【感想・ネタバレ】自由とは何か 「自己責任論」から「理由なき殺人」までのレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

自由にまつわるジレンマから説き起こし「個人の自由」について相対化した見方を提示した本。

自由と一口にいってもいろいろある。
・自然権として自由と国家の存在を前提とした市民の自由
・共和国を前提とした普遍的自由と多文化社会を前提とした多元的自由

そもそも自由というのが自由な言葉なので、XXの自由といえば、様々なところで互いに対立が起きるのは当然なのだが、問題は、自由という名のもとに、自由が抱えている規範がおそろかになってしまうということだ。
・・・・

と最後まで読んで、自由が個人の選択の自由であることを認めたうえで、実は、その背後に価値の問題を二層想定することがポイントであるいうのが斬新であった。一つは、「共同体としての善」によって個人の選択が評価されるということ。もう一つは、共同体を超えて、さらに「義」とでもよぶほかない価値に自ら殉じるという次元があるということ。この二つが導入されることで、リベラリズムだけでは、納得感のある答えにたどり着けない問いに答えることができる。テロ、援助交際、無差別殺人、さらには、自殺する自由。自由が規範とセットであるなど初めからわかっていたような気がするし、それは、結局こうした基本条件のもとに何をするか、ということが大事だと思えば、当たり前のことなのだが、いつのまにか、手段の目的化が進んでいるというのは、皮肉な話だ。

0
2021年08月10日

Posted by ブクログ

リベラリズムの立場をわかりやすく整理した上で、現在、私たちが自由に倦怠している理由を探ろうとする。全体主義への反省から自由な状況で、何を目的として生きるのかを議論できない状況が、かえって自由の意義を見えにくいものにしているという論旨。本筋とは違うけど、ハイエクやフリードマン、ロールズ、アマルティアセン、ドゥオーキンの立場の説明がわかりやすかった。

0
2020年11月18日

Posted by ブクログ

執筆のきっかけを「(現代で掲げられる『自由』に対し、)あまりに違和感や不気味な感じを持たざるを得なかった」とし、その違和感の根源を「自由」への議論を通じて探った本。佐伯啓思2冊目。
冒頭、現代では人類共通の目標のように掲げられる「自由」に対して、イラク戦争を「フセイン政権からの解放(自由化/民主化)」とし正当化したアメリカを持ち出すことで疑問を提示する。
そこからリベラリズムの根幹である、何事も個人の自由を侵害すべきではないとする思想に対し、背景を探っていく。
君主による抑圧の時代において、自由は「抑圧からの解放」を目的とし推進されてきた。
概ね抑圧は去った現代でも、万人が理解しうるその背景を掲げたまま「自由」は推進され続けている。
目的を達するための手段であった「自由」は、いつの間にか目的になった。
ここに違和感の根源を指摘する。
自由主義の旗本において主観性を排除した市場競争は正当化されるが、しかしどんな政策であれ「誰が報酬を享受すべきか(『善』であるか?)」という道徳的判断が背景にあり、自由主義はその事実から目を背けていると批判する。
自由を唱えても、社会から是とする承認からは逃れられないだと。
自由は目的があって初めて論じられる概念で、目的として掲げてしまうと方向性を失った虚構となってしまう。
現代に跋扈する民主主義至上やフェミニズムは、この罠に陥っているのだろう。
その事実から目を背けるのは、欺瞞である。
「神は死んだ」と絶対的な存在を否定し、世界は人による仮構としたニヒリズムに陥ることは嘆かわしいことではない、しかし「自らがニヒリズムの世界に生きていることを自覚せず、自らの正義の絶対性を疑わない独善」は最悪のニヒリズムだと批判する。
軽率な「自由」の持つ違和感はまさにこれだろう。
批判はこの辺で、では自由に生きるには?という問いに対しては、どう存在するにせよ共同体に属することを自覚すること、その上で自分の成すべきこと(天命)を見つけること。
縛りがあって初めて輝きを持つ「自由」は、共同体の中でこと活きるとする。儒教の仁義と同じような思想。

個人の感想として、現代においては、国家よりも厳格ではなく小規模な共同体の「ポリス」を重要視し、ポリスの構成員として「善い」ことをすることを是としたアリストテレスの思想に立ち戻るのがいいのではないかと思った。
次は数ヶ月塩漬けにしてる「ニコマコス倫理学」を読もう…

