【感想・ネタバレ】ホハレ峠のレビュー

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Posted by ブクログ

ホハレ峠 大西暢夫 彩流社

ドキュメントとでも言うのだろうか?
改めて人の世とは何なんだろうかと
問い直すキッカケとなる素敵な本だった
理不尽な法治国家に生きる視野の狭い人間と
あるがままに人生を噛み締めながら80年生きたとして
その内何回の花を見て旬を感じて
一生を全うして行く心豊かな人間は
を学びとって死と言う旅立ちを迎えるのだろうか〜

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2024年03月20日

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ダム開発のために地図から消されていった日本の多くの村のひとつに、岐阜県徳山村がある。コミュニティが崩壊したあとも山で暮らしつづける老人たちのもとを1990年代初頭に初めて訪れたジャーナリストの著者は、トチの実やマムシ、種々の山菜などを採り加工し保存する日々の労働を克明に記録するにとどまらず、ひとり村にとどまったゆきえさんの人生、そして今や彼女の記憶の中にとどまるのみの村の歴史そのものを掘り出し、現場を歩いて自らの体によって確かめるようにして記録していくことになった。
角入(かどにゅう)という雪深く貧しい集落から一度は北海道開拓民の村へ嫁いだゆきえさんは、なぜまたこの村に戻り、最後のときまで立ち退きを拒んだのか――手探りでたどりついた先にあったのは、まるで集落全体がひとつの生命体であるような、地にへばりついて生存してきた人びとの記録だった。過去の安易な理想化を拒むその過酷さは、共同体の中の個人、特に女性たちや、またおそらくは入植先の先住民たちにも向けられてきたものであったろう。
日本全体が大きく商品経済化していく中で、この村の生活の厳しさを知ればこそ「帰りたくはなかった」というゆきえさんは、しかし最後まで角入にとどまった。そして立ち退き先を訪ねた著者に、「なんでわしが98円の特価品のネギを買わなあかんのや」と凄絶な言葉を吐露する。見たこともないほどの補償金を差し出され「先代が守ってきた財産を一代で食いつぶしてしまった。カネに変えたらすべてが終わりやな」と。
地に縛られ血に縛られながらも自ら重みを引き受けて生きてきた人たちがその中で探し求めてきた解放とはなんだったのか、わたしたちは解放のように見えるものを求めて、なぜこんなところに来てしまったのか。ゆきえさんは14歳ではじめてホハレ峠を歩いて越え、門入の外にあるきらめく海を目にしたという。その細い道を歩き通す重荷を捨てたとき、わたしたちは解放の道を見失っていたのかもしれない。

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2024年01月28日

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ネタバレ

 2006年9月25日早朝、揖斐川を堰き止めるゲートが。徳山ダムの記念日であり、それは徳山村がダムに沈む日でも。水かさが増していき、国道が、学校が、集落が・・・沈んでいく。1500人ほどが暮らしていた徳山村。2005年4月まで最奥地に最後の1人として暮らしていた廣瀬ゆきえさん(大正7年生まれ、2013年8月1日没、93歳)の万感の思いを、徳山村百年の軌跡を、大西暢夫さん(ゆきえさんより50歳若いカメラマン、徳山村で生まれ育った)が取材し書き綴りました。「生きる」ということを深く感じさせていただいた書です。

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2022年01月31日

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ダムが建設されることによって移転を余儀
なくされた、ある集落に住む一人の老婆の
人生を追ったドキュメンタリーです。

と、書いてしまうとどこにでもありそうな
内容と思ってしまいますが、まさしく日本
のどこでも起こっていることなのです。

それがとても切なくて悲しくて、失ってし
まったものの大きさに気付かされることは
多いはずです。

ダムの寿命は100年と言います。

一人に人間の長さでしかないのです。そん
な人間一代の長さでしかない物の為に、先
祖代々から受け継がれてきた物を全て食い
潰してしまった、と嘆く老婆の描写は心が
痛みます。

我々が失った「豊かさ」の大きさに愕然と
させられる一冊です。

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2021年09月29日

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ダムに沈む村の老夫婦の暮らしぶりを伝える第1部は普通の良書だが、第2部はハイパー展開だった。

