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今、日本の教育は危機的状況に陥っています。その根本原因は、文科省が《国の教育をコントロール出来ていない》からです。その証拠に、教育の場の学校で「イジメが激発しています」。こんな事態に文科省は、「イジメ問題」に触れないようにしています。逃げています。そんな状況なので、勇気を出して「教育の状況悪化の病巣」を探ってみました。…この後は、一緒に考えてください。
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Posted by ブクログ
朝届いて、すぐに読みました。 3つに要約すると、 1。日本の教育制度は、「決められない組織」であることが種々の問題(特にいじめなど)を生んでいて末期状態。 2。文科省にも、地方の教育委員会にも期待はできないので、学校単位での改革からはじめるしかない。決められない組織の原因はリーダーシップの欠如。その...続きを読むためには、「リーダーシップ」をもつ校長を送り込む。 3。学校では、自分の可能性に気づかせ、それを興味もって伸ばしていけることを教えるべき。また長期的にはまだWGIPの影響下にある。アメリカと交渉しやめさせる。 以下当方私見です。全体的には賛成。細かいところを見ていくと、少し議論をしたいところがあります。 1。については、「伝説の国語教師」と呼ばれた大村はま先生も同じことを言っておられる。「教えるプロ」としての意識の欠如。「責任を取る」という意識の欠如。一般社会において、お金をもらうその道のプロが「やってみたけどだめでした。お子さんに問題あります」などとどそんな甘いことがどうして言えるのかと。教育を仕事と対価という観点で評価が可能なのであれば、一般社会で、業務指示をうけて成果を出せねば、給料はもらえない。これあたりまえ。いわんや、「仕様書が。。。」とか「素材が。。。」ということは、業務の中で主体的に解決すべき課題。間違ってもそれに責任を転嫁することはできない。 2。については、その通りで、現実的・短期的にすぐできること、という面では、リーダーシップを理解し決められる組織に変えることのできる資質をもった人材を校長とすることはあるだろう。一方で、文科省が地方教育の指揮統制を放棄してしまい、地方の労組の影響力に委ねてしまい、いわゆる「指揮統制」が効かなくなってしまっているという事実は確かだが、その最も根幹にある問題は、「教育方針を国が決めない」憲法にしてしまっている点。どこの国も、教育は国の根幹として憲法に記されている。ただ日本だけが憲法外におき、「そのうえで」教育基本法を日教組に悪用されている。本質的には、教育を国の監督下にきちんとおくという憲法改正が必要。 3。WGIPの件は、最終章になんどもでてくるので、よくご存知と感じるが、一点大きく違うと感じるのは、いまWGIPを推進しているのは、ほかならぬ日本人自身であるということ。(あるいは何か今も米国がWGIPを直接的に行使しているという、新たな情報があるのだろうか?この件について、もっとも詳しい西鋭夫先生の話にはそう言った情報はなかったように思うが。。。私が知らないだけでしょうか?) 細かいところを言うと、リーダーシップ論については、ちょっと異論あり。 全体的に論調が、軍における指揮統制(command and control)の思想をベースとしている点が気になる。軍においてcomannd and controlは、「絶対」。そこでの軍令にもとづく上官と部下の間での関係をリーダーシップと考えると、それはちょっと違う。 またあわせて社会学における、現代の「リーダーシップ論の嘘」についても考慮必要。この本に書かれていない重要な点として、「リーダーシップ(なるもの)はどこから生まれるのか?」と言う点。文書に書かれいている範囲で理解すると、 「リーダーシップは、(リーダーシップ)教育なるもの」で必ず醸成される、という暗黙の前提に立っている。これはすなわち、今のリーダーシップビジネスが寄って立つところの基盤と全く同じ。またリーダーシップを「船長」や「いろいろこなせる人(=非対称な戦いにおける3-block-of-warに対応できるstrategic coorporalにも通ずる)」に例えて説明されているけれども、単なるリーダーシップの発揮は、船を目的の港に辿り着かせることも、反乱がおきて、船が沈むことも両方ある。いくら法律で定められようが、船が安全に航行できることのはリーダーシップそのもののおかげではなく、そのリーダーシップに従おうと船員を納得させる「何か」があるから。特に現代のリーダーシップ理論やリーダーシップ教育は、この「何か」をきちんと説明できず、リーダーシップの基本要素をあげつらい、それらすべての強化をこなせば、リーダーシップは情勢されるということになっている。成功事例として竹本氏の事例が挙げられているけれども、たとえリーダーシップを有している人が組織を率いても、組織員がそれに従おうという意識がなければ、その体制は形骸化する。四角四面な「あるべき論」を言っているのではなくて、つまりそれでうまくいったということは、「この人ならついていってもいい」と思わせる「なにか」があって、それがリーダーシップによって推進された、ということ。その「なにか」を竹本氏は持っていたからでそれについては残念ながら何も言及がなかった。 