0
2020年05月24日

Posted by ブクログ

 あとがきで、佐伯啓思氏ご自身が「本書で、うねうねとあぜ道を歩くかのように論じことを、もう少し体系的に論じたいと思うけれど…」と書いているように、読者の一人としては、自問自答の軌跡を歩かされた疲労感が半端ない

 佐伯啓思氏は、あぜ道と言っていますが、一人の読者としての感想としては(実際には残りのページ数が少なくなっているのに)体感的には、いつまでたっても頂上に近づいていないように見える登山のようでした(ワインディングロードという意味です)。

 …しかし、マイケル・J・サンデル教授の<正義>とは何か?という問いと同じように、答えのない(コンテキストによって変化せざるを得ない)課題に果敢に挑み、導き出した(現時点での)結論に向かって読者を誘うガイドとしての役割を果たしている。頂から見下ろす景色は、雲に阻まれ鮮明とは言えないけれども、達成感はありました。

 私が持っている数少ない政治哲学関係の本であるマイケル・J・サンデル教授関連の本を再読します。

0
2017年07月23日

Posted by ブクログ

バーリンによる積極的自由の排除という考え方に感銘を受けた。リベラリズムの4つの立場、すなわち1.市場中心主義=フリードマン、ハイエク≒リバタリアニズム 2.能力主義=プロ倫、ノージック 3.福祉主義=ロールズ 4.是正主義≒アフォーマティブアクション なる区分が先鋭というよりも理解の足がかりとして秀逸。白眉は第6章で、「自由」という観念にまつわる一種の胡散臭さや、矛盾をも抽出し、「義」や「価値」にまでの広げた論考は感動的ですらある。

0
2015年08月30日

Posted by ブクログ

 現代社会では自由が殊更に叫ばれながら、自由に対する渇望感がまったくない、というジレンマから論理が展開する。著者はリベラリズムに反対する訳ではないと言うが、明らかにリベラリズムに対する不信感が見て取れる。
 曰く、リベラリズムは自由を『個人の選択や趣向』に矮小化してしまうが、自由は本質的に社会的な問題である。自由は必然的に価値判断を伴うが、その価値は共同体に認められるものでなければならない。この説明で何故援助交際が非倫理的なのかが納得できた。『倫理的』の判断が時代や国によって違うことも。
 自由を題材に、啓蒙主義、功利主義、カント、バーリンなどの近代哲学を系統だって解説した好著。

0
2014年02月25日

Posted by ブクログ

とてもよかった。
実は1年前に読んでよくわからないという感想であったのだが、今ゆっくり読んでみるととても良いと感じた。

当時見られた身近なニュースをとりあげて、自由とは何か、また自由は何を前提として語られるものなのかを説明している。その上で著者なりのあるべき姿、とるべき態度(私の理解ではあいまいであるが)をゆるく主張している。

過去の哲学者の考え方をしばしば持ち出しており、興味深い考察も多い。
一読の価値がある一冊。難しいと思うので相手を選ぶが、胸を張って他人に勧められる。

0
2015年01月06日

Posted by ブクログ

▼私たちが求めている「自由」とは何か。いざ考えてみると内容もハッキリとしない。
▼それは「正義」とも関わりの深い概念なのかもしれない。だが、正しさは個々人の価値観からは自由になれない。そしてそれは相対的で、つまり、「悪」との境界線は限りなくあやふやである(そして、誰もが、その自覚の有無に関わらず「悪」を内包しているのだろう)。
▼相対的に全てが「正しく」自由だとすると、つまり、絶対的な「善」が登場してしまう。それこそ、ウェーバーの言う「神々の闘い」の状態であり、ハンチントンの「文明の衝突」さえ具現化されてしまいかねないだろう。
▼「自由」であること――そこから生じる「責任」とは、死者への「責任」である。私たちは偶然性の中で生きているのだ。自らの「死」までの時間をいかに生きるべきかを考える「自由」、そこには、偶然生まれた社会共同体のため、考え、中庸を選び取り続ける「責任」があるのかもしれない。

0
2011年08月27日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 今でこそ自明の理として扱われる「自由」について論じた本。思えば「自由」という言葉ほど頻繁に人の口の端に上るのに、それが何なのか論じられない言葉も少ない。

