【感想・ネタバレ】アートの根っこ――想像・妄想・創造・捏造を社会へ放つのレビュー

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Posted by ブクログ

◎以下引用

幸運を信じるとは、自身が生み出した私の意味が世界と確かにつながっているという強い信念である

小関が信頼を寄せるのも、社会の専門家システムではなく、世界と私のつながりに対してだ。

★小関の労働は社会からの要請に応えるものではなく、世界の問いかけに応えるものである

確かに社会的な要請がきっかけであったかもしれない、しかしいつの間にか、その問題は小関にとって何よりも重要な問いかけとなり、金銭的対価とは別の意味を持つようになる。あたかもこの問題に挑戦することが、世界の大いなる神秘を解き明かすことにつながるような、誰も足を踏み入れたことがない大地へ冒険家が挑むような、そんな感覚を抱くようになる

冒険家が進み、芸術家が歩むのは、世界と私が未だ分かたれていない領野においてだ。

★労働とは、冒険家や芸術家のように、世界の中に私という意味を創出することだ、この意味は、世界の中の自分だけの領域となる。この領域は2つあった。世界の問いかけに応じて現れる<私>=世界の領域と、社会の要請に応じて現れるアイデンティティー=社会の領域である。

★社会から必要とされ、社会に居場所が見つけられたとしても、世界の問いかけに応じることがなければ、世界に居場所を失うことになる。ただしこれは二者択一の問題ではない。社会の要請の中に世界からの問いかけの声を聴くことは可能だ。だがそれは容易ではない。

★★我々は社会から必要とされることを、あまりに強く望んでいる。そして社会的なつながりや社会的承認を失うことを恐れる。まるで恐怖症のように、近年、ますます注目を集めるようになった社会的包摂(ソーシャルインクルージョン)は、この恐怖の裏返しなのかもしれない。かつてと比べると社会に居場所を見つけることは比較的容易になったと思える。それでは世界の居場所はどうか。私はどこに生きているのだろうか。

→★ここで言われている社会的包摂というのは、ある種、言語的に、社会にいれてもらうということなのかなと思った。つまり、あくまでも相対的な分類の中で、それを区別した上で、名前がそこに与えられ、社会に入れてもらえるというイメージ。だから、社会的包摂によって仮に社会に入れたとしても、その認知のされ方というのは、ある種カテゴリー的というか、ある固定的な言語的な枠組みの中での整理や認知にすぎないわけで、まったく個別性というものに配慮がされない形でのそれとなる。つまり、『世界』においてつながるのではなく、あくまで社会の中での、相対的な区分の中で、あらかじめ分裂した上で、記号的にかかわりを強いられるということ。だから、ある種、記号的(例えばマイノリティという名づけによって)に、社会に居場所ができたとしても、それがそのまま、その人が社会において世界を生きられているということにはならない。本当の包摂は、あくまでも個別の世界と個別の世界における、出会いとしてあるのだと思うし、世界と応答していくことの中に、社会が育まれ、居場所が感じ取れるようになっていくという順序が健全なのではないか。


記憶というものは、すごく曖昧な頭の中にデータとして残っているものが記憶というよりも、記憶が浮かび出てきたときに、記憶になるみたいな感じで、本人は気がつかないものなんだけれど、何かの時に浮かび上がってきて、確認すると記憶になるから、上書きされてても本人は分からないような気がするし、そういうものを共有して社会は成立しているんじゃないか

社会の記憶というのも、永遠不変に変わらないわけではなく、可変的というか、流動的。記憶が何かというよりも、記憶が人に与える何かというか。それはおそらくある種のリアリティー、リアルな感じを触発するものが記憶なのかなと思ったりするんです、、、、そのリアルさが引き立つと、人と人とのつながりいも生まれていきます。信頼やいろいろなものです。

ひょっとしたら嘘かもしれない、でもそういう確信、リアルな生き生きとした感じというか、そういうものを自分の中に浮かび上がられてくる力になるものが記憶

日本の祭りは、ほとんどどんなにさかのぼれても近世まで。でもそれをやっている人たちは、いや、これは昔からあるんだみたいなことを言う

いわゆる不可触民も、記憶をつくるんですよね、自分たちが何でこんな理不尽な被差別の状況にあるんだということを、記憶を使うことで、違う歴史をつくろうとする。

人類学は具体から見て、不変に至ろうとする学問。でもそれは何回も何回も言ったり来たりする。

初めから普遍の話になる、いきなり色、形、それで何ができるかとか、そういう話になる、それが変だなと

自分がどういうふうにそうなるのかみたいなことが分からなかった、よく分からないけれど、でも作品にしてみる、その繰り返し

アートは、たまたまそこに造形的というか表現が関わってアートになっていくわけだけれど、神話もそうだし、呪術もそうだし、学術的な研究も表現と言えば表現ですよね。地域を探っていくと、より具体的なものが出てきます。具体的なものは、みんな個別で違いますよね。そういうところに気がつくのが面白いです。