社会学においては、その「なにか」は「フォロワーシップ」とか「サーバントリーダーシップ(あえてリーダーシップという言葉を使って)」と呼ばれているもので、それはかつての日本を作ってきた学びのなかでは、きちんと教えていたもの。 リーダーシップとは、たんにある権威から与えられるものでもないし、外的ルールなどで保証されるものでもない。むしろ、「心の底から周りの人間が慕う」なにかを伴った時にはじめて、間接的に生ずるもの。 そのような本来のリーダーシップ、日本ではそれをフォロワーシップ的にきちんと教えていた。それが「修身」であり、戦前には「尋常小学修身課程」において1年から6年の間に教えられていた内容であり、たとえばそれは、「軍神」とよばれた橘周太中佐の生き様だったりする。 今の日本人は、かつての日本人が崇めていた「軍神」というものをきちんと理解していない。これもWGIPによる、自己嫌悪の刷り込みによる印象操作だが、かつて日本の軍神とは、西洋におけるワルキューレのような、戦場においてばったばったと敵を切り倒す殺戮の神などではなく、「人としての徳が極まった人格」をそなえた人のことをそう呼び、多くの人が慕い、そして後世までうけつぐために、銅像をたて、神社をたて、そうしてその名を顕彰しようとした。これがいわゆる、ビジネス化してしまったリーダーシップ論が教えられない本質である。(いまだに「リーダーシップ」という言葉が残っている唯一の理由は、それによって生計を立てているリーダーシップビジネスに従事している人たちが多くいるから。)リーダーシップとは、リーダーとしての知識を記憶すればできるわけではない。それはその人の修身によって醸成されるもの。 陸の軍神と慕われた橘周太中佐が、いつも持ち歩いていた手帳には以下の言葉が記されていた。 「兵休まざれば休むべからず、 兵食わざれば食うべからず、 兵と艱苦(かんく)を同じうし 労逸(ろういつ)を等しうするときは、 兵も死を致すものなり。 信用は求むるものに非ず得るものなり」 海の軍神と呼ばれた広瀬武夫中佐の旅順港封鎖作戦の時の話もまた有名で、これは尋常小学修身課程の中に出てくる。 つまるところ、他者のために生き、他者のために尽くせる(ここでは命を捧げることすら惜しまない)その姿勢が、部下を感化し、この人のためなら死んでもいい、と思わせるのである。このことは、戦場にあらずとも、企業でも学校でも、クラブ活動でも同じで、結局のところその身を如何に致すか、修身ということに尽きる。これさえ理解しておけば、たいそうな受講料をはらって西洋のリーダーシップ論など学ぶ必要はない。江戸期から明治初期においては、まだこの日本精神が死んでおらず、まさにそれを上から下まで実践していた人たちが多かった。その後日本精神の劣化は加速し、近代においてはそういったすぐれた人物は少なくなってしまった。(その一つの出来事は、やはり皇道派と統制派の対立であり、皇道派が死地に追いやられてしまった件はその象徴でもあろう) ここではリーダーと呼ばず、大将とよぶならば、大将の大将たるゆえんは、NLPのようなテクニックのくりかえしではなく、その行動の裏に確固たる信念を持っていることである。それはより大局的・俯瞰的な高みを目指す揺るぎない思想である。そういったものは残念ながら、いまどきの生業としてのリーダーシップ論では教えてくれない。むしろ日本人であれば、修身を学べばそれで十分。菅沼亭風もそれによって大志を抱いた。従属的学びなどは、いったん自らの志、使命というものを見つけたならば、あとは周りが何もしなくても自ずから進むもの。 最後に述べられている、教育に必要とされる多様性の話などは、やはり修身の教科書にでてくる上杉鷹山の師匠、細井平洲がすでに「嚶鳴館遺草」に書いているとおり。 「教育とは菊づくりにあらず。百姓が菜大根を作るが如し」 と。この言葉に言い尽くされていると思います。 時代はくだって、明治に入ってからも、約100年も継続した、豊後日田の教聖と呼ばれた廣瀬淡窓先生の咸宜園に受け継がれ、それが、高弟の長三洲によって明治学制に取り込まれた。江戸期の日本人は、こういうきわめてすぐれた多くの教育者を社会に擁していました。またその淡窓先生は、のちの近代教育の基礎となっていく、教科、昇級試験、卒業といった仕組みが、学びのたりない指導者によって不用意に運用されると、点数ばかりを取る人間ばかりになり、社会にむしろ悪影響を与えることさえ、危惧されていた。実に先見の明ありと言わざるを得ない。今の世の中は、結局のところそのとおりになってしまっている。 淡窓先生曰く 「月旦評を作り、門人を誘掖す。是、門下の所を以って盛ん也。然れども亦、其の弊少なからず。諸生の課程、外に務め、而して内に廃す。名を取り、而して実を捨て、今、之を矯(た)めるを欲す。而して、三十年の旧習、遽変すべからず。須(すべから)く善功方便、之を誘い、以って虚名之の地を離れ、而して、実践の域に入る。此の工夫、亦容易ならず。」 如何に日本人が、祖先の学びをしらないか、そして知らないが故に、結局祖先が心配していたことを引き起こしてしまっている。それでいて、なにやら現代人は、発展しているかのような勘違いをしている。むしろ、日本人の劣化、いまにおいて極まれり、と言わざるを得ない。
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