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欧米の仏教が急激に進歩しているのに、なぜ日本の仏教だけが旧態依然としているのか。ともに日本の禅宗(曹洞宗)からスタートして、アメリカで仏教を教えた二人。その後、藤田はアメリカに留まり、山下は東南アジアやチベットで仏教を学んだ。三十年にわたり修行を実践し深めてきた二人のカリスマ僧侶が、日本の仏教を根底から更新する。「形骸化した仏教」(仏教1.0)と「方法・テクニックとしての仏教」(仏教2.0)の現在から、ラジカルな「本来の仏教」(仏教3.0)へ――。
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Posted by ブクログ
彼らの深い問題意識、経験が率直に語られている。普遍性がある。なにが本当の仏教の目的か、問うている。道元の禅とテーラワーダー仏教がメインの話題。 ・学校という宗教の教義「幸せというのはいつも未来にあるのだ」「全ては競争。負けたら終わり」 ・マインドフルネスという英語は、サティというパーリ語の翻訳。漢...続きを読む字だと念なのが誤解を生んでいる。 ・エゴは、なんとかして実在感を持とうとして、強烈なネガテイブ・エナジーを得ようとする。 ・「わたしが幸せでありますように」はエゴに対する死刑宣告。
第1章 僕たちはなぜ安泰寺で出会ったか? 第2章 「アメリカ仏教」からの衝撃 第3章 マインドフルネスという切り口 第4章 「瞑想メソッド」を超える 第5章 アップデートする仏教 第6章 「仏教3.0」へ向けて
さて。仏教を知るための読書、今回は藤田一照師と山下良道師の対談。 僕が知ろうとしている仏教の基本のき、に対しては少し踏み込んだ内容のようにも思ったが、まさに現代のアップデートする仏教感を俯瞰的に知るには良書だった。 要は噛み砕いた言葉でシンプルに伝えていくことの難しさが仏教の世界では課題になって...続きを読むいるんだろう。 語れる程の口を持たないので今は実直に知識を吸収していこう。いつかより深く両師の言葉を受け止められるように。 しかし書物を読めば読むほどあれもこれ知りたくなってくる。まるでクラシック音楽のように。古きを知るは深い泉のようなものだな。
何とも刺激的な対話だ。共に曹洞宗の檀家を持たない修行道場・安泰寺で出家した後にアメリカで仏教を教え、うち一人は更に東南アジアでテーラワーダ仏教を得度した者による真摯な仏教対談。既存の仏教を批判し、本来の仏教に帰ろうとする「仏教3.0」という主張には危うさも感じさせるが、それでも伝統と現実をきちんと結...続きを読むび付けた上で、どうすれば仏教を現世で苦しんでいる人たちに活かせるかを論じ合う対話には夢中にならずにはいられない。その実践である瞑想については興味深い発見の連続であり、自分も瞑想を始めてみようかと思ってしまうほど
良道さんとスマナサーラ長老の対談が一番読みたい。意気投合してより理解しやすくなるように思うんだよな。議論になればそれはそれでお互いの問題点が浮き彫りになるだろうし。
久々に、最後のページまできちんと読んだ本。なぜなら、自分の抱える「病気」を直す治療法が書かれているような気がしたから。 仏教をまったく知らない人でも、軽やかに読み切ることができると思います。 以下は個人的なTake awayです。 ▼過去と現在の自分に響く言葉 @エゴは上辺は幸せになりたいとい...続きを読むうポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態においておきたい @「わたしが幸せでありますように」はエゴへの死刑宣告 @瞑想でひとときエゴを手放しても、なかなか日常の行動がかわっていかない理由としてエゴの名残=ハビットエナジー(長年しみついた心身の癖)があるということ ▼これから探ってみたいこと @「マインドフルネス」今おきていることに判断を差し挟まずに気づいている状態になるということ
「形骸化した仏教」(仏教1.0)と「方法・テクニックとしての仏教」(仏教2.0)の現在から、「本来の仏教」(仏教3.0)へというアプローチは、日本の仏教に対してほとんどの国民が漫然と抱えている疑問に答えてくれるものだと思う。 座禅や瞑想やヨガが形式としてだけでなく、その深淵を自らの体験と実践に基づい...続きを読むて、広めようとされるお二人の真摯な姿勢の一端を知って、仏教の本質により迫りたくなる対談。
テーラワーダ仏教の書籍を読み、それに感銘を受けた自分にとっては、それではまだ限界があるんだという本書の主張に衝撃を受けた。ただ、何が限界なのかという点は極めてシンプルである。 本書でも述べられているように、仏教3.0は、いわゆる日本の伝統的な仏教1.0と、テーラワーダの仏教2.0を包含したものである...続きを読むので、少し方向修正をすれば、良い方向に向かうのかと思う。
・覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。 どのような道であっても、書物から学ぶことのできる知識と、師からしか学ぶことができない暗黙知や技があるわけですが、意外にも、仏教にも、その事実が当てはまることを突...続きを読むきつけられるような内容でした。 また、たとえ優れた師に学んだとしても、それまでに身体に染み付いた自我という固定観念を捨てることができなければ、習得することができない境地があることも思い知ることになりました。 釈尊が自らの力で到達した覚りを乞われるまで伝える気持ちがなかったという話も、真実味が増してくるのです。覚りには、理論だけで到達することが難しく、師について瞑想をしたとしても、覚れる人は決して多くない。それだけ自我の拘束は、強いのです。 仏教は、個人や社会を導きうる思想なのに、そうならないのはなぜか、それは仏教の伝来がゆがめられ、仏教自身が生き残るために、思想としてではなく、ある意味、様式を示すビジネスになってしまったからかもしれません。
人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。 仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。 デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理...続きを読むに至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。 行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事 マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。 マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。 マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。 ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。 雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。 心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。 ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。 エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。 つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。 体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。 強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。 「アップデートする仏教」藤田一照、山下良道 人間にとって最大のアディクションとはシンキングに対するアディクション。 仏教が教えとして骨身にしみるくらいわかる為には、大きなショックが必要。心臓を毒矢で射抜かれた若き獅子の如き状態。 デカルトは、根拠の曖昧なドグマを盲目的に信じている限り、真理に到達する事はできないから、まずはその真理に至る方法を確立しようとした。その方法とは、この世界のあらゆるものを分析していった果てに、お前の心に明晰なものだけを受け入れろ、そしてそれを少しづつ組み立てていけというもの。この疑いがないほど明晰な事が真理であるが、これを保証するものは神である。 行解相応(ぎょうげそうおう)、、、修行と教義理解のバランスが取れている事 マインドフルネスという言葉は、サティというパーリ語の英訳であり、アメリカで80年代から90年代にかけてベトナム僧のティクナットハンが広めた。サティとは、ビルマを中心とするテーラワーダ仏教の実践の中心の技術。 マインドフルネスとは、「今起きている事に判断を挟まずにはっきりと気がついている」事。「判断を加えないで」だけではなく、何か行為をする時に、「何の為にするのか思い出してから」やる事。 マインドフルネスの本質は、主体と客体が分かれていないところで気づく事。主体も客体もない非二元的な世界に入り、体の感覚だけがある世界に入っている。ここまで来て、「気がつく事=思いの手放し」になる。 ヴィパッサナー瞑想の究極の目的は生滅滅己(しょうめつめっち)。涅槃に入る事。この状態を始めて認識した時が道智、それを認識し続けるのが果智。 雲として生きるから青空として生きる。青空には認識する力と慈悲の力がある。自分が青空である事を自覚した時に初めて慈悲がリアルなものになる。 心に落ち着きがない状態をモンキーマインドと言う。 ハビットエナジー、、、長年染み付いた身心の癖。この核がエゴ。 エゴは、自分が幻である事を隠す為に、うわべは幸福になりたいというポーズをとるが、本当は自分をみじめな状態に留めておきたい。なぜなら、ネガティブエネルギーは実在感を得られる為。 つまり、「私が幸せでありますように”May I be well and happy”」と言うのは、エゴに対する死刑宣告。 体の微細な感覚を見る事で、シンキングマインドから解放され、慈悲の瞑想によってエゴにまとわりついていたハビットエナジーを根こそぎにする。そして最後に残る「気付いている意識」がマインドフルネス。 強為とは、俺が無理して強制的に何かをやろうとする行為。云為とは、頭を通さない、自発的で思慮分別をはさまない行為。強為では何も到達できない。
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