 「自由」を考える上での最大の難問は、ディレンマに陥りやすいこと。例えばアメリカが「イラクの文明化」を掲げて同国の自由のために干渉したことは「自由の強制」であると言える。「自由」を押し付けるのだから自己矛盾である。

 また、「○○への自由」という積極的自由を徹底的に追求すれば全体主義に、「◯◯からの自由」という消極的自由を追求すると、自己中心主義や排他主義に陥りがちである。○○に入るのは個人の情緒を反映した価値観であり、価値観の相対化を図るリベラリズム(自由主義)に基づいて考えると、何でもかんでも「どっちもどっち」になってしまい、自由の判断の妨げる。

 「自由」という概念は、近代ヨーロッパにおいて自由な個人が国家や社会に先立つものとして「発見」されたことに根差しています。そのため近代国家は国民の安全に対して当然に責任を持ち、権力を行使して自由な個人を支えるものと理解される。

 数年前にイラクで三邦人が人質となった事件があった際、「自己責任論」が人口に膾炙しましたが、著者は国家が「自己責任」を押し付けるのは国家が国民に対する責任を放棄したことに他ならず、そのことによって国民の自由を蹂躙することになると主張する。

 国家と個人との関係を考えれば、政治家や公務員が自己責任論を主張することは自らの責務を否定する自家撞着である。

 現代人は「自由への倦怠」に陥っているとされる。これは昔のように命懸けで抵抗すべき政治的抑圧や道徳的規範がなくなり、自由に対するイメージも稀薄化したことが発端である。

 現代のリベラリズムは「多様性を保証するための平等な権利としての自由」を中心としているが、それでも自由への倦怠は止まらない。寛容と多元性を志向するはずの自由というものは、飲めば飲むほど喉を渇かす塩水のように、求めれば求めるほど不寛容と一元性へと収斂していく。

 そのような自由のパラドックスをどのように克服すればいいのか。著者はそれを多様な「義」を承認することであると主張する。アメリカ軍もイスラーム過激派も自らの「大義」を唯一絶対と考える独善性を孕んでいる。

 そのため両者の調停をするには、互いの「義」を承認しないわけにはいかない。自分の確信も相対的なものの一つに過ぎないことを自覚することが多元性につながる。リベラリズムもその例外ではない。

 「自由」の起源やリベラリズムの抱える矛盾や難問について考える上で必読の書。自由が尊いのは言うまでもないが、それよりも寛容さや多元性を尊重したいと改めて思った。

0
2011年06月05日

Posted by ブクログ

卒制のテーマを絞ることができたきっかけの本。

現在のリベラリズムは自由を手段ではなく目的としてしまっている。これが、自由に対して私たちが希望を持てない理由だ。

0
2009年10月23日

Posted by ブクログ

自由とは何か。責任とは何か。
イラク人質事件などの話をもとに「自由」「責任」「国家」などについて考察。

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

非常に考えさせられる本であった。現代において「自由」という言葉の意味はまさに混迷している。例えば、リベラリズムという言葉も新市場主義から社会福祉主義まで意味するところは様々である。また、自由はどこまで認められるべきか。女子高生による売春も「自由」なのか。他国に「自由」を強制できるのか。
筆者は自由の背後にあるもの=価値観を強調する。そしてその点を無視したところに現代における自由の混迷がある、とする。特に現代では「個人の選択の自由」という局面ー重要な自由の一側面であるにしてもーに矮小化されがちである。結局筆者は、衝突の場面において社会の価値観を自己反省・自己相対化せざるを得ない、として歴史の判断の問題にある意味「丸投げ」している。とはいえ、現代における答えとして、社会としての特定の価値観を示さざるを得ないように思われる。現代的自由には多くの問題・混迷がありつつも、そのような議論をまさしく現代的自由が可能にしていることは忘れてはならない。

0
2015年06月04日

Posted by ブクログ

現代のリベラリズムへの批判。
後半の抽象的な論理展開は、他の哲学者でもできるので、是非具体とのリンクを保ちながら論じ続けて欲しかった。
ただ、前半部分については、具体的な視点から論を進めていて、何を問題意識としているのかが分かりやすかった。

0
2015年05月07日

Posted by ブクログ

佐伯先生の講義である。
様々な社会に対して、鋭く闊達な議論を投げかける筆者が、真っ向から「自由」を論じた本書。過去から現在にわたる「自由」に対する定義と議論をまとめた、哲学・思想の解説。
新書にしておくのはもったいない品格のある講義だ。