彼らに対して、具体的にこいつらと戦わなきゃとか、どういう感じじゃない。群馬では展示できないけど、鳥取ではできたし

制度的なところで争ったり、政治的なところで争うよりも、アートの根本の価値観の根っこの部分で表現して、その上に積みあがっている制度みたいなところでの争いには、そこまで積極的に関わらない。

★おまえなんで何もやらないんだ、何でひとこと言わないんだと言われたでも、表現の自由を獲得するというか、そういう戦いも必要なのかもしれないけれど、でも自分の知っているところで展示をすれば、展示できるし、それをつくるなと言われているわけではないですよね。
→★言い換えると、あくまで声が響いているこが大事で、その声が、社会的包括されたり、制度的にカテゴライズされたりすることに興味がいっていないということかな。社会(既存の制度)の中に居場所を作ろうとしているんじゃなくて、あくまでまずは声を響かせる、そのうえでそこに社会的なものができていくという、そういうところでやっているのだと思われる。

空中戦のような権利とかそっちで争うのも、それはそれで大事だけれど、そっちじゃない方法もあるんじゃないかというのは感じている。

社会を変えるというより、アート作品というのは、一つの記憶だと思うんですよね。物質化された、あるいは踊りもそうだろうけど、ある時間、空間の中で物質化された記憶。彫刻も絵画もそういう記憶で、それを展示してそれを他の人たちは共有できて、一つの違う記憶をまた上書きするというか、共有できる。あるいは、そこからまたその人なりの記憶をとっていってもらえるようなものとして出しているのが、アートとか芸術。だから、社会を変えるかどうかは分からないけど、一つの記憶を差し出すというか。こんな記憶があるよみたいな。

彫刻や石碑などはひとつの公的な記憶に代わるものです、そういう目印、あるいはそのものじゃないにしても、それがあることで、それをきっかけに思い出させる一つの装置になる。そういうものとしてモニュメントや彫刻があったりする

それをどういう風に捉えるか、誰がそれを必要としているかは、場所や出来事の解釈についてのせめぎあいがある。

これらのイメージは、私たちの社会においてよくある、常識的な、好まれる、語り口。一方で、誰にも読まれず、じっとひっそりと書架の片隅にあり続けるテキストが無数にある

そうしたものを読んでいると、この地に関する記述の驚くべき多様性に気づかされる

多様性に眼を向けたいと思っている、近代的な規範や常識において切り捨てられ、忘れ去られた言葉を再評価し、そこに光をあてる必要がある。そこにはおそらく、現在の社会を俯瞰し、批判的にみる視点が存在する、そこにはきっとすでにこれからの社会を構想する重要な視点がある


どの場所に行っても感じるが、場所は根源的に静かである。そこではすべてが過去であり、過ぎ去っている。こに場所で悩み、心を動かし、生き抜いた人がいたのだということ。この場所に、様々な人がいて、無数の感情の発露があり、いろいろなことを考え、漢字、生きていたのだということ、それはこの場所に存在した人の数だけあるのだということ。実際にテキストを通して、その声をひとうひとつ聞くなかで、間違いなく死者の声を聴いている。それは聞かれなかった声である

精神病棟は、法律に基づいて医療としてやっていますが、オウムとどう違うんだろうと、、、

科学者が専門知識を使って嘘を言った

精神病院が収容を目的とし、治療と称して人権侵害がまかり通る

★その場が、包まれている感じがしました。作品が放つものが、人に伝わって、それがこちらにかえってきて、自分が楽になったというか、すごく強かった孤独感が急速に小さくなったんです、包摂という言葉で思い浮かぶのは、この時の私の体験です。


長野県の山の生まれ、小中高と、残念ながら包摂がなかった

こころの内側にイメージが定着することを内在といいますが、彼のノン域、物腰が私の心に内在しています

包摂のエッセンスは、聴くことにある

中学、高校などで包摂されなかった理由は、私自身が私を理解して伝える働きの言葉を母語として学び、使う機会を持てなかったから。私は使えない日本語を学んでいた

その秘密を避ける言葉ばかりが育って、秘密を語る言葉が育たない。私はそういう言葉に囲まれていた。

なれあいや親しみを重んじて、気を使って黙り込み、うやむやにしてことをすませて論理を生み出さない、そういう日本語ではなかった。

pp。131
タブーにひるまない日本語、包摂のためにはこういう言葉が欠かせないと思います。国家や社会におって、国家や社会がタブーとしている不都合な過去や事実にまっすぐ光をあてる、そういう言葉がアートです。それがあって、表に出せないで抱えている思いを外に出せる、いろんな事情でそこに身を寄せている人たちを包摂する根拠地になれる