最後の住人となった老婦人は、この岐阜県の山村で生まれ育ったが、戦時中に、初めて会う夫と結婚するために北海道の開拓地に移住していた。しかもその夫とは血の繋がる関係だという。
その夫は戦時中には満州移民を、戦後にはパラグアイ移民を志望して果たせなかったという。そして開拓地を捨て、岐阜の山村に移り住んで生涯を終えた。
ダムに沈むような山奥の集落だが、その住人は丸1日歩かなければ越えられないホハレ峠を頻繁に行き来して外の世界と交流していたというのは、当たり前かもしれないが驚きがある。老婦人も14歳の頃から毎年この峠を越えて出稼ぎしていたという。
大正8年(1919年)生まれで小学校しか出ていない山村の老婦人の生涯、と聞いて想像するようなものとは全然違うものだった。そしてたぶん、彼女が特別なのではなく日本中にこういう人生があったのだろう。

第1部のダムに沈む村の最後の住人、という部分も、これも日本中にあった話なのだろうが、だからこそ彼女の話は重い。
「ここに家を建てて、やがて20年になる。正直に言うと、もう金がないんじゃ。ダムができた頃は、一時、補償金という大金が入ってきて喜んだこともあった。でも今はそうじゃない。気付いたころには、先祖の積み上げてきたものをすっかりごとわしらは、一代で食いつぶしてまったという気持ちになってな。」「体験した者じゃないとわからんが、耐えられんぞ。結局、税金などを長い時間をかけて支払っていたら、補償金は国に返したようなもんや。気づけば、わしらの先祖の財産は手元にすっかりことなくなとるんやからな。」

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2021年03月13日

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映画を是非見たいと思った。
廣瀬ゆきえさんの人生を、写真と共に詳しく書かれていて、私自身、ヒトとしての生き方を考えさせられた。

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2021年02月12日

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ダムに沈む村に最後まで住み続けた女性。電気もない不便な奥地に住んでいた方が豊かに生きていたと感じられる。その人生は本当に過酷で。開拓使として北海道で暮らしていた時のとても貴重な体験を知ることができました。
読み終えて、歴史に名を残すような壮大な人生ではないはずなのに、ずっとその偉大さのようなものに静かに感動しました。
本当にお疲れ様でした。ありがとうございます、と伝えたくなりました。

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2023年02月27日

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日本最大のダムを作るために沈んでしまった岐阜県徳山村。
岐阜県の西より、滋賀県と福井県の境にある徳山村の最も奥にある門入(かどにゅう)地区が本書の舞台で、隣の坂内村や川上地区につながる峠がホハレ峠、物資の流通や交流が行われた険しい山道だ。
同じ岐阜県出身の作者は、徳山ダムの話は小学生頃から聞いていて、カメラマンを志しいつしかその記録を残したいと思うようになり、東京から徳山村まで通い詰めた。
門入は徳山村の八集落あるうちの唯一水没を免れた地域で、昭和の末頃まで34世帯約百人が暮らしていたが、ダム建設によって危険区域となり移転を余儀なくされ、集落の人々は徐々に近隣の町に引っ越していった。
そんな廃村になっ4年目(1991年)門入を訪れた著者は数人のお年寄りが暮らしていることを知った。
村には店もない、電気やガスや水道もない、通信手段もない、母屋は契約時に壊してしまったから掘っ立て小屋を建てて、そんな状態で暮らし続ける人たちがいた。
不便を感じるどころか、「こんなええとこ、独り占めしていいんかな」と大笑いしていたという。
水は川で汲んで、畑で野菜を作り、木の実や山菜をとり、まさに自然と寄り添いながら、食べるためだけに体を動かすという生活。
原始に戻るというか、自然に逆らわない生活。 
そんな中で作者は、廣瀬ゆきえさんという一人のおばあちゃんと出会い、廣瀬さんのそれまでの足跡をたどり始める。
廣瀬ゆきえさんの一代記ともいえる物語だ。門入住人、最後となった人だ。
そんなゆきえさんに寄り添い、記録に残し続けた作者はもはや家族同然。
栃の実のあく抜きや、自然薯堀など、貴重な体験をしたり、季節季節の山菜料理をお腹いっぱい食べさせてもらったり。
そんなことばかりしていたのかというと、ちゃんと仕事もしていて、ゆきえさんの生い立ちをたどっていくうち、なんと北海道の開拓という話が出てきて、北海道にも何度も足を運び、ご先祖のルーツを調べ上げた。
徳山村の人たちは、昔、北海道の開拓のために大勢移住して今もゆかりの人たちが暮らしている。
そして徳山村を途絶えさせないための、昔からの縁組の仕方など、岐阜と遠い北海道とが、巧みにつながっているその仕組みが面白いように明かされる。
たまたまダム建設のために廃村に追いやられてしまった住人の一人であった廣瀬ゆきえさん、その波乱万丈の一生は、作者によって見事に記録された。

