深い。(「魔の退屈」)「堕落論」読後に再読するとさらに安吾の思想が解る気がする。
小編「私は海をだきしめていたい」)の冒頭が良い「私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった(後略)」
坂口安吾はずるくて弱い。しかし、そのずるさと弱さを隠さない正直さが、戦後の思想的に圧迫された若者達に圧倒的な支持を得たのだろう。
そして私も、「ずるくて弱い」と知りながら安吾の生き方に憧れてしまう一人です。