預かったモノの重さによって、私はそれまでの私ではなくなります。重さに影響されて良い方にかわる場合もあれば、悪い方に影響される場合もある。以前の私ではいられなくなる。それmでやらなかったことを治療で試み、それがうまくいって回復につながったりする。試行錯誤の末にそこにたどり着くこともある。そのようにして、医師としての力量が上がる。成長するわけです。とすると、患者さんが、私に手渡されたものの重みが、私を包摂して育て、それが治療に注がれるという動きが働いているんです。

包摂する側を精密に観察すると、実は包摂されているという状況が見えてくる。

この重さは、移行主体とか、間主観性という言葉で議論されていた時期もあるが、今はすっかり廃れてしまった。

精神病院は、最初、隔離収容所としてつくられた。

アートというのは、芸であり、術であり、技ですが、その芸なり、術なり、を一回の共感のために使う。その一回の共感のために惜しみなく、労力が注がれ、包摂にはそういうアートが必要

それまでは、物事をきめるのは医師や看護師だったが、本人が決めることになる、とは言え本人が一人で決める、自己決定するというのではなく、本人の周囲にきづかれているいろいろな関係性の中で一緒に決めていくわけです。そこでは治療して、社会復帰させるというのではなく、さまざまに異なった個々の生を医師やソーシャルワーカーを含むチームでサポートする。ただし地域精神保健サービスの中に囲い込むのではなく、その外の、既に地域にあるものとか、新たに作り出すいろいろな活動に接続して、相互浸透させてゆく

スタッフは医師や看護師といった専門のほかに、もう一つのメタ専門のようなものが必要になります。それは、この問題については、こことつなげればいいんじゃないかといった具合に、媒介者、つなぐ人としての役割、そのためにはスタッフも地域のことをいろいろ知っていないとできないわけです。

包摂と社会的包摂の違い。社会的包摂は排除とセット

精神病院の廃絶というのは、精神病院への包摂をやめるとともに、町の外、あるいは市民の外への排除をやめるということ。

人類史を見ると、そうした外との媒介を文化というかたちでいろいろつくってきたわけですが、ヨーロッパでは特に聖人がその媒介者の役割を担ってきたのです

コロンナ広場の救貧院に、貧者、巡礼者、狂人を受け入れた

スペインのカトリックの文脈では、狂気は神の声への反応であり、神の秩序への回心のしるしであるとみなされていた、しかし同時に神の秩序から離れたことのしるしでもあった

彼らを聖人病院に連れてくるに至った状況とは、生の危機であって、決して統合失調症、すなわち制度化された状況としての診断ではない。それゆえ、統合失調症を、ある機器の表現として見ていた。問題を危機とみるのは、それとも診断とみるのかは、まったく別のこと、診断は客体だが、危機は主体性の問題

精神疾患という概念を私は批判するが、狂気を否定しはしない。凶器は人間的な状況だからだ。問題は、この狂気にどのようにして向き合うかということである。この人間的な現象を前にして、われわれ精神科医はどんな態度をとり、そしてこの狂気の必要性にどう応えることができるか

人間にとっての狂気の必要性。精神病院をなくしても、人間にとっての「外」という問題はなくならない

入院患者が、内から外へ出るだけではなく、外の市民が精神病院にやってくるような仕掛けをいろいろ考えた。

演劇実験室における精神-身体のトレーニングは、俳優に技能を授ける足し算のトレーニングではなく、私という意識に由来する体の抵抗を問い覗いていく、いわば引き算の過程。その過程で、一種のトラウマが出てくる場合もある。

社会から精神障害者を隔離していた、閉鎖的な全制的施設としての精神病院を廃絶して地域に開いておきながら、なぜそこにまた閉鎖された演劇実験室のような場が必要なのか。そこは何事かが起こっても大丈夫であるような場を。そういう場をつくるのが、その意味なのだと思います。

演劇実験室の参加者は、ここでは鎧を脱ぐことができるからとか、繭のようだという言い方をする。包摂はこういう繭にくるまれている感じに近いのかなと思って聞いています。社会的にノーマルな規範に関わる鎧や仮面を外して、限定解除しても大丈夫という場が必要なのです。とはいえ、そういう場であっても、外から何が到来するかが、保証のかぎりではないのです。

→ここでの包摂は、やはり個人と社会の間を【世界】という関係項でつないでいく上で必要になるものというイメージかな。社会と個人との間を円滑にしつつ、その間に世界を生成するための、目地のような場所というか