0
2012年09月04日

Posted by ブクログ

読みやすく、明快な文章だったが、同著で引用されている哲学者の著書を読むことで、より理解が進むと思われる。

0
2012年07月12日

Posted by ブクログ

アリストテレスから、カント、ロールズ、ミル、バーリン、ベンサム、ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、サンデルまで古今の哲学者を引き合いにだし自由とはどのように考えられてきたのか述べている。サンデルの『正義とは何か』を自由という視点から考えていると言っても良いかも知れない。

自分の理解の及ぶ範囲で要約してみる。
現代では「何故人を殺してはしけないか」「何故援交をしてはいけないか」といった問いに明確に答えられなくなっている。個人の選択の自由と言ってしまえばそれまでだからだ。
その価値観の基礎にあるのは個人主義、主観主義、相対主義を前提とするリベラリズム(自由主義)である。何を善いと思うかは個人の主観であり、それらに優劣を決めることは出来ない。ならば個人の自由な選択を保証し、平等な権利として認めることがリベラリズムの基本である。
しかし、著者はこうした「個人の選択の自由」を普遍的な権利として推し進めるリベラリズムの風潮(アメリカの掲げる正義は主にこれに由来する)に懐疑する。
自由とは本来何かを行うための手段であるからだ。しかしすべての価値が相対的となり、共通の目的を持ち得ない現代では手段である自由それ自体が目的化してしまう。それはニヒリズムの最悪の形態である。
個人は生まれ出た共同体とは独立に存在する普遍的な存在(負荷なき自己)ではなく、ある共同体に埋め込まれ時代、国家、家、性、人種などの属性を持つ「状況づけられた自己」である。
古代ギリシャではポリスにおいて徳を発揮しポリスに貢献し評価されることが善く生きることでもあった。
また著者は人が時として生命よりも優先させるものとして「義」を挙げた。赤穂浪士の討ち入りやソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』などは共同体や時代を超えた義によって動かされていたのだと言う。(主人への忠誠、家族への愛以外にも様々な形の義があり明確に定義できるものではないとも述べている)
著者の結論は自由は多層的に論じるべきでありそれは①個人の選択の自由だけでなく、②共同体を想定した「社会の是認、他者からの評価」③義に叶うという3つの次元であるという。
そして価値相対主義によってニヒリズムに陥るのではなく、多様な義を認め多元性を容認する方向へ向かうことが重要だとしている。

0
2011年11月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自由という価値を無条件にまつり立てることに対して警鐘を鳴らすこの本は、タイトルの通り「自由とは何か」考えるきっかけを与えてくれます。全6章からなりますが、どの章も内容が濃縮されていて、読みごたえがあります。

著者は、自由を盲目的に礼讃することへと至ってしまう理由として、善い生を営むための自由という手段が目的化されてしまうことを挙げています…まさにこれは、現代社会における自由を再認識する上で基本的なことではありますがとても重要な問題でしょう。
個人的には、人生における失敗やうまくいかないことの合理化がこの手段の目的化を引き起こしてしまうのではないだろうか…と読みながら考えていました。よく言われることですが、ゲームのようなバーチャル世界とは違い、われわれの人生には「リセット」ができません。なので、選択を誤ってしまい後悔することも、何かをやる上で失敗してしまい他人に迷惑をかけたり非難されたりすることもあるわけです。このとき、しばしばこのことを引き受けきれず、そのプレッシャーから逃れようと目を背けたり開き直ったりします。「自由だから云々」と言い訳をして。しかし、本当に善い、幸福な人生を送るためには、そのことと真摯に向き合い応答することなのかもしれません。

…なんて、口では何とも言えますが…そういうことを考えさせらる良書でした。


一つ引っかかったのは、第6章での「義」や「犠牲」についての話です。もうすこしいろいろな視点からの意見が知りたかったです。

0
2011年02月25日

Posted by ブクログ

[ 内容 ]
「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?
イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。

[ 目次 ]
第1章 ディレンマに陥る「自由」
第2章 「なぜ人を殺してはならないのか」という問い
第3章 ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」
第4章 援助こうさいと現代リベラリズム
第5章 リベラリズムの語られない前提
第6章 「自由」と「義」

