「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界

「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界

ビジネス・実用
770円 (税込)

3pt

グローバル化の進展につれて「自己決定」が求められる時代。その背景には、人間は「自由な主体」であるという考え方がある。しかし「自由な主体」同士の合意によって社会がつくられるという西欧近代の考えは、ほころび始めてきている。「自由な主体」という人間観は、どう形成されたのか? 近代社会の前提を問い直す。

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  • カテゴリ
    :
    ビジネス・実用
  • ジャンル
    :
    社会・政治 / 社会学
  • 出版社
    :
    筑摩書房
  • 掲載誌・レーベル
    :
    ちくま新書
  • タイトル
    :
    「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界
  • タイトルID
    :
    249171
  • 電子版発売日
    :
    2014年02月28日
  • コンテンツ形式
    :
    EPUB
  • サイズ(目安)
    :
    1MB

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「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界 のユーザーレビュー

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感情タグBEST3

    Posted by ブクログ

    「主体性」が発揮されるのは、ある「ルール」があってのことである。


    主体性が大事だと主張していた団体に属していただけに衝撃的だった一冊。

    0
    2009年10月04日

    Posted by ブクログ

    主体とは何なのか、まるで、僕らがしっかりと持っていると思われるような「主体」。言葉を変えれば「自分」であり「自己」。僕は自分が無いなんて全然感じたことがないけれど、周りには自分が無いと他人に言われ、自らもそう言っていた人がいた。主体とは、そんな有無で語れるような、ちゃんと輪郭をもったものなのだろうか。
    そして、彼女はなぜ自分が無いと思い、僕は自分が無いと思わないのだろうか。
     僕たちは「自分」とは何なのかを深く考えたことがない。恐らく好き嫌い、快不快程度の感情のことを「自分」と思い込んでいるのだろう。そして国の指針を示すような頭の良い人たちも「自分」というものをちゃんと考察していない。つまり僕たちがなんとなくその存在を感じる程度のノリでエラい人たちも考えている。
     自由主義が旺盛になり、自己決定の風潮がでてきてから「自分」という概念がクローズアップされてきた。それは詰め込み教育からの反省であり、多様な人生選択という生き方からの要請でもあったけど、もう一つ、自由主義社会での「自己決定論」がもっとも影響しているのだろう。自由経済では「自己(自分)」をしっかり認識している人間を前提にしないと話が前に進まないから「皆さん急いで自己を持ってください」みたいな本末転倒なロジックがある。「経済活動をする自己」ならば、なんとか輪郭を描くことはできる。自らの責任による決定さえできればいいのだから。そして、情報開示という方法で必要な条件はある程度はクリアできる。でも、経済活動における「自己決定論」と生きていく上での「自己決定論」を等しく考えてはいけないと思う。そこを同一視してしまうと、翻って経済活動をするもののみが「自己」であり主体性を持ちうるという、とっても苛立たしい認識が浸透してしまうように思うのだ。
    少しでも生きていれば主体性なんてイヤでも持ってしまう。自分が無い人なんて誰一人存在しない。仮に自分が無いと言っている人がいたとするならば、それは無いのではなくただ自分を持ちたくないだけなのだ。

    0
    2009年10月04日

    Posted by ブクログ

    中正さんの本を初めて読んだんだけど、ものすごくわかりやすい。現代哲学をやっているだけあって、脱構築しまくり。本書の半分位をハンナ・アレンとの解説に割いているが、これも秀逸。

    0
    2009年10月04日

    Posted by ブクログ

    帯の「ポストモダンの中で、とりあえずどんな態度をとったらいいのか考えていこうという主題」への記述が自分の力では読み取れなかった。

    102p
    エクリチュールによるパロール支配

    190p~
    アイデンティフィケーションと主体性、自己決定

    指摘されて気がついたが、
    このアイデンティティと所属する共同体との関係、
    そこで求められる主体性との関係が良かった。

    0
    2017年08月06日

    Posted by ブクログ

    自己決定をおこなう「自由な主体」という発想の限界を指摘するとともに、そのことが明らかとなったポストモダン状況の中での態度決定はどのようなものであるべきかを論じています。

