1901(明治34)年、子規が死の前年に新聞に連載した随筆。
このときすでに正岡子規は立って歩けず、ひたすら病床に伏せっていたようである。ウィキペディアによると脊椎カリエスだという。
書かれた断片はたった1行のものからせいぜい2ページ程度に及ぶもので、闘病生活のこと、雑誌などを読んでの詩歌批評
...続きを読む、過去の思い出、たまに俳句・短歌の習作なども入る。徒然なるままに書き連ねられた雑種の文集で、そう言うとあたかも余裕のある老人がひなたぼっこしながら書いた雑記のように聞こえるが、じっさいには子規は非常な苦しみの最中にありながら、「もはや唯一の自由」として「書く」ことを続けたのである。しかもこのときまだ33歳。
この必死の「書く」行為によってそこから言葉のストリームが生まれ、文芸的な世界を切れ切れながら構築していく。
俳句・短歌の批評には「なるほどな」と思わされるし、日常的な、むしろどうでもいいような些事について書くその心の移ろいが、読んでいて何故か胸に迫ってくるようでもある。
文章は「なり」などという文語体が多いが、ときどき突然、現代語にもなる。
子規の俳句や短歌も読んでおきたくなった。