[ POP ]


[ おすすめ度 ]

☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)

[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

0
2010年05月28日

Posted by ブクログ

「今、あなたは自由ですか?」と聞いたら、多くの人が「多少のしがらみはあるものの、概ね自由だ」と答えるだろう。この本のような「自由」とは何かを論ずる本は巷に溢れているが、どれもいま一つリアリティを持って立ち現れていない。それは恐らく、筆者の言う消極的自由という概念がいまいち認識されにくいからではないかと思う。結局のところ、公共空間での話を個人レベルにまで落とそうとするから無理が生じるのだと思うのだが。でかい枠組みで捉える分には構わないが、それをどこまで敷衍できるかというと、疑問

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

自由主義の4つの形、市場中心主義・能力主義・福祉主義・是正主義がそれぞれに持つ善の構想、そしてそれらが相入れないこと、リベラリズム的自由と近代的個人観などの考察はこれまで漠然と疑問に思っていたことを説明してくれているようで、とても鮮やかだ。ただし、自由主義が相対主義に帰結してしまい、それぞれの価値観は対立してしまうことを逃れられないことについての解決策が、漠然としなかった。最後には義という概念を持ち出し、共同体における犠牲を受け入れる。偶然性を引き受けるという形に結論しているが、格差の問題をどう考えるのか、その辺の疑問が全く語られずに終わったことが残念である。

0
2019年03月06日

Posted by ブクログ

自由とは何かを考える時、どうして人を殺してはいけないのかという問いに行き着く。このテーマをタイトルにした著書(小浜逸郎氏の著作で、対象読者は佐伯先生より若齢か)も読んだが答えはない。偶々、この著書でも取り上げられた少年Aの絶歌を読む機会があったので、その時に、やはり思考の整理をしておこうと思った。つまり、人を殺してはいけないとする命題に捉われず、人がしてはいけない行為全般を考るというアプローチを取ろうと考えたのだ。かつ、殺人の場合は、そこに死の不可逆性が加わる。レイプや盗難、単純な厭がらせだって、人はしてはいけないのだ。私の理解では、これらはある種の双務事項に過ぎず、結果の不可逆性は罰の程度考慮要素に過ぎぬというもの。双務が成立しえない、人間に限りなく近いが人間ではない存在(脳死をどう扱うという課題はこの線引きの議論)には適用されないからだ。寧ろ、原始社会では存在しない場合もある命題であり、ただの後付けの命題なのでは、というものであった。本著では、功利性、つまり、これら禁止を破った時に被る損失の説明を試みた後、カントの定言命法に行き着く。定言命法とは、道徳法則は無条件で絶対。ダメなものはダメ!という事だ。人間として生きる以上、理性を課した状態であらねばならない。理性が人間の定義となれば、自ず、定言命法の範疇となる事項というわけだ。カントを思考の起点にすれば、そうなるのだろうか。但し、定言命法なんてものは、禁忌の歴史さえ顧みぬ、衒学的な思考停止に過ぎまい。

また、自由を論じる際に高確率で出てくるのが殺人議論と共に、援助交際の問題である。これは、他人の権利侵害という観点で課題にし易い。本著でも取り上げている。しかし、テーマ選定が複雑で、もしかすると誤っている。単に売春とした方が良いのではないか。未成年である事と身体を商品化する事がダブったテーマになっている。無論、未成年であり、親から金銭を与えられている以上、そこには金銭を媒介としたルールがあり、売春に限らず不自由な項目はあるべきだからだ。金銭を媒介としなければ、良いか?否、投資家に対しての配慮は必要なのである。

嫌な書き方をするが、自由論を論じれば、結局は強制された自己の解放といった議論に帰着する。その際、一個人を全能とするような議論は成立しないため、透明な自己の実現がテーマとなる。しかし、生まれながらの不平等を是正するような透明な自己さえも、運命論を超越し究極的平等を目指した、ゆえに成立し得ないユートピア思想だろう。従い、自由論には、哲学的変遷が綴られるばかりで、主張がないのだ。但し言える事は、社会システム上は、与件による機会の差も認めることで、下層淘汰される機構であるべきという事だ。それを踏まえて、擬似的な自由論に生きるべきという事である。意図の有無に関わらず中間層以下を騙さねばならない、いや、気づいたものから脱却していく構図である。