    前半は、アレントの「公共性」にまつわる考えが紹介されています。アレントは、「人間」の多元性を認め、そうした多様な立場の人びとが公的領域でたがいに意見を交換し合うことで、合意に至るプロセスを重視しました。ただし、こうしたアレントの「公共性」は、ハーバーマスの想定する普遍的な「討議的理性」と区別されるべきだと著者は言います。アレントの考える「公共性」は、古代ギリシアのアゴラにおける市民たちが自由におこなった討議に由来しており、歴史的な出生を持つ概念だとされます。

    著者は、ギリシアの理性から西洋における人文的教養の歴史を経て、ルソーの自由な個人に至るまでの歴史を簡潔にたどりながら、「自由な主体」という概念の歴史的形成を説明しています。一方、現代の政治思想に目を移してみると、「普遍的な理性」に依拠するリベラリズムの立場は、個人の自由を最大限に尊重するリバタリアニズムの立場と、共同体の文脈や歴史的に形成された価値を尊重するコミュニタリアニズムの立場に挟撃されて、苦境に立たされています。そして、こうした状況の中で浮上してきたのが、私たちのアイデンティティの基盤になっている共同体的な価値観が多元的に存在しており、しかもそれらが複雑に重なり合っているために、普遍的な正義を明確に取り出すことができないという問題です。

    ここで著者は、フェミニズム系法哲学者のD・コーネルが提唱する「イマジナリーな領域」という概念を参照しています。私たちのアイデンティティの形成は、さまざまなレヴェルで文化的な規制を受けており、そうした文脈を無視して自由に「自己決定」をおこなうことはできません。そこでコーネルは、リベラリズムなどが想定する「自己決定」に先立つメタ・レヴェルでの「自己決定」への権利を認めるべきだと考えます。自己決定をおこなう「自由な主体」は初めから存在しているわけではなく、さまざまな共同体や他者たちとの遭遇を通じてつねに変容し続けています。そこで、そうした「場」において生まれつつある「アイデンティフィケーション」のプロセスを、「自分」にもっとも適していると思われる方向へと導いてゆく(メタ)権利が認められなければならないとされます。言うまでもなく、こうした「イマジナリーな領域」を保護することは、性急な「自己決定」を人びとに迫る昨今の風潮に対する鋭い批判となっています。

    0
    2015年06月20日

    Posted by ブクログ

    [ 内容 ]
    グローバル化の進展につれて、何かにつけて「自己決定」が求められるようになってきた。
    その背景には、人間は「自由な主体」であるという考え方がある。
    しかし人間は、すべてを「主体的」に決められるわけではない。
    実際、「自由な主体」同士の合意によって社会がつくられるという西欧近代の考えは、ほころび始めてきた。
    こうした「ポスト・モダン」状況にあって我々は、どう振る舞えばいいのか?
    そもそも「自由な主体」という人間観は、どう形成されたのか?
    こうした問いを深く追究した本書は、近代社会の前提を根底から問い直す、新しい思想の試みだ。

    [ 目次 ]
    第1章 「人間は自由だ」という虚構(現代思想における「人間」 よき人間と悪しき人間 ほか)
    第2章 こうして人間は作られた(人間的コミュニケーションの習得 コミュニケーションの「普遍性」と「特殊性」 ほか)
    第3章 教育の「自由」の不自由(「人間性」教育としての「生きる力」論 「ゆとり」から「主体性」は生まれるか? ほか)
    第4章 「気短な人間」はやめよう(主流派としての「リベラリズム」 挟撃される普遍主義 ほか)

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    [ 参考となる書評 ]

    0
    2014年10月27日

    Posted by ブクログ

    再読した。多岐にわたる話題。

    特に興味を感じたのは、イマジナリーな領域の権利の話題
    自由とは、自己決定できることだとして
    この自己を自己決定する権利の話題。
    まさに自分の問題意識。

    デュルシラ・コーネルが参照されている。

    あと、アーレントとハバーマスのコミュニケーション。
    違いは経済活動の捉え方。
    アーレントは、自己の利害などが入ったコミュニケーションは否定するが、ハバーマスは肯定。
    アーランは、ポリス、西欧的な出自を持つコミュニケーションの限界を意識している?