実は、この徳山ダムを見ながら、福井の県境に向かうと、冠山とか、金草山があり、その山に登るため、徳山ダムは知っていました。
そのダムにこんな物語があったとは・・・
今でも、門入を訪れる人たちがいます。山歩きの延長だったり、探検と称して。
機会があれば行ってみたいです。

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2021年10月10日

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ネタバレ

ホハレ峠
~ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡~

著者:大西暢夫
発行:2020年4月
彩流社

岐阜県中西部、福井県に接し、滋賀県ともほとんど接しているような地域にあったのが徳山村。村のほぼ北端、福井県との県境にある冠山を源流とする、木曽三川の一つ揖斐川が南へと流れ、その南端に出来た徳山ダム。2006年から水をためはじめ(マスコミでは貯水、役所は湛水と呼ぶ。とくに最初はテストを兼ねているので試験湛水というが、異常がなければそのまま水を抜かない)たため、徳山村は廃村となった。その様子は、著者が監督した「水になった村」というドキュメンタリー映画に収められ、公開された。文句なしの名作映画。

去年発行されたこのノンフィクションは、旧徳山村でも、門入(かどにゅう)地区で最後の1人となった廣瀬ゆきえさんの生い立ちを訪ねて、著者が滋賀県や北海道にまで足を延ばして取材を行い、そこで得た事実を綴ったものだが、そこには単なる大正8(1919)年生まれの1人の女性の歴史ではなく、その時代から戦後に至るまでのまさに日本の歴史の縮図となるような物語がある。発行以来、大評判となっているこの本だが、その理由は読めば誰にでも分かる。

門入は、村北の冠山を源とする揖斐川の源流沿いではなく、村の東、滋賀県方面に源を発する源流沿いにある集落。ダムに近い村の中心地・本郷地区からは非常に遠く、従って水に沈まなかったエリアも多い。とはいえ、移転させられていて住み続けることは不可能だ。最後の1人、廣瀬ゆきえさんは、夫の司さんにも先立たれ、移転先で一人暮らし。著者にいろいろな話をした。そして、この本の出版を待たずに旅立った。

***

当時は子沢山の家庭が多く、徳山小学校の門入分校は賑わっていたという。それでも40人ほど。運動会は本郷の本校で開催されるが、朝出て歩いても本郷に着くのは夕方。そこで1泊して翌日に運動会、また1泊して翌朝に歩いて戻る。2泊3日の旅だった。
そんな僻地に中学校はなく親元から離れなければならないが、廣瀬ゆきえさんは他の多くの女の子同様、中学には行かせてもらえず家の労働力となった。畑仕事や家事、縫い物などの習い事。自分たちの食べ物は畑で作るが、完全自給自足は無理で現金が必要。そのもとが養蚕で、14歳の9月には初めて自分たちが作った繭(まゆ)を担いで、滋賀県の業者に売りに行く。その時に越えた峠が表題にもなっている「ホハレ峠」だ。泊まりがけの重労働で、繭から成虫が出て来てしまう前に到着しなければならない。

さらにその年の10月には、彦根にある巨大紡績工場(カネボウ)に就職することに。11月~翌年4月、親元から離れて綿から糸を紡ぐ仕事をした。「ああ、野麦峠」を連想しがちだが、(仕事はきつかったのだろうが)彼女は前向きで、プールのような大きな風呂に毎日入れ、生まれて初めて牛や豚が食べられる暮らしは、徳山村に比べると極楽だった、と回顧している。