演劇実験室の場合、限定解除しても大丈夫という場をつくるのに、二重の防護を施している。一つ目は、場による防護、つまり精神保健サービスの関係者の立ち入りを禁止し、医学の論理の介入から守ること、二つ目は技法による防護。これは浮かび上がってきた感情記憶に身を任せて、感情を爆発させるのではなく、肝を中心に据えることで、いろいろな感情や記憶が出てきても、自身が距離をとって見守っていられるという、そういう形の技法

現代の世界自体が実験室化されている。壁はなくても、個人かされ、全体的かつ個別的に統治されるような社会が実現してきた、そこに近代に誕生した実験室がある。科学的な知が、外の世界の様々なものを制度化・空間化することで、実験室の中で成り立っていたものが、外の世界でも成り立つように世界をつくりかえてきた。その結果、それが世界そのもの、唯一の現実だと錯覚するようになる。その外があるということを想像することさえ困難になってきている。そうした中で、よくできる学生のよい子の答えも出てくるし、なんか変だ、おかしいと思っている人も、なかなか出口が見えるず閉塞感の中で調子を崩すということが起きる。だからこそ、演劇実験室のような、引き算の実験室が必要なのではないか。

現代の社会は様々な制度が個人をベースにしている。個人の所有、自分の身体は自分のものという考え方をベースにしていろいろな制度がつくられている。普段は曽於中で対処できるが、そのことで逆に外があること自体が見えなくなる。

自分自身の外と出会うための場になっていると思います。単に病院の外に出て暮らすということでは、その外はすでに見えない壁に囲まれた内かもしれない。だからそこに空間的な外とは異なる『外』と出会うことができるような場が必要だと思うのです。それは、『あいだ』『あわい』と呼んだほうはいいかもしれません。

地域というのは、単に病院の外といいより、であいの場としてのあわいであり、相互行為空間であることが重要ではないかと思います。社会の内への包摂というよりも、内と外のあいだ、あわい、もつれあいを生み出すことが重要なのではないでしょうか。


精神医療は乾ききってしまっていて、本来はアートがあっていいはずなのに、あっても少ない

みんながひとつの生命体みたいに感じになって、個の意識が薄らいでゆく。その中にいると、何か新しいことができるかもなみたいな雰囲気というか、気持ちと言うか、
そのひとつの生命体として外部と出会って触れていることができるかもしれないと感じる

底が抜けているということを、とりあえず抜けていないとすることで社会は成り立っている。伝統的な社会では、儀礼や祭りの形で、底を抜けているということを思いだし、ああぁそうだったと

カトリックでは、聖人が、人間と非人間の領域との間を媒介してきた。だから聖人は、人間だけれど、何だが底が抜けたまま生きている人というイメージ

アートと精神医療の領域は、語り合える場所だと思う。今失われている外とか、底がぬけた人間の在り方を語り合える場が欲しいけれど、ない。

潜在的なものが見える人。他の人からみたら、どうにもならないと思っても、この人はレストランのバールを、とか任せたりする。まだ顕現していないけれど、この人はこういうことをやればよさそうということが、驚くほどはまる

潜在的なものの次元を直感的に感じられる、何かそういう感覚

障害者アートの二極化。あくまで市場のクオリティーで勝負できるニッチの技術や分野を見つけるのが大事。頑張っています的なものではだめ。

二人でいても、目の前で引きこもれる

二人で相対していて、しゃべらなくちゃいけないという圧力をかけない

とめどなく落下してゆく感覚、徹底的に見捨てられた感覚、周りの人たちとは共有できない、精神医学はそのような経験を幻聴や妄想として統合失調症となづける

作品の価値は、本来一人一人の人が個人的な感覚や価値観に基づいて決めるものであり、それ以上でもそれ以下でもない。芸術の価値に国家や権力が関与してはならない。

そこで採用されている評価基準は、近代絵画技法であり、その巧拙により評価が決まっている。だがそれはあくまで近代という限られた時代の主にヨーロッパで発展した、極めてローカルで期間限定的な基準であり、人類の歴史全体にわたる普遍的な基準ではない。

その価値は文化社会的につくられたものであり、不変的な価値ではない

社会構成主義的に言えば、カテゴリーや分類は社会的に作られたもので、絶対的ではない。分類やカテゴリーはあたかもその分類はそれらしく感じられるように、操作的に「つくられたくくりであり、いわば社会的なつくりもの、構築物にすぎない

レズやゲイといっても、そのにも百人百様があり、そのような複雑で個別的な現状を、ゲイというカテゴリーに押し込めることは、どんな意味や正当性があるのだろうか。その時、ゲイはアイデンティティになるかもしれないが、そのアイデンティティはなにをもたらすのか。それを結束の紐帯としたコミュニティや運動は出来るかもしれない、しかしその結束により失われるものがあるだろう。

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2022年05月12日

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