    正義なりを確信したときの排他性。
    悪の本質とは、自分で考えることをやめたこと

    0
    2021年06月24日

    Posted by ブクログ

    なんだかんだ言って面白いですよ。アレント、ハーバーマスなどのフランクフルト学派を引用しながら、近代的な主体の作為性を懇切丁寧に説く。左右両陣営の主張って、互いに対する脊髄反射の結果なのかもしれません。ネグリ=ハートの話は必要無いと思った。

    0
    2009年10月04日

    Posted by ブクログ

     ドイツフランクフルト学派のアドルノの「判りにくさ」の擁護とその根拠の展開。ハンナ・アーレントの「全体主義」と「人間性」の読み取りが、適度な深度で述べられている。その展開は、極度な人間性の尊重などという人権左翼好みのものではない。人間性の総体は、それが全体の縛りとなれば「全体主義」が成立するということであろう。アウシュビッツの元親衛隊員であったアイヒマンは、大悪党なイメージで語られるものとは違って、どこにでもいる平凡な役人であり、悪人の顔つきではないとするアーレントの言辞を取り上げて、悪は、ごく平凡な役人こそが、役人的根性で行うことで、成立するものであるとしている。尚、アイヒマンは、モーシェ・タヴォールという元ユダヤ囚によって逮捕された。タヴォールは、イスラエルの情報機関の職員である。■なんでも自己決定で、決めていことが出来る社会が、かえって、不自由を齎す社会になるという論理の紹介している。共同体的規制が無いところでの自己同一性を論じたりする、欺瞞の論理も暴いている。■自己決定の前提には、情報の自由が前提とされ、選択を実行するということが出来る周囲の状況が無ければならない。■自己決定するということが、決定しなければならないという強迫観念に縛られるとき、そこには「不自由」感が付きまとうことになり、自由を前提とする自己決定論が、不自由を増幅させることに繋がることにもなる。■こうした論理の展開が想定できることそのものに、仲正に「デリダ」の脱構築の実践を見ることが出来るし、またそれが仲正の秀逸さを物語るものでもあるだろう。■しかしながら、自己決定社会が理想だという議論が、その理想社会が出来たとしたら、理想の社会に違和感、なじめない社会であることも確かではあるだろうが、他律の自己決定なき社会も、共同の規範が占めつくす身分差社会もなじみにくい社会ではあるだろうと思う。他律と自律が、共存する社会が、ほぼ「理想」なのであって、それが実現しているのは、いまの日本で社会であるようないささか極論めくがそうした気がしないでもないのだが、だが何かしら、違う方向に動いているような印象もなくはない。■仲正は、また右派のいわゆる「自由主義史観」が左翼的に押し付けられた不「自然」な歴史観から「自由」であるという自由史観だという右派の主張は、かなり不自由であると批判している。自由史観の主張する国民的な自由というのは、ルソー的な「自由な自然人」のある変種である、としている。純粋な”自発的”な判断などありえないのであって、自分の文脈に引き入れて、自分の理想とするモデルを押し付けて的に提示し選択を迫らなければ、自由な主体的選択など出来ないのである。

    0
    2009年10月04日

    Posted by ブクログ

    自分で考えることができる人間に教育する?主体性が自発的に生じてくる?限定的な状況がないと主体は存在しえない 社会というフィクション 人類のための排除 野蛮なる自然を文明かするための野蛮な暴力 アーレント人間性論、利害関係抜きの対話=「活動」により人間性を培ってきた 本音が過ぎると仮面=ペルソナ=人格を破壊する コミュニケーション形態は普遍的でなく限定的 フマニタス=人間性(古典から崇高な精神を学ぶ) 一般意思=法(ルソー)自由を自分達自信に譲渡する 書き留める個人が逸脱していないと確認する術なし、そもそも存在が怪しい 音声中心主義批判 常に他人の言葉に晒されているのに自然人になどなれない 無知のヴェール下でのルール設定
    昔の人の本とか考えはわかりやすかった 後半はなんかちょくちょくキレてた 言葉の意味は理解できるが「わかった」かと言われるとどうだろう

    0
    2026年08月18日

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    :
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  • ジャンル
    :
    社会・政治 / 社会学
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    筑摩書房
  • 掲載誌・レーベル
    :
    ちくま新書
  • タイトル
    :
    「不自由」論 ――「何でも自己決定」の限界
  • タイトルID
    :
    249171
  • 電子版発売日
    :
    2014年02月28日
  • コンテンツ形式
    :
    EPUB
  • サイズ(目安)
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    1MB

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