24歳になると縁談話があり、北海道の真狩(まっかり)村へ嫁ぐ。なぜ北海道なのか?結婚相手のルーツが徳山にあり、徳山村からは北海道への開拓団が出ていたのだ。すなわち、2人は遠戚なのだろう。年がたち、夫婦は徳山村に戻ることになるが、それもゆきえさんの家の跡取りに絡む理由からだった。徳山村の人々と真狩村の人々は、遠くに離れてもお互いの家を守るため、また集落を維持するために助け合う。そうした実態を解明していく著者。

食べ物を自分たちで確保し、家系や共同体も必死で維持していくなか、近代化は情け容赦なく襲ってくる。徳山ダムに反対しながらも、最後はハンコを押して出て行く村人たち。廣瀬ゆきえさんは言う。先祖代々守ってきた土地も家も畑も、お金になった。それまでは現金はほとんど持っていなかったが、大金を与えられて移転先の家で暮らす。段々お金は減っていき、まもなく底尽きる。自分の代でなくなる。全部国に取られた・・・
丁寧な取材を重ねた上で、構成上に起承転結もある、情熱に満ちたノンフィクションの一冊だった。素晴らしい。

**********

初めて会うのに「どこの坊じゃ、腹は減っとらんか。飯食っていけ!」が挨拶のようなもの。まずは飯、会話はその後。山仕事をしている人たちは、空腹の恐怖を頭の片隅に入れているからなのだろうか。

廣瀬司さんが証人として立ったとき、細かい質問に答えられない度に、呆れた表情を見せ、うすら笑いする原告側の態度に僕は怒りを覚えた。

ゆきえさんの移転先では、スーパーは年寄りが歩く速度で15分以上はかかり、負担になっていた。いつの間にか、食材などを買い求める受け身の生き方に変わっていることに著者は気づいた。

本郷本校での運動会で宿泊したところで、中学生ぐらいのお兄さんやお姉さんたちがわしらのお世話をしてくれた。食事を作ってくれたり、布団を敷いてくれたり。まだ寝小便する子も2~3人おったが、着替えがないから、着物が小便でぬれたまま翌日の運動会に参加。お尻を濡らしながら走っとる女の子がいたが、別に珍しい光景ではなかった。泊まった部屋は畳、門入ではまだ板張りの上にむしろが当然やったから嬉しかった。

「桶飴」は直径20センチぐらいで深さ10センチほどの木桶に飴が固まった状態、それを金槌とかで割って食べた。

滋賀県の工場から関係の人が門入まで迎えに来て、わしらを引き連れ、ホハレ峠を越え、滋賀県木之本町まで歩いて出た。そこから汽車に乗って彦根に向かったんや。

石油や塩を頼まれて買って行くものが多かった。昔の塩は湿っぽいもので今のようなさらさらのはなかった。だからとても重い。5キロや10キロでは山ではとても暮らしていけん。藁で編んだ中に塩が入っておって、ぽたぽた塩水がしたたるほどの湿っぽさで、徳山に着いてその塩に重しをして、落ちる塩水を集めた。それが冬に作る豆腐に欠かせないにがりになっておった。

ゆきえさんは、14歳~16歳までの冬の3年間は彦根駅前の紡績工場で働き、17歳からは愛知県一宮市の紡績工場に職場を変えた。

北海道で見知らぬ家を訪ねる。訝しげな目で見られる。徳山村から来たというと「ちょっと中に入れ」と入れてくれ、何軒も訪ねて地元の人にここを教えられたことを言うと、「よく来た!本当によく来てくれた。ここで正解だ。ここしかないんだ。徳山村の開拓の話だったら、この村でわかるもんは俺くらいのもんだ」

ダムの説明会が門入でも何度も行われたんや。国の偉い人たちが村民に対して、これからの行く末を話していくんや。それに参加するだけで4000円もらえたから、それを目当てに参加する人たちも多かったんじゃないかな。・・・何回も何回も集会が行われて、少しずつ徳山から出て行こうとする考えの家族が増えていた。経済的に苦しい家族から。そこから集落は崩されていくんやな。

