テレビなどでお馴染みなので、著者をご存知の方も多いと思います。
しかし、何者かと問われて、答えられる方がどれだけいるでしょう
か。肩書きとしては、翻訳家、小説家、収集家、神秘学者、タレン
トなどと名乗っているようですが、その信じられないほどの博覧強
記ぶりと面妖な風貌から、しばしば妖怪に喩えられるほ
...続きを読むど、人間離
れ・常識離れした人物です。
本書は、そんな「妖怪人間」を形作ってきた「アラマタ式0点主義
の勉強法」を紹介するものなのですが、一体、「0点主義の勉強法」
とは何でしょう?
「0点主義」を説明するため、著者は、『荘子』の「櫟社の散木」
のエピソードをひきます。「櫟社の散木」とは、神木と崇められる
櫟(くぬぎ)の巨木のお話。櫟は、もともと用材としての価値が低
い上、その木は曲がっていた(=散木)ため、誰も使おうとしなか
った。つまり、何の役にも立たない木だったからこそ生き残って巨
木となり、神木として崇められるようになったというお話です。
世間的には役に立たないことが、世俗を超えた価値を持ち得る。こ
こに「0点主義」の本質があります。点数をあげる(=成功する)
ための努力は、材としての有用性を高めるためのものに過ぎず、そ
うやって世俗の価値を追い求めている限り、結局は、切り倒され、
いいように使われるだけ。ならば、世間的には0点でも、無意味で
無駄に見えることでも、自分が楽しいと思うことを追い求めていた
ほうが、いつかは世俗を超えた価値を持つ神木=オンリーワンにな
れる可能性が高い。少なくとも、一生楽しく勉強できて、幸福や豊
かさを実感できる人生を手に入れることはできる。
実際、著者は、そのような「0点主義」を貫いてきたのです。いや
貫かざるを得なかった。何故なら、独特の風貌ゆえ、子どもの頃か
ら周囲から除け者にされてきたからです(本書では明かしてません
が、極度に貧しかったために、服も買えず、お風呂にも入れないと
いう家庭背景もあったようです)。
普通はいじけた人生を送ってしまいそうな状態ですが、そこからの
開き直りが凄い。どうせ世間の基準からずれているのであれば、人
によく思われようと努力してもしょうがない、と世間的な価値に対
する執着を捨ててしまうのです。多くの人が人生で叶えたいと思っ
ている、成功したい(名声を得たい)、お金持ちになりたい、異性
にモテたいという、世俗の欲望を叶えることを、早くも幼児期に諦
めてしまったのだそうです。
それを「7歳で心が朽ちた」と表現するのですが、以来、他人の目
を気にすることなく、好きなことだけやって生きてきた。そしたら、
いつしか「荒俣宏というユニークな人間がいる」という評判が立っ
て、自由に仕事ができるようになった。そこに至るまでに、30年
くらいかかったけれど、今は、「何をやっても、どんな人に会って
も、何かしら学ぶことができ、何よりもとても楽しい」と思える
「人生丸儲け」の感覚を味わっているというのです。
好きなことだけやって生きてきたというとお気楽な人生に思えます
が、そうではありません。「一つの『好きなこと』を守るには、一
つの『欲望』をあきらめる」と言うように、ちゃんと自分の中でギ
ブ・アンド・テイクのバランスをとって生きてきた人です。そして、
どんな仕事であっても自分の関心のある知的作業につなげることで、
楽しみを見出そうとしてきた。そうやって自分の世界を広げてきた
人でもあります。常に世界に開かれている(=オンラインになって
いる)点が、単なるオタクや「好きなことしかしない」という自意
識過剰な人と荒俣宏とを分けるものでしょう。
仕事すること、勉強することの意味について、改めて考えさせてく
れると共に、人の評価なんて当てにしないで、自分自身の価値に従
って生きていこうという勇気をくれる一冊です。
一年の計を立てるこの時期にふさわしい一冊ですので、是非、読ん
でみて下さい。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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毎日不安に押しつぶされそうになっている「勝ち組」はいくらでも
いる。それって、ほんとうに幸せなのだろうか。むしろ、成功した
かどうか、勝ち組か非勝ち組かに関係なく、知的作業や日々の暮ら
しのおもしろさに打ちこめた人こそが、一生を満喫した人といえる
のではないか。
遊ぶように勉強をし、さらにそれが「何をしてもおもしろい」とい
う幅広さにつながれば、生きていくうえでこれほど幸せで喜ばしい
ことはないだろう。
今の時代、人が勉強という言葉でイメージするのは、「勉強という
努力を重ねる」→「成功へと導かれる」というものだ。(…)そし
て、その具体的なゴールは、①社会的な成功を収めること、②お金
持ちになること、③仕事や業績により社会的な評価を得ること、の
三つにほぼ収斂される。
すなわち、現代社会において、勉強とは何よりも世俗的な成功とい
う目的を達成するための一手段として位置づけられているのだ。
だが、本来、勉強とは人生を豊かで楽しいものにする血の通った営
みのはずだ。
周囲に理解されていないなと感じたときは、逆に「しめた!」と思
っていい。「何で理解してくれないんだろう…」などと嘆く必要は
まったくない。あのスティーブ・ジョブズも、「新しいアイデアと
は、最初はみんなから馬鹿にされるものだ」と言っていたように。
ガマガエルのごとく、飛んでくるものすべてを飲み込むほど強靭か