0
2016年10月07日

Posted by ブクログ

サンデル、正義の話と主張が重なって見える。理論、論説の語り口も同じように見えるので、サンデル教授に軍配を上げる。3段階の論理はこびがスムーズ。例が良く分かり、複数上げられていた。
最後に収束するところ、サンデルは倫理、徳であったが、本書は義である。
日本と西洋の違いか?宗教の違いだろう。
キリスト教vs東洋儒教
自由を語るときには、対になる何かを明確に規定がありそうだ。
イラクの人質事件と「自己責任論」、自己責任とは、あいまいなことばである。自由があっての責任と捉えられているが、本当にそうか?

0
2012年09月22日

Posted by ブクログ

アポリア>解決しがたい哲学的難問

積極的自由の実現は、ある種の全体主義を目指すという帰結を導きかねない

個人が多様なものの中から「主体的」に選択するという現代の自由を、バーリンは「自由の重荷」といった。主体や選択や多様性は、ある限度を超えるとむしろ個人にとっては「重荷」になってしまう。

0
2011年07月01日

Posted by ブクログ

自由というものについて知ろうと本書を読み返した。

自由というものは、「義」を求めて不断の努力を続けるためのただ単なる手段であることを教えていただいた。

佐伯先生の深き思考に感謝!

0
2010年09月13日

Posted by ブクログ

啓蒙的
価値観フリーな社会制度などありえないと主張
個人主義の相対化を志向
「自由は「善」に依存している」
抽象的に抽出された理論的な個人ではなく、再び経験的な個人に戻る必要がある
自由は手段であって目的ではない

共有できない主張
善と義の違いがイマイチわからない、同じことを言い換えただけでは
徳的という言葉を定義不明確のまま使っている
「犠牲の状況」(誰かを犠牲にしないと全員死ぬ)ではじゃんけんしては
価値観を主張した文章で「われわれ」という言葉を使われると戸惑う、いや君とはちがう考えなんですけどみたいな
現実から出発しろというが、自己への評価が一枚岩でないという現実についてはどう考えているのか
I was born的にこの世に生まれた人間に対して、死者に対して責任を負っていると言われても困るのでは
→責任から逃れるためには死ぬしかないが、それは「善」と反するから認められなくなる
→生きていることに感謝している「幸せな」人間しか共有できない
なすべき使命は社会的与件によって与えられるべきではなく、自己によって与えるべき(それがたまたま社会的なものと一致することはありうる)

0
2009年10月04日

Posted by ブクログ

 自由という言葉は、私個人にとっては、どちらかというと嫌いな言葉である。
 
 過度に自由が抑圧されているという事であれば、自由に価値を見出すのは理解はできる。しかし、そうではないということなら奇妙な感じがする。それは思うに、自由以外に価値を感じる事ができなくなったのではないか、などと私は勘ぐってしまう。
 
 佐伯氏はイラク人質事件の事を引き合いに出し、自己責任について語る。そしてその事件から、その個人の自由は政府、国家によって支えているということになる、と述べる。
 
 どういうことかと私なりに説明すると、たとえ個人の自由意志だからといって異国の地に銃弾が飛び交う危険地帯に侵入しても、それを自己責任だからという理由だけで国家が放置してはならないという道義的な理由が生じる、という事だ。
 
 「自己責任」といっても、必ずしも「自己のみ責任」にとどまるというわけでは無いわけだ。自己責任といっても、とある何かに波及していく。
 
 自由によって秩序が支えられている面もあるのだろう。だが、一方では自由によって秩序が脅かされる一面もありうる。そのように考えれば、個人に自由をどこまでも委ねる事はできないであろう。
 
 ホッブズは契約論において、自然状態において人間は無制約に自由であり、社会状態では人間は権力に服する限りで自由な活動ができる。そのような事を言ったのだという。
 
 だがこの場合はどうなるかといえば、人間は私的利益を求め、公的事項に携わらなくなる。だからそれでは、個人の自由による弊害が生じ、「国家の論理」と「個人の論理」の対立が生じる。そうならないために、佐伯氏は「公のために何かしなければならない、というエートスがどうしても必要となる」のだという。
 
 本書は「自由とは何か」と題される。自由というものを考える上で、参考になる本だと思う。

0
2009年10月04日

「社会・政治」ランキング