3年ぐらいは国のほうも丁重に話をしてくれたが、みんなとも慣れ親しんできたころから、「はよ、ここを出て行け!」と言わんばかりに、言葉使いや態度が変わっていったんや。仕方なく、家を壊した家族もおったよ。

廣瀬ゆきえさんが、生前、最後に会った人は著者だということが判明した。

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2021年09月01日

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ネタバレ

徳山村で唯一水没しなかった集落「門入」に最後の1人となって暮らしていた「ゆきえさん」が主人公の大河ドラマ.
徳山の最奥地の集落に生まれ,見ず知らずの北海道に嫁入りし,跡継ぎのいない生家を嗣ぐために徳山に帰ってくる.しかしダム建設に追われ,最後は本巣の文殊の移転先で一人亡くなる.
ゆきえさんが14歳の時に峠を幾つも越えて繭を売りにいった家を探し当て,北海道の開拓地での住居跡を見つける過程はスリリング.
ただ,著者の感情が出過ぎている面が少し邪魔で,その分だけ1点減点.

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2021年08月22日

Posted by ブクログ

”本の雑誌”ランキングから。村に唯一残った家庭との交流を通じて、一方的な行政のやり方に疑問を投じる。思い出話を通し、舞台は北海道開拓史におよび、実現はしなかったものの、南米への移住までが絡んでくる。時代背景も考えると、何とも壮大な話。自分の中では”カムイ”とか”熱源”とか”ヒストリア”とか、最近読んだ物語との共通点も見つかったり、なかなかに興味深いものだった。

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2021年01月12日

Posted by ブクログ

あれ?大西さんて『ぶたにく』の人じゃないですか。

ダムの是非という以上に、ゆきえさんという1人の女性の人生に、力強さ逞しさと共に、生きる悲しみそのものを思う。山村に生まれ、14歳で親元を離れて紡績工場で働き、写真で見た人と結婚して北海道へ渡って開拓の厳しい生活を生き、また生まれた村に戻るとそこはダムになる…。

村の、現金はないけれど四季折々の収穫や自分のやるべき仕事のある豊かな生活と、移転した先でのスーパーで買い物する暮らし。たくさんの人のためにネギも作ってきた「農民のわしが」なんでスーパーで「買わなあかんのか」と言うところに、生きてきたプライドを見る思い。

そうなのだ、「壊すことは簡単」だけど、「積み上げてきた年月は途方もないもので、一度壊したら元に戻すことはできない。その重みは他人には到底わからない」日本各地のダムや公共事業、科学的にも本当に必要なのか、また関係する人たちの人生と計りにかけてそれでも必要なのか、問い直してほしい。

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2020年08月15日

Posted by ブクログ

 ダムに沈む村。
 本屋で手に取って気になってしまった。

 岐阜県徳山村、かつて地図に存在した村は今は徳山ダムの湖の下に沈んでいる。
 この村の最奥の門入集落に最後まで暮らしていた老婆、廣瀬ゆきえの生涯を追うノンフィクション。

 門入集落は、村の中心地の本郷ではなく、ホハレ峠を越えた隣村との交流が盛んだった。
 東京オリンピックの年になっても村には電気は来ず、物流はボッカが担っていた。
 
 冬は雪に閉ざされるこの村で、ゆきえは生まれた。
 幼いころは畑仕事を手伝い、
 14才になり彦根の紡績工場に冬の出稼ぎに行き、
 24才で嫁いだ先は北海道真狩村だった。

 北海道真狩村は、門入の入植者が開拓した村だ。
 真狩村での取材から、門入の濃密な人間関係に気が付いていく。

 2013年8月13日、廣瀬ゆきえ逝去。

「先代が守ってきた財産を、すっかりこと一代で食いつぶしてしまった。
 金に変えたら全てが終わりやな」

 村の記憶も、つながりも、ダムが全てを沈めてしまった。

 読み終わったあと、持ってる中部北陸マップルのページを開いて場所を確認した。
 2005年のマップルには、まだ徳山ダムはなく、集落の名前が全て印字されている。

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2020年05月17日

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