つ大きな胃袋をもつことだ。口に合わなければ、吐き出せばいい。
そうやって悪食になることで、興味の間口はぐんと広がり、宝を探
り当てる確率も高くなる。
要するに、アウトプットは恥をかくほどよいということだ。私たち
は、何かを表現したり発表したりする場合、完璧な内容であること
を期する。それは自然な願望なのだけれど、完璧というのは非常に
難しい。
私は勉強に取り組む際、「これがすぐに役立つからやる」と考えた
ことがない。いつも念頭にあるのは、「勉強しておもしろいかどう
か」だけだ。
オンリーをみつけるには、まず背伸びをしてみることだ。背伸びを
すると、現実の自分をそれに近づけようとしていろいろなものを勉
強していく。
好きなことを長くつづかせるには、一つの条件がある。これは勉強
にも当てはまるが、つねに相手方と「ギブ・アンド・テイク」の関
係がつくれないと実現しない、ということだ。たとえば、自分の趣
味がどこかで会社にメリットを与えること、好きなことをする代わ
りに何か一つを犠牲にすること、などなど。
おもしろくない勉強であっても、自分の関心につながることをどこ
かにみつければそうでなくなる。遊びのようにすることは可能なの
である。
つまり、勉強や仕事と遊びは最終的に区別する必要がない。勉強や
仕事をやりつつ、遊べばいいのだとわかってからは、「つらい仕事
に耐えて、定年を迎えてから自分の好きなことをやろう」という発
想はいっさいなくなった。
人によくみられたいという気持ちを捨てて、好きなことにのめりこ
んだわかりやすい例は、『釣りバカ日誌』のハマちゃんだろう。一
見、ダメ社員のようだが、大好きなことに集中しているおかげで人
間的に強く、生き生きとしてじつにチャーミング。だから社長をは
じめ周囲の人を惹きつける。
まずは人によく思われることを忘れてみたらどうだろう。他人の評
判が気にならなくなると、自分のやりたいことに純粋に向かってい
くことができる。その結果、自分の個性や生き方がみつかる可能性
は、けっして少なくない。
成功したい。お金持ちになりたい。異性にモテたい。多くの人が人
生で叶えたいもっとも人気の高いベスト3をあげるとすると、ざっ
とこんなところだろうか。
だが、よく考えると、みんなが同じようなことを望んでいるなんて
ちょっとヘンなのだ。同じ目標に向かい、こぞってエネルギーが投
入されているわけで、このエネルギーをそれぞれがもっとほかの方
面へ向ければ、今とは違う楽な社会が出現しているはずである。す
なわち、もっと別の可能性に溢れた社会ができるのではないだろう
か。
私は子どものころからこの外見と体格のおかげで、たびたび友達か
ら化け物じみたあだ名をつけられた。傷ついたし、いやで仕方なか
った。
でも、いやだと思いつづけていては気持ちが暗く、辛くなるだけで
ある。そのうちに、そうだ、僕は怪人なのだ、と開き直ることに決
めた。何でも自分で認めてしまったほうが、人間、楽に生きられる。
誰にも見栄というものがあり、ほとんどの人は他人によく思われた
いと考えているはずだ。そうやって他人からいつもいい評価を得て
いれば、精神は安定するのだろう。
しかし、人生はそううまく運ばない。自尊心と他人の評価とのバラ
ンスがしょっちゅうズレるからだ。そして、そのズレを修正しよう
と躍起になることに、人はけっこう馬鹿にならないエネルギーを浪
費してしまうものだ。
不本意な状況を与えられてしまったとき、人は自分が世界の底にい
るような気分を味わう。端からみれば地獄でも何でもなくても、当
人にとっては地獄なのだ。
そんな地獄に落ちたと感じたら、投げやりになるのではなく、地獄
に自ら飛びこんでいくぐらいの気持になったほうがいい。地獄に落
ちたとしても、自分の興味にひっかかる「何か」は発見できるもの
だ。そうなればしめたもの。
「何をやっても勉強になるんだ」という発見と自信から、その後は
どんな苦手なものでも自分の関心につなげることができるようにな
る。そうしているうちに、人生丸儲けの状態になってくるのを感じ
るはずだ。
私自身、自分はまだまだ未完成だと思っている。60歳を超えると
なかなか身体がついてこなくなるが、地獄に落ちてなお学ぶ、その
勇気と気力はいつまでももっていたい。
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●[2]編集後記
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暦の関係でいつもより少し長めだった年末年始のお休み。久しぶり
にのんびりと家族と過ごすことができました。まだ子どもが小さい
ので、一緒に過ごすことを素直に喜んでくれますが、あと十年もす
れば、親よりも友達、家よりも外、ということになるのでしょう。
上の子は7歳ですから、もうあと5年くらいでしょうか。
平日は仕事に追われ、休日は家族との時間に費やし、という暮しも
束の間のこと。子ども達が巣立っていった時に、年末年始のような
長い休みをどのように過ごしているのだろうかと、ふと思いました。
現役を引退された方から頂いた年賀状を見ていると、自分の人生の
テーマに向かってますます充実した日々を送っている方と、静かに
老いていっている方と、二通りに分かれているようです。
家族からも働いている組織からも必要とされなくなった時、人は何
に拠り所を見つけていこうとするのでしょうか。
今年一年が皆様にとって素晴らしい年であられますように。