【感想・ネタバレ】畏るべき昭和天皇のレビュー

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Posted by ブクログ

本当に昭和天皇畏るべしであった。官僚や政治家や軍人よりはるかに物の見方・感じ方のレベルは超越していて、時々刻々の世界情勢を見据え、国家と国民と皇室の存続と「君臨すれども統治せず」というイギリス風の立憲君主制を貫こうとしていたことが判然とした。 2・26事件の決起将校たちや近衛文麿首相や杉山元・陸軍参謀総長に対する言葉には圧倒的な凄味を感じる。 結局、最後まで戦争に反対し続けたのは昭和天皇ひとりであったのではないのだろうか、という気がするのである。

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2012年02月29日

Posted by ブクログ

本書は昭和天皇についてのイメージを一新する著作である。とくに、「カゴの鳥」からの脱却の章が面白かった。この章は大正十年(1921)三月から半年かけて行われた皇太子時代にイギリス、フランスなど欧州視察旅行にまつわる話である。
 皇太子時代の昭和天皇に対してなされていた教育を「箱入り教育」として激しく批判したのは枢密顧問官の三浦梧楼(陸軍中将}であった。これに、元老の山縣有朋、松方正義、西園寺公望が応じた。時の首相の原敬も「今少しく政事及び人に接せらるる事等に御慣遊ばさるる必要あり」と語っている。
 大正8年(1919)5月7日、皇太子は18歳の成年式を迎えた。この後5月10日、霞ヶ関離宮で盛大な晩餐会が開かれた。枢密顧問官の三浦もこれに出席したが、皇太子はただ席についているだけで、何の話もせず、何かを話しかけられても、「殆ど御応答なき」状態だった。このありさまに三浦は怒ったのである。
 帝王学をほどこすためのマンツーマン方式による一方的教育のため、みずから話をすることもできず、人との「応答」というものがあまり出来ない状態になっていた。
 そこで、山縣は皇太子の外遊を熱心に勧めた。
 イギリスに到着する前まで、軍艦「香取」の船中で側近に言動やマナーについての「諫言」を受けている。こうして皇太子は変わりはじめる。公式晩餐会での堂々たる態度と演説だけでなく、他者との会話や対応に格別の変化を見せるようになる。そのなかで、人間的にも成長をする。「カゴの鳥」から英国風の「君臨すれども統治せず」という立憲君主への脱却をする。
 この話を読んで、私の中で少し違和感が生まれた。それはそれまでの昭和天皇像と少し違うからだ。当代随一の批評家の丸谷才一氏が「ゴシップ的日本語論」(文藝春秋、2004年)で言語能力のない天皇が戦争への一原因であったような書き方をしていたからだ。
 そうしたら、案の定、次の天皇の「私の心」―「富田メモ」の出現のところで、丸谷氏の批判が出てきた。
 ―丸谷氏が「昭和天皇が皇太子であったときに受けた教育に、重大な欠陥があった」というのは、そのとおりである。東宮御学問所での教育は、内容はきわめて程度の高いものだったが、一方的に講義をうけるだけのものだった。そのため、言語的な対話能力が養われず、「私」の意思を表明する機会も与えられなかった。しかし、丸谷もハーバート・ビックも鳥居民も、大正十年のイギリス・フランスなどへの外遊によって、皇太子が「私」の意思を明確にする存在へと変身したことを見逃している。

 これは丸谷氏も一本とられましたね。
 昭和天皇は2.26事件のときの断固たる決意や、日米開戦に対する不同意をいろいろ試みていること、戦後の神格化を否定した「人間宣言」に隠れた別の意思(明治の5箇条の御誓文に戻る)、満州某重大事件に対する怒り、A級戦犯合祀に対する明確な不快感など。天皇の断固たる決意を著者は「畏るべき」と表現している。
 
この本を読んで、昭和天皇の有名な「あっ、そう」という応答の深い意味もわかった。

 この本には三島由紀夫と正田美智子さんが見合いをしたことがあったこと、戦後すこししてからの文学少女雑誌「ソレイユ」の投稿欄でいつも張り合っていたのが正田美智子、中村メイコ、富岡多恵子の3人であったというエピソードも出てくる。世界的音楽指揮者の小沢征爾の父親の小沢開作のエピソードも出てくる。三男につけた名前の由来も出てくる。

戦時下、独自に情報を集めるため英語の短波放送を聴いていたエピソードも出てくる。

圧巻は「天皇の戦争責任「の章である。3回も首相を務めた近衛文麿は戦争責任は全て天皇にあり、自分は責任がないことを自殺前の「手記」に書いているが、これは天皇に専制君主の役割を求めて、実際の政治の責任を回避したものとの印象が強い。これは昭和16年の9月6日の御前会議における「帝国国策要綱」の策定、最後の近衛宅での和戦に関する「殆ど最後の会議」での、近衛首相の決断回避。実際は、海軍首脳は対米開戦を回避したかったのだが、それは口には絶対出来なかったので、「近衛一任」を申し出たのだった。海軍は対米戦に勝利する自信がなかったのだが、その責任を陸軍にあげつらわれ、その後の軍事費の削減を強いられるのを避けたかった。つまり、国益よりも海軍の「省益」が優先したのである。ここで、近衛は責任を回避し、陸軍に譲歩を迫れなかった。

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2011年02月28日

Posted by ブクログ

昭和天皇という人物が持っていた、強さや聡明さ、政治的合理性については、保坂正康氏の著作などで、既に知ってはいたのですが、本著では史料として残された多数の証言に基づき、昭和史の様々な場面で現れた、その類稀なる「畏るべき」パーソナリティが多面的に検証されます。

「近衛は弱いね」だとか、杉山参謀総長に対する「太平洋はなお広いではないか」だとか、印象的な発言に纏わるエピソードは多々ありますが、著者が何よりも強調しているのは、昭和天皇が日本という国家において唯一人、「私」を捨てた「公け」の存在であろうとし続けたこと。
敗戦後も、平成の時代の皇室が今まさにそうであるような「民主国家における象徴天皇」ではなく、あくまで「天皇制下の民主主義」に対する信念を有していたこと。
それはまさしく(絶対主義的な意味ではなく)日本国は「天皇の国家」であることに対する信念であった、と。

勿論、昭和天皇がそのような信念を本当に持っていたのかどうかを証明する術はなく、それもまた著者の松本健一氏の「信念」ではあるわけですが、確かにここで紹介される数々のエピソードを通してみると、そのような昭和天皇像が浮かび上がってくる。

昭和が終わって早や20年以上の時が過ぎました。
自分は実際には昭和天皇の最晩年10数年しか知らないわけですが、このような大きな存在が実在していた時代と、「それ以後」の断絶は、思っていたよりも深いものなのではないか、そんな気にさせられました。

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2